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第十九話 八月十八日の政変



それからおよそ二月のことだった。


季節はすっかり梅雨を迎え、朝から滝のような雨が降り続ける一日だった。


「よく降るなぁ」


総司が障子の隙間から空を見上げて呟く。

空は重たい雨雲に覆われていた。


「ったく、俺たちは上様をお守りするために京に残ったってのに。こんな部屋でダラダラしてていいのかよ」


「仕方ないだろう。命令があるまでは動けん」


原田と永倉が口々にそう呟いた。


しかし、彼らの言うことも一理ある。壬生浪士組が会津藩の預かりとなってしばらく経った今でも、表立った仕事はほとんどない。


林太郎は拍子抜けするようだった。





その時、障子の向こうの廊下からドタバタと忙しない足音が聞こえた。


林太郎は少しだけ開いていた障子を一気に開け、やって来た人物の顔を見上げる。藤堂平助だった。


「何があった」


「それが……」







「なんじゃあこりゃあ……」


原田が息を漏らした。


林太郎は平助に連れられ、総司たちと共にある料亭に来ていた。


「……死んでいるな」


倒れている力士の顔を一瞥した永倉が呟く。

体には、大きな切り傷が刻まれていた。




「よう。お前らも来たのか」


「芹沢さん!」


奥の部屋から、襖を開けて出てきたのは芹沢だった。

いち早く反応したのは総司だった。


「……芹沢先生がやったのですか」


現れた芹沢を見て、林太郎が問いた。


「俺に道を譲らなかったのが運の尽きだな」


芹沢はそう言い切ると、口元をわずかに歪めてみせた。


一同はそのあまりの横暴さに、思わず口を噤む。


「でも、何もここまでしなくてもいいんじゃないですか。ねえ芹沢さん」


最初に沈黙を破ったのは総司だった。


「会津藩お預かりである壬生浪士組が、そんな弱腰でどうする!」


芹沢が突然大声を上げたので、総司はびくりと肩を揺らした。

その様子を見て、林太郎は思わず眉をひそめた。


「芹沢先生、」


「なぁ林太郎。お前はそんな甘え事言わないよな」


芹沢が林太郎の方へ視線を移す。

林太郎は芹沢の顔をじっと見た後、静かに目を伏せた。


「……総司、力士を運ぶぞ。永倉と原田は、トシにこのことを伝えろ」







その後も、芹沢とその一派らは京の街で狼藉を繰り返した。


「なんでも、商家に押し入り金を要求し、それを拒否した場合には好き勝手暴れ回っているそうです」


そう告げたのは山南だった。

その表情が事態の深刻さを物語っていた。


「しかも、押し入る時は会津藩お預かりの壬生浪士組だとご丁寧に名乗ってるそうじゃねえか!」


原田が憤慨したように叫んだ。


「近藤さん、このままじゃ壬生浪士組の評判は地に落ちる一方だ。芹沢をこのままにしておく訳にはいかねえ」


土方が腕を組みながらそう言うと、集められていた試衛館一派も大きく頷いた。皆同じ思いのようだった。


「しかし……」


答えを出すよう詰め寄られた近藤の返事は、何とも歯切れの悪いものだった。


「近藤さん!」


「……皆の気持ちもよくわかる。だが、芹沢さんも極悪人という訳でもないだろう」


「そんなこと言ってる場合か!」


「いいんじゃない、近藤先生がそう言うなら僕は従うよ。

それに、芹沢さんも悪い浪士と繋がってる商家を選んでるみたいだし」


決断を迫る土方に対し、場に似合わぬような明るい声を上げたのは総司だった。


総司の言っていることは概ね事実だった。一同は何も言えなくなり黙り込んだ。




「林太郎、君はどう思うのかな」


ふと、思い出したかのように山南が声を上げる。


「山南さん。なぜ俺が」


「君は我ら試衛館の中では、芹沢先生との距離が最も近いように見える。ぜひ意見を聞きたい」


山南の考えに皆納得したようで、一斉に林太郎の顔を見つめる。


「俺は……」











それから季節は過ぎ去り八月となった。

夜になっても蒸し暑さの続く日だった。


「早く、こちらです!」


林太郎と総司はまたもや平助に連れられ、京の街を駆けていた。


「これは……」


総司が息を呑む。

見上げた先には、夜空を赤々と染める炎が立ち上っていた。


「どういうことだ」


林太郎は隣にいた土方に声をかける。


既に、多くの隊士たちが騒ぎを聞きつけ集まっていた。


「芹沢だ。金策を拒絶されたから火をつけやがった」


土方が吐き捨てるように呟いた。


「もうわかっただろ。あいつはああいうやつなんだよ」


土方は畳み掛けるようにそう言うと、足早にその場を去って行く。火消を呼びに行くようだった。


林太郎は燃え盛る炎に視線を移した。舞い上がる火の粉と鼻を突くような煙の匂いに、思わず顔を顰めた。


ふと、芹沢と目が合う。


「おう、お前か」


「何をしているんですか」


「何って、見りゃわかるだろ」


芹沢はそう言って口の端を吊り上げると、周囲の怒号など聞こえていないかのように悠然と酒を口に運んだ。


「……」


林太郎は何も答えず、眉をひそめた。




「兄さん、土方さんが呼んでる!手伝ってほしいって!」


いつの間にか人混みの向こうにいた総司が、大声を出した。


「わかった、今行く」


林太郎は芹沢の顔をもう一度見ると、そのまま総司の方へ走って行った。







それからわずか数日足らずのことだった。

文久三年八月十八日。


「下知があったぞ!!」


今か今かと出陣の時を待っていた隊士たちは、その声を聞いて一斉に立ち上がる。


「我々は御所をお守りする。決して長州を通すな!」


「応!!」


隊士たちの怒号が響く。

林太郎も刀を握り直した。

御所の周囲には会津藩、薩摩藩の兵が配置され、京の街は異様な緊張に包まれていた。




しかし――。


結局、隊士たちが刀を抜くことはなかった。

長州藩兵たちは兵を引き上げ、御所へ現れることはなかったのである。

戦は起きなかった。


だが、この日を境に京の勢力図は大きく塗り替えられることになる。




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