第十四話 酒井玄蕃
「あそこだ!逃がすな!」
林太郎が駆け出し、良之助も後を追う。
薩摩藩士たちは既に船に乗り始めていた。
「クソ、数が多すぎる…!」
林太郎も良之助もすぐに逃げようとする薩摩藩士たちに追いつき、二人、三人と斬り伏せていった。
しかし薩摩藩士たちの流れは止まらない。
「早く乗れ、早く!」
既に船に乗っている薩摩藩士の叫び声が聞こえる。
「待て!行かせるか!」
林太郎が叫び、また一人を斬り倒す。
それでも藩士たちは戦おうとしない。ひたすら海に向かって一直線に走って行く。
「二人とも伏せよ!よし、放て!」
唐突に背後から声がする。
林太郎と良之助は咄嗟に身を沈めた。聞き覚えのある声だった。
直後、乾いた銃声が一斉に鳴り響き、逃げ出す最中の薩摩藩士たちが何人か倒れた。
合図をしたのは権十郎だった。
「松平様!」
「お主ら、よくここを嗅ぎつけたな!我らも加勢する!一人たりとも逃がすな!」
「最初からそのつもりです!」
良之助に代わり、答えたのは林太郎だ。
二人はまた刀を構え走り出した。
結局、薩摩藩士たちは多くが船に乗って逃げて行った。もちろん、林太郎と良之助で何人かは斬り伏せた。
しかし、歴史は変わらなかった。
「あんなに必死な林太郎、初めて見たよ」
「そうかな」
「お前はこういう無茶は嫌いだと思ってた。
それともまた弟のためか?」
良之助が悪戯っぽく笑ってみせた。
「総司のこともあるが……。
江戸でこうなった以上、きっと京でも戦になるだろ。ここで敵を一人でも減らせれば、新撰組の誰かが助かるかもしれない」
もっとも、焼け石に水だろうがな。林太郎はそう付け加え、沖へ視線を向けた。
「はははっ、変なやつ」
良之助は何が面白いのか声を上げて笑い始めた。
「おい、なにがおかしい」
「いや、ごめんごめん。お前って案外優しいよなと思ってさ。そんな愛想のない顔してるくせにな」
良之助は依然楽しそうに笑っている。
沖へ沈もうとする夕日が、良之助の横顔を同じ色に染めていた。
「愛想がないは余計だ」
「本当のことだろ」
林太郎は総司の顔を思い出していた。たしかに、自分は弟にはちっとも似ていない。総司に比べれば、俺も無愛想な方なのだろうか……林太郎がそんなことを考え始めた時だった。
「林太郎、お前京へ行けよ」
良之助のその言葉に、林太郎の思考は一気に現実に引き戻された。
「……何を」
「肩の傷も治ったようだし、俺にもうお前を止める理由はないさ。
それに、最近のお前と来たらずっと心ここに在らずみたいな顔してさ。行きたいんだろ、弟のところに」
「それは……」
林太郎はしどろもどろになっていた。
良之助の突然の発言に、驚きを隠せないでいたのだ。
「それに、京でも戦になるかもしれないんだろ。
行ってやれよ。その前に」
「……止めないのか」
「止めないさ。俺だったら行ってるだろうし。
兄ってそういうもんだろ」
良之助はそう言って笑ってみせた。
二人の前には、茜色に染まった海がどこまでも広がっていた。
「林太郎さん、本当に京に行ってしまわれるのですか」
いよいよ戊辰戦争の火蓋が切られ、新徴組は江戸を離れ庄内へ引き上げることになっていた。
発端は言うまでもなく、薩摩藩邸焼き討ち事件であった。
「ああ。お前は芳次郎と先に庄内に向かっててくれ。俺も後からすぐに追いかけるから」
「でも……」
みつは心配そうに林太郎を見つめた。
みつの心配も当然のことである。戊辰戦争が始まった今、京へ行くのは自殺行為と言っていいほど危険なことだった。
「芳次郎。みつのこと、ちゃんと守るように」
「はい。父上も死なないように気をつけてください」
「うん、わかってる……」
林太郎はこんな時でも変わらない芳次郎に気の抜けた返事をしたが、どこか安心感もあった。
芳次郎には今まで何度も振り回されてきたが、いざという時には頼りになる。林太郎はそう思うようになっていた。
「では、行ってくる」
「林太郎さん」
屋敷を出ていこうとする林太郎をみつが呼び止める。
「どうした」
「絶対に、帰ってきてくれますよね?あなたは死んだりしないですよね?」
みつの顔は悲痛に包まれていた。
それを見た林太郎は言いようのない罪悪感に苛まれたが、深く頷いてみせた。
「約束する」
「絶対ですよ?約束ですからね」
みつは涙声ながらも、林太郎の手を力強く握ってそう言った。
「そういえば、僕も父上に言い忘れていたことがありました」
「なんだ、芳次郎」
なんだか今から俺が死ぬような言い方じゃないか。林太郎はそう思い苦笑いを浮かべたが、当の芳次郎は至って真面目な顔をしていた。
「お土産は八つ橋がいいです」
林太郎は家族の住む屋敷を後にし、新徴組の屯所を出るところだった。
「どこへ行くのかな?」
背後から声がかかる。林太郎にとっては、懐かしい声だった。
できれば、振り返りたくなかった。
「いえ。あの少し……野暮用が」
「なるほど。野暮用か」
林太郎の前に現れたのは、鬼玄蕃こと、酒井玄蕃であった。
歳も若く、まるで天使のような顔をしている。しかし、戦が始まるやいなや、その名の通り鬼のようになると諸藩から恐れられていた庄内藩の家老であった。
この後の戊辰戦争においては彼が新徴組の指揮を執ることが多く、林太郎にとっては何度も見た顔だった。
「随分と大荷物だ」
玄蕃のその言葉に、林太郎は思わず大きく肩を揺らした。
「無理なお願いであることは百も承知ですが……どうか止めないでいただきたい」
ここで止められてしまっては京へ行くことはもう二度とできない。そう思った林太郎の声は切実だった。
「これから戦が始まると言うのに、君は逃げる気かな?家族も置いて」
玄蕃の声色は柔らかいが、視線は刺すように鋭い。
「逃げはしません!必ず戻ります。弟も連れて」
「ほう。弟君と」
「弟も、俺の家族です」
林太郎はもう一度頭を下げた。
玄蕃はその様子を黙って見つめている。
「あの、玄蕃様……」
林太郎は耐え切れず頭を上げ玄蕃の顔をそっと盗み見た。
一回目の人生でも、彼はこういう人だった、と林太郎は思う。掴みどころがなく感情が読めない。
「そうだね。弟だって家族の一員だ。
会えるうちに会っておいた方がいい」
「!」
「無事に帰って弟君を私にも会わせてほしい。
君をそこまで突き動かす人物を、私もこの目で見てみたいからね」
玄蕃の天使のような微笑みを見て、林太郎はまた深く頭を下げるほかなかった。




