第二十二話 大雨の夜
翌日の朝だった。
「林太郎」
近藤の声に、林太郎は顔を上げた。
近藤の表情を見た瞬間、林太郎は胸がざわつくのを感じていた。
「落ち着いて聞いてほしい。新見先生が――」
「結局こうなったじゃねえか」
土方が吐き捨てるように呟いた。
「そんな言い方はよせ、トシ」
「事実だろ」
近藤は何かを言い返そうとしたが、声は出なかった。
というのも、土方の言うことも概ね正しかった。
新見錦は、自室で腹を切った状態で発見された。
朝餉を運んだ隊士が部屋へ入った時には、既に息絶えていたという。
――どうしてこうなった。新見さんは切腹なんてする必要なかった。
どうして、自ら死を選んだ。
林太郎の胸には、やり場のない思いだけが残った。
「しかし、新見先生が亡くなった以上、我々も覚悟を決めねばなりません。重要なのはこれからだ」
声を上げたのは山南だった。
「ああ。準備は整った。あとは本丸を斬るだけだ」
土方の声に迷いはなかった。山南も静かに頷いた。
「実行は俺と山南さん、総司と原田でやる。いいな」
「……待て」
「今度は何だ」
こいつはどうしていつも自分にこう刃向かってくるのか。土方は呆れたような表情で林太郎を見た。
「俺が総司の代わりに行く」
「ちょっと兄さん、何勝手なこと言って―」
「俺のせいだ」
近藤がぎょっとした顔で林太郎を見た。
「そんなことない、お前は……」
「近藤さん、もういいだろ。言ってみろ」
土方が林太郎に視線を移した。
「俺のせいで、新見さんは死んだ。
だからそのけじめは俺がつける」
「お前に芹沢が斬れるのか」
土方は鋭い視線を林太郎に注いだ。
部屋に重苦しい沈黙が落ちた。その場にいた誰もが、固唾を呑んでその様子を見守っている。
「斬れなかったら、俺が斬られるだけだ。
その時はお前が芹沢先生を斬る」
林太郎は土方からの視線を真っ向から受け止めていた。
「何言ってるの兄さん、滅茶苦茶だよ!」
総司が声を荒らげた。
「土方さん、やっぱり僕が行きます。兄さんじゃ無理だ」
「いや、いい。林太郎に行かせよう」
「土方さん!」
「思い返せば、こいつは芹沢にいたく気に入られていたしな。近づく口実くらいにはなる」
土方の言葉に、総司は思わず言葉を失った。
「これで決まりだ。いいな」
「……はい」
山南が何とも歯切れの悪い返事をした。
「おい待て林太郎!何もお前がそこまで汚れ役を進んで引き受けることはない!」
「近藤さん。汚れ役ではありません。
自分のしたことには責任を持つ。それが武士でしょう」
「それは違う。新見先生の死はお前一人の責任じゃない!」
林太郎は近藤の言葉に一瞬立ち止まったが、振り返ることはしなかった。
「……失礼します」
それだけを残し、林太郎は部屋を出た。
決行の夜は、激しい雨が降り続いていた。
「芹沢は寝た。平山と平間も」
土方が屯所の障子から忍び足でやって来た。
庭には、山南、原田、そして林太郎が静かに待機していた。
「芹沢も馬鹿だよなあ。酔っ払って女と寝ちまうなんてよ」
原田が乾いた笑いを零したが、その声はすぐに雨音に掻き消されていった。
「土方さん、お酌のお役目ご苦労さまでした」
「ああ。相当な量だ。あれはしばらく起きねえぞ」
山南の言葉に、土方の口元に一瞬だけ笑みが浮かんだ。だが次の瞬間には、いつもの鋭い表情に戻っている。
「林太郎、お前も今更迷うなよ」
押し黙っている林太郎を見て、土方は釘を刺すような口調でそう言った。
「……ああ、わかっている」
林太郎は雨で濡れた刀の柄をそっと握り直した。
土方の合図で、四人は刀を抜き一斉に動き出した。
山南と原田は平山と平間の部屋へ。
芹沢の部屋へ向かったのは土方と林太郎だった。
土方が障子を一気に開け放つ。
そこには芹沢と愛妾のお梅が、同じ布団で寝息を立てていた。
土方と林太郎は無言で目を合わせると、刀を芹沢へ突き刺す――はずだった。
「芹沢、せんせ……逃げて……」
違う。斬ったのは芹沢ではない。お梅だった。
お梅は芹沢を庇うようにその身を投げ出し、背中に刃を受けていた。
土方と林太郎が息を呑んだ、その刹那だった。
その間に、芹沢は布団を蹴飛ばして跳ね起きていた。手には、すでに抜き身の刀がある。
「……そういうことか」
芹沢は土方たちへ視線を走らせると、刀を構えた。
そこに先程までの酔態はない。獲物を前にした獣のような鋭い眼光が、二人を射抜いていた。
「土方と……」
芹沢の視線が二人の顔を順に追う。
「……そうか、林太郎。お前が来たか」
その声には怒りも驚きもなく、まるでそれが当然の帰結であるかのような平坦な声だった。
直後――
ガキン!
土方の刃が閃く。
しかし芹沢はそれを見切っていた。鋭い金属音と共に、二振りの刀が火花を散らす。
「甘ぇな、土方」
芹沢がわずかに口の端を吊り上げ、土方の刀を弾き飛ばすように押し返した。
土方が二、三歩後退る。
「林太郎!」
土方が苛立ったような声を出した、その刹那。
芹沢の蹴りが土方の脇腹へ突き刺さる。
「がっ――」
土方の身体が障子を突き破り、隣室へ吹き飛んだ。
静寂が落ちる。
「ほら、来いよ林太郎。次はお前だ」
芹沢はゆっくりと林太郎に向き直った。
林太郎もまた刀を青眼に構えた。
両者は睨み合ったまま、円を描くようにじりじりと足を運んだ。
「……」
「どうした、来ねえのか。お前らしくない」
「……あなたに俺の何がわかると言うんです」
「わかるさ。少なくともお前の仲間連中よりはな!」
芹沢はそう言い切る前に、目にも止まらぬ速さで踏み込んだ。
林太郎も反射的に刀を上げたが――
「くっ……!」
芹沢の刀は林太郎の肩口を浅く斬り裂き、鮮血が飛び散った。
「その程度の覚悟で俺を斬りに来たのか」
芹沢は林太郎を見下ろし鼻で笑った。
「……芹沢先生」
林太郎は肩口から流れる血を押さえたまま、俯いていた。
「あなたの目は正しかった」
林太郎は刀を杖代わりに、覚束無い足取りで立ち上がった。
「俺はあの時、嘘をついた」
「何?」
芹沢の眉がわずかに動いた。
「何人斬ったか、ですか?」
林太郎はゆっくりと顔を上げ、芹沢の目を真っ直ぐ見返す。
「そんなの――わからないですよ」
芹沢の目が大きく見開かれた。その瞬間だった。
「……がっ」
芹沢の胸を、背後からの刀が貫いていた。土方だった。
芹沢の口から血が溢れ出た。
「そして、芹沢先生。
―― あなたのことも、もう数えない」
林太郎は迷わず刀を突き出し、深々と芹沢の腹を貫いた。
土方と林太郎が刀を引き抜く。
芹沢はふらつきながらも踏みとどまった。その鋭い眼光だけは、なお失われていない。
だが次の瞬間、巨体は力尽きたように崩れ落ちた。
芹沢は血に濡れた畳の上で荒い息を繰り返しながら、ゆっくりと林太郎へ視線を向けた。
「林太郎……俺はお前を、理解してみたかった……」
「……俺も、あなたのことを知りたかった」
林太郎がようやく絞り出した声は――芹沢に届くことはなかった。
「芹沢、せんせ……」
向こうの部屋から、一人の女が這い出てきた。お梅だった。
血に濡れた指で畳を掻きながら、それでも芹沢の亡骸へ手を伸ばしていた。
「何か言い残すことはあるか」
林太郎は静かに問うた。
お梅はもう助からない。せめて最期くらいは、苦しまずに逝かせてやろうと――林太郎は刀を構えていた。
お梅はゆっくりと顔を上げた。
「あの人は……あんたを気に入っていたの……」
お梅は掠れた声を出した。
「林太郎さんなら……あんたなら分かり合えるかもしれないって、そう言ってたわ……」
林太郎の瞳が揺れる。
お梅の美しい顔は涙と血に塗れ、今は見る影もなかった。
「なのに、どうして……どうしてこんなこと……」
お梅の瞳から、涙が零れ落ちる。
流れ出た血は畳を染め上げ、部屋はまるで血の池のようだった。
「あんたは、地獄に落ちる……そうじゃなきゃ……」
「もういい」
刀を握ったまま立ち尽くしている林太郎を見かねてか、前に出たのは土方だった。
土方の刀が振り下ろされ、お梅は芹沢の亡骸に手を伸ばしたまま――静かに事切れた。
「安心していい」
林太郎はお梅の亡骸に歩み寄ると、開いたままの瞼をそっと閉じさせた。
「――もう、とっくに地獄だ」




