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第二十六話 歴史を変える夜




「近藤先生」


いよいよ出陣しようというその時だった。林太郎は近藤に声をかけていた。


「おう。どうした、林太郎」


近藤は林太郎の方を振り返った。これから戦が始まるというのに、少しも迷いのない表情だった。

林太郎はその顔を見て安心しつつも、遠慮がちに口を開いた。


「その……総司のことなんですが」


「総司か。総司がどうした?」


「その……」


林太郎は言い淀んだ。


その時、何かを察したのか総司が駆け込んできた。そして、近藤の背後でこれでもかと言うほど必死に首を横に振っていた。

林太郎は怪訝そうな表情になった。


「実は、総司は、ろ……」


「兄さん!」


総司が大声を出したので、近藤は大きく肩を揺らした。


「なんだ、総司。いたのか」


近藤は今度は総司の方を振り返った。

近藤を通して、兄弟の無言の攻防が繰り広げられていた。


「兄さん、お願いだよ」


総司が懇願するような声を出した。林太郎はそれを見て、どうしようもないように顔を歪めた。


「兄さん」


「……」


林太郎は黙っている。自分がどうするべきか、考え込んでいた。


「林太郎、総司に何かあったのか」


近藤は林太郎の方に向き直った。

さすがは試衛館の道場主である。総司はもちろん、林太郎とは比べ物にならないくらい長い付き合いだった。近藤は林太郎が何か言いたげなのを察していた。


「いや、その……」


「何だ。何かあるなら言ってみろ」


近藤の背後で、総司が泣きそうな顔でさらに首を横に振っているのが見える。


「いえ。その、総司は……えっと、風邪を引いているみたいなので。

なるべく、無理をさせないでいただけると」


林太郎がそう言い切った瞬間、総司の表情はみるみる安心したようなものに変わっていった。林太郎は思わず総司を睨んだ。


(次はないからな)


林太郎は目線で総司に語った。


「そうか!はは、お前は本当に心配性なんだなあ」


近藤は豪快に笑ってみせると、再び総司に向き直った。


「総司、熱はないのか」


「大丈夫ですよ、近藤先生!少し咳が出るだけで。本当に、大したことないんです」


総司が自信ありげにそう言うと、近藤はホッとしたような表情で総司の肩を叩いた。


「林太郎。こうは言っているが、俺もなるべく総司に目を向けるようにするよ。

だから、お前が心配しているようなことにはならないさ」


「……はい」


近藤のその言葉に、林太郎はそう返事をするしかなかった。







「なぜ私を?」


新撰組は、既に屯所を出て宿の捜索を開始していた。林太郎と山南を先頭に、隊士たちは無言のまま夜道を急いでいた。

林太郎に尋ねたのは山南だった。


「山南先生」


林太郎は決意したようにその名を呼んだ。

しかし、その声は些か震えているようにも聞こえる。


「俺たちは進路を変える」


「……は?」


山南が素っ頓狂な声を上げた。


「今から、池田屋へ向かう」


林太郎はそう言い切った。林太郎の後ろに続く隊士たちにもざわめきが広がった。


「しかし、林太郎さん…我々が最初に当たるのはこの宿です」


地図を指差しながら、困惑したような表情を浮かべたのは河合耆三郎(きさぶろう)という男だった。新撰組では、勘定方を務めている。


「いや、いい。そこには連中はいない」


河合は何か言い返そうとしたが、林太郎の強い口調に思わず口を噤んだ。


他の隊士らも同じだった。皆何か言いたげな表情だが、一応は副長助勤である林太郎に、声を上げることができないようだった。


「どういう算段ですか」


この場で、林太郎にそう言い返せるのは山南だけだった。山南は鋭い視線を林太郎に浴びせた。


「そのためにあなたを連れてきた」


林太郎は決死の表情で山南の肩を強く掴んだ。

山南はまたもやひどく驚いた表情を見せた。


―― この男は、林太郎は。このような男だったか?

何かが、彼を変えてしまったのか。


試衛館にいた頃から林太郎と関わりのある山南は、違和感を感じずにはいられなかった。


「皆も、頼む」


林太郎は後ろに続く隊士たちに、深く頭を下げた。

隊士たちは林太郎の度重なる奇行にぎょっとした。突然進路を変更すると言い出したかと思えば、今度は部下に向かって頭を下げるとは。


「連中は()()()池田屋にいる。

しかし、他の隊が着くまで時間がかかるだろう。その間、俺たちだけで持ち堪えなければならない。

――もしかしたら、斬られるかもしれない」


夜風が吹き、祭りを楽しむ人々の声がどこか遠くに響いていた。

隊士たちは思わず息を呑んでいた。


「なんだ、そんなことですか」


その中で、一際明るい声が響いた。


「斬られる覚悟がない奴なんて、ここにはいませんよ。それより、むしろ――」


男は刀の柄を握り直した。


「俺たちが先に行って、それで京の街を守れるなら。

これほど、新撰組の者として嬉しいことはありません」


男は林太郎に改めて向き直ると、そう言って微笑んでみせた。

男は松原忠治(ちゅうじ)という隊士だった。組の中では、特に柔術に長けている隊士で、彼も浪士組ではなく京から新撰組に入隊した者だった。


「絶対に、池田屋にいるんですね」


山南が林太郎に再び尋ねた。山南にしては珍しく、強い口調だった。


「はい。絶対に、います」


林太郎は即答した。


「林太郎。なんだか、君は変わりましたね」


山南は穏やかな声に戻っていた。その瞳は、どこか遠くを見つめている。


「いいでしょう。私も君を信じる」


山南は林太郎の目をまっすぐ見て、深く頷いた。


「お前たちも、いいな!俺たちが京の街を守る!そのためには命だって惜しまない、そうだろう!」


松原が隊士たちに向き直って大声を上げた。

松原は、殺伐とした新撰組の中でも性格は明るく温厚な方で、人望のある男だった。


隊士たちもその声を聞いて、決意したような表情に切り替わっていくのが見えた。


「私も、やっと養父上(ちちうえ)に良いところが見せれます」


どこかあどけない笑顔を見せたのは近藤周平だった。近藤勇の養子に入った男だった。


「皆、ありがとう……」


林太郎は隊士たちを見渡して、再び深く頭を下げた。


「この恩は絶対に忘れない」


「善は急げです。走りましょう」


林太郎が感傷に浸る間もなく、山南が早口でそう言った。

林太郎もその言葉に頷くと、京の街を走り出した。







「新撰組だ!御用改めである!」


林太郎は池田屋の扉を乱雑に開けた。

宿の中は、しんとしていてやけに静かだった。


「へえ、何でしょう」


奥から主人の男が出てきて、林太郎たちの前に正座した。


「悪いが、中を改めさせてもらうぞ」


「ちょ、お待ちください!」


林太郎は主人の静止も聞かず、土足で中に足を踏み入れた。後ろに続く隊士たちもそれに続く。


「あなたたちはここで待つように」


山南は二階に続く階段の前で立ち止まると、隊士たちにそう告げた。

そして林太郎の山南の二人が、忍び足で階段を登って行った。


(室内戦か……)


表では平気な顔をしているが、実際のところ林太郎はかなり緊張していた。自身のものとは思えないほど、心臓の音が大きく聴こえた。


思い出すのは、もはや遠い昔の記憶と言っていい。

――戊辰戦争中、天童の戦いのことだった。天童藩を追い詰めた酒井玄蕃率いる新徴組は、そのまま陣屋に攻め込み最後には焼き払った。


(あの時は、勝てた。しかし今回は……)


あの総司ですら苦戦した相手だ。気配からして、人数も多い。


――負けるのが、怖い。


実際、林太郎は負け戦というものをほとんど、経験したことがなかった。戊辰戦争においても、新徴組を預かる庄内藩は、一度も負けなかった。


「林太郎」


山南が囁き声で林太郎を呼んだ。


それでも、戦わなければならない。総司はここで、池田屋で、血を吐いたのだ。ならば、自分が先手を打てばいい。総司に、無理をさせてはならないから――


「……」


林太郎は黙ったまま、山南の顔を見て深く頷いた。

そして、勢いに任せて目の前の襖を一気に開ける。


――当たりだ。


部屋には古高の仲間と思われる不逞浪士たちが既に刀を抜いて待ち構えていた。


「林太郎」


山南がもう一度林太郎の名を呼んだ。これから戦をする者とは思えないような、どこか浮ついた声だった。


「君に賭けて正解だった」


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