第六話 診療所
初七日を明日に控えた朝、母は仏壇の花を替えていた。
春人は廊下からその背中を見ていた。ゆうべの電話の声が、まだ耳に残っている。分かってます、恒一さん。あの子は東京に戻ります。
――母さん。父さんは、家で倒れたんじゃないよな。
喉まで出かかった言葉を、春人は飲み込んだ。推理ゲームなら「追及」コマンドを選ぶ場面だ。証拠を突きつけ、相手の顔が歪み、真実が語られる。だが目の前にいるのは容疑者ではなく、一週間前に夫を亡くした母だった。もし母が嘘を知らずに信じているのなら、追及は母の中の父の死を、二度目の死に変えてしまう。
証拠が足りない。撃つのは、まだだ。
春人は静かに靴を履いた。行き先は決めていた。診療所。あの夜、父が運び込まれた場所。そして――ゆうべから何十回も脳内で予行演習してきた、麗奈への謝罪が待っている場所。
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歩きながら、春人は頭の中のフローチャートを最終確認した。
恋愛ゲームにおいて、怒らせたヒロインへの謝罪イベントは定番中の定番だ。成功の条件は三つ。第一に、タイミング。怒りの直後は避け、一晩置く。クリア。第二に、誠意の可視化。手土産、それも相手の好みを踏まえた品。東京から持ってきた菓子が旅行鞄に残っていた。クリア。第三に、正しい選択肢。言い訳をせず、まず非を認める。「あのときは本当にごめん」から入り、相手の言葉を待つ。復唱、共感、それから本題。
完璧だった。少なくとも、防波堤を過ぎるあたりまでは完璧だった。
診療所が見えたところで、春人の足は勝手に遅くなった。
――待てよ。これ、また「攻略」じゃないのか。
あんた、あたしを攻略しようとしたでしょ、今。
昨日の麗奈の声が、フローチャートの真ん中に突き刺さっていた。謝罪の手順を最適化するという行為そのものが、麗奈の言う「目が、あたしの後ろを見てる」ということなのではないか。だが、手順を捨てたら何が残る? 台本のない会話を、春人は七年間、画面の外でほとんどしてこなかった。
答えが出ないまま、診療所の自動ドアが開いた。
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待合室には、老人が四人いた。
四人の会話が、春人が入った瞬間にぴたりと止まり、三秒後に天気の話として再開された。もう慣れた。島に来て十日で、春人は「自分の登場で会話が止まる音」を聞き分けられるようになっていた。
受付の向こうに麗奈が見えた。麗奈は春人に気づき、一瞬だけ目を合わせ、それから仕事の顔に戻った。追い返されはしなかった。それだけで、今日の運勢の上限としては十分に思えた。
診察終了の五時まで、春人は待合室の隅で待った。
途中、手持ち無沙汰にスマホを開くと、自社のスマホゲームがログインボーナスの通知を出していた。会社を一週間以上休んでいるのに、画面の中では毎日が正常に回り、石が配られ、期間限定イベントのカウントダウンが進んでいた。春人はそのイベントの担当だった。何万人ものプレイヤーが、今この瞬間も、春人の設計した「謎」を快適に解いているはずだった。ヒントは三段階、詰まったら救済、正解すれば必ず報酬。プレイヤーを絶対に置き去りにしないのが、春人の仕事だった。
――現実の謎ってのは、誰が設計してるんだろうな。
ヒントは出ない。救済もない。正解しても、報酬がある保証はどこにもない。春人はアプリを閉じた。ログインボーナスは、受け取らなかった。
三時間の間に、老人たちの会話は天気から台風の進路、台風から農協の人事、そして誰かの噂話へと流れていった。その中に、一つ、聞き捨てならない名前があった。
「宮田さんとこの娘さん、ほんとに急だったねえ」
「ねえ。健一さんの四十九日も待たずに、内地へ行っちまって」
「なんでも、辞めさせられたって話も――」
そこで老人の一人が春人の存在を思い出し、話は唐突にゲートボールの話題に変わった。
宮田。
春人はスマホにメモを打ち込んだ。振り仮名も漢字も分からない。だが、父の死の直後に診療所を辞め、島を出た人間がいる。麗奈の言った「あの夜、当直だったのは、あたしじゃない」という言葉と、線が繋がった気がした。
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五時半、裏口から出てきた麗奈は、待っていた春人を見ても、驚かなかった。
「……いると思った」
「ちょっとだけ、いいか」
二人は診療所の裏手の、防風林の切れ目に立った。西日が海に落ちかけて、麗奈の白衣の裾をオレンジに染めていた。
春人は、紙袋を差し出した。準備した台本の、一行目を開いた。
「昨日は、本当にごめん。おまえの立場も考えないで――」
「それ、ゆうべ何回練習した?」
台本が、一行目で燃え尽きた。
麗奈は腕を組んで、春人をじっと見ていた。怒っているのではなかった。テストの答案を眺める教師の目だった。
「あのさ、春人。謝り方が上手いんだよ、あんた。間の取り方も、目線も、袋の出し方も。……上手すぎて、嘘みたいなの」
「…………」
「本当のことだけ言って。練習してないこと」
風が防風林を鳴らした。春人は口を開き、閉じ、もう一度開いた。フローチャートのどこにもない場所に、突き落とされていた。持ち時間だけが過ぎていく。そして、限界まで追い詰められた口から、勝手に転がり出たのは、謝罪ではなかった。
「……七年帰らなかったのは、親父と喧嘩したからだ」
麗奈の眉が、わずかに動いた。
「ゲーム会社に決まったって報告したら、親父に言われたんだ。『そんな、人の暇を潰すだけの仕事のどこがいい。島に戻って、地に足のついた仕事をしろ』って。俺、言い返した。あんたみたいに、島から出られなかった人間に何が分かるんだって。……そのまま船に乗った。それっきりだ。電話も、盆も正月も、全部逃げた。謝るタイミングなんて、いくらでもあったのに、全部逃げて――そしたら親父、死んだ」
声が、途中から自分のものではないみたいに震えた。
「事件を調べてるのはさ、麗奈。半分は、親父のためじゃないんだ。俺のためなんだよ。親父の死をただの病死だって認めたら、俺は『七年無視した相手が普通に死んだだけ』の息子になる。それが、耐えられない。事件であってくれって、心のどっかで思ってる。最低だろ。……こんなの、選択肢に出せるわけないだろ」
言い終えて、春人は自分が何を言ったのか分からなくなった。好感度の計算で言えば、確実に最悪の選択肢だった。自己中心的で、格好悪く、救いがない。
麗奈は、長いこと黙っていた。
それから、ふ、と息を吐いた。
「……初めてじゃない? あんたが人間の言葉喋ったの、島に帰ってきてから」
「え」
「最低で結構。人間なんて、だいたい最低だよ。あたしが島に残ったのだって、お母さんの看病が理由ってことになってるけど、ほんとは内地が怖かっただけだし」
「……怖かった?」
「高三のとき、看護学校の見学で東京に行ったの。三日でだめだった。誰もあたしを知らない場所って、自由なんじゃなくて、透明になるんだって思った。島は息苦しいよ。何をしても筒抜けで、うんざりする。でも、透明になるよりはましだった。……あんたはその逆を選んだんだよね。ずっと、どっちが正しかったんだろうって、たまに考えてた」
春人は答えられなかった。東京の部屋で、誰にも知られず、画面の中の世界だけを攻略してきた七年間が、「透明」という一言で名前をつけられてしまった気がした。
麗奈は初めて、春人の前で、少しだけ笑った。七年前と同じ笑い方だった。
「くれるんでしょ、それ。もらう。……で、聞きたいんでしょ、宮田さんのこと」
春人は、息を止めた。
「待合室、聞こえてたよ。じいちゃんたち、声でかいから」麗奈は紙袋を受け取りながら、声を落とした。「記録は見せない。それは変わらない。でも、あたしが自分の耳で聞いたことは、あたしのものだから、あたしの判断で話す」
西日が沈みきる前の、一番赤い光の中で、麗奈は言った。
「あの夜の当直は、宮田真帆さん。あたしの三年先輩。お父さんが運ばれてきたとき対応したのも、宮田さん。……その宮田さんが、次の週に突然辞めた。理由は誰も知らない。送別会もなかった。あれだけ噂好きのこの島で、誰も、宮田さんの話をしたがらない。おかしいと思わない?」
「……連絡先は」
「分からない。携帯も繋がらなくなってた。ただ」
麗奈はそこで一度、言葉を切った。言うべきかどうか、最後の秤にかけているのが分かった。やがて、意を決したように春人を見た。
「宮田さん、辞める前の日、あたしに一つだけ言ったの。今思えば、あれ、遺言みたいだった」
「なんて」
「『麗奈ちゃん。あの夜、健一さんに付き添ってきたの、奥さんじゃなかったよ』って」
心臓が、大きく一つ、跳ねた。
「……じゃあ、誰が」
「役場の、黒川さん」
叔父の名前は、夕暮れの防風林の中で、奇妙なほど静かに響いた。
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帰り道、春人は一人で、暮れた坂道を上った。
整理する。父は自宅ではなく大賀郷で倒れた。診療所に父を運び込んだのは、母ではなく叔父だった。対応した看護師は直後に島を追われるように消えた。そして母は、「家で倒れた」という物語を語っている。
物語の作者が、誰なのか。もう、名前は一つしか残っていなかった。
だが同時に、春人は気づいてもいた。今日、一番大きな手がかりをくれたのは、証拠品でも、探索でも、攻略でもなかった。台本が燃え尽きた後の、練習していない言葉だった。自分の一番格好悪い部分を差し出したら、相手も一番大事なものを差し出してくれた。そんな交換の仕組みは、どのゲームの取引画面にも実装されていなかった。
――ラスボスの居場所は分かってる。役場だ。
ゲームなら、ボス戦の前にやることは決まっている。装備を整え、回復アイテムを買い込み、セーブする。負けても、直前からやり直せる。
だが明日、役場で叔父と向き合う自分には、装備も、アイテムも、セーブポイントもない。言い間違い一つ、取り消せない。失敗しても、昨日には戻れない。
それでも、と春人は思った。足は止まらなかった。
坂の上から、役場のある大賀郷の灯りが見えた。あの灯りのどこかに、父が最後に見た景色がある。
――セーブなしの一発勝負なんて、ゲームなら絶対にやらない。
でもこれは、ゲームじゃない。
(第六話 了)




