第五話 最初の嘘
『健一さんが倒れたのは、家じゃない』
深夜二時。春人はスマホの画面を、もう何十回目か分からないほど見つめていた。
差出人不明のショートメッセージ。番号は使われていない。ネットで検索しても何も出ない。番号の頭三桁から推測できたのは、格安SIMのデータ専用番号らしい、ということだけだった。
――ハッカーもののゲームなら、ここで「逆探知」だ。
端末に繋いで、三回のミニゲームをクリアすれば、発信者の位置が地図に赤く表示される。あるいは推理アドベンチャーなら、この時点で「メッセージの送り主」が捜査ファイルに登録され、いずれ必ず本人に辿り着けるようフラグが管理される。
現実には、何も起きなかった。調べる手段が、文字通り一つもなかった。警察に持ち込む? 何と言って? 「父の死因に匿名の告発があった」と? 港の物置事件で駐在に顔を覚えられた男の言うことを、誰が聞くだろう。
春人は諦めて、ノートを開いた。逆探知がだめなら、メッセージの中身を検証するしかない。
送り主ではなく、内容を追う。それなら、できるはずだった。
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翌朝、春人は居間の卓袱台に紙を広げた。アドベンチャーゲームの攻略チャートの要領で、父が死んだ夜のタイムラインを書き出していく。
七月三日、夜。
二十一時頃、父・健一、自宅居間で倒れる。母・美咲が発見し、一一九番通報。救急車で搬送。翌四日未明、死亡確認。死因、心筋梗塞。
これが「公式の記録」だった。葬儀で親戚が語り、母が春人に電話で告げ、島の誰もが知っている物語。
――間違い探しモードだ。
ホラーゲームには「違和感を探せ」という仕掛けがある。一見普通の部屋の中で、一箇所だけ現実と食い違うものを見つける。あれと同じことを、この物語に対してやればいい。物語のどこかに、現実と接続していない箇所があるはずだった。
最初の検証相手は、隣家の菊池のばあちゃんだった。春人の子供の頃から隣に住んでいる、耳の遠い、しかし目のいい老女。
今回は、やり方を変えた。
麗奈の言葉が、頭のどこかに引っかかっていたからだ。容疑者としてではなく、人として聞け。悲しんでいる息子として。
「ばあちゃん、父さんの思い出話、聞かせてくれない」
縁側で麦茶を出され、春人は一時間半、父の話を聞いた。健一が台風の翌朝に必ず屋根を見に来てくれたこと。くさやの焼き方にうるさかったこと。春人が島を出た日、健一が港で船が見えなくなるまで立っていたこと。
最後の話のとき、春人は演技ではなく、本当に黙り込んだ。知らなかった。七年前のあの日、振り返りもしなかった自分の背中を、父がずっと見ていたことを。
「あの晩もねえ」
ばあちゃんは、湯呑みを撫でながら、ごく自然に続けた。
「静かな晩だったよ。あたしは九時にはもう横になってたけど、次の日の朝、健一さんが運ばれたって聞いて、たまげてねえ」
春人の指が、膝の上で止まった。
「……救急車、来たんだよね。うち(・・)に」
「来てないよぉ」
ばあちゃんは、あっさりと言った。
「救急車が来りゃあ、この辺りじゃ大騒ぎさ。サイレンで犬がみんな鳴くもの。あの晩は、なあんにも聞こえなかった。だからたまげたんだよ」
心臓が、耳の奥で鳴り始めた。
公式の物語では、父は自宅で倒れ、自宅から搬送された。だが隣家は、サイレンを聞いていない。
――見つけた。違和感の、一箇所目。
そして春人は、ここで間違えた。
「ばあちゃん、それ、他に誰かに話した? 警察とか、役場の人とか――」
言った瞬間、ばあちゃんの顔から、トミ子おばさんのときと同じように、すっと何かが引いた。
「……あたしゃ、耳が遠いからね。聞き間違いかもしれないよ。年寄りの言うことだ、あてにしなさんな」
証言が、目の前で撤回されていく。ゲームなら一度回収した証言はファイルに永久保存される。現実の証言は、生ものだった。相手が怖がれば、その場で腐って消える。
春人は唇を噛んで、頭を下げ、菊池家を出た。半分の成功と、半分の失敗。麗奈のやり方は機能し、自分のやり方が、それを台無しにした。
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次に必要なのは、搬送記録だった。
救急車がどこに出動したか。それさえ分かれば、匿名メッセージの真偽が確定する。
春人はまず、正面から行ってみた。島の消防署だ。RPGで言えば「ギルドの受付」。正規のクエスト窓口で、正規の手続きを踏む。受付の職員は丁寧だった。丁寧なまま、完璧に何も出さなかった。
「救急活動記録の開示ですか。ご遺族でも、書面での請求が必要です。申請書はこちら。ただ、個人情報に関わる部分の開示可否は、こちらだけでは判断できませんので……手続きには、少しお時間をいただきます」
「どれくらいですか」
「場合によりますが……内容によっては、役場の関係部署とも確認を取りますので」
役場。
その一言で、春人はボールペンを置いた。申請書はつまり、叔父の机の上を通過するということだ。正規ルートというダンジョンの最深部には、最初からラスボスが座っていた。申請した瞬間、「息子が搬送記録を疑っている」という通知が、真っ先に叔父へ飛ぶ。
正面が塞がれているなら、残る道は一つ。島で救急搬送された患者が最初に運ばれる場所は、一つしかない。
診療所だ。
昼休み、診療所の裏口から出てきた麗奈は、春人の顔を見るなり嫌な予感がしたらしい。
「……何。その、用事がある顔」
「麗奈。頼みがある。七月三日の夜の、救急の受け入れ記録を見てほしい。父さんが、どこから運ばれてきたのか」
言いながら、春人の頭の中では計算が走っていた。恋愛ゲームなら、幼なじみキャラの信頼度はデフォルトで高い。昨日、忠告を聞く選択肢も選んだ。好感度は足りているはずだ。ここで「亡き父のため」という誠実系の選択肢を選べば――
「断る」
即答だった。
「守秘義務って言葉、知ってる? あたしは看護師なの。患者さんの記録は、家族にだって勝手に見せられない。正式な手続きをして」
「でも、俺は息子で――」
「息子なら」
麗奈の声が、初めて尖った。
「なんで七年、一度も帰ってこなかったの」
沈黙が落ちた。ハイビスカスの上で、蝉が鳴いていた。
「……ごめん。今のは言い過ぎた」
麗奈は目を伏せて、それから、春人をまっすぐに見た。
「あのね、春人。あんた、あたしを攻略しようとしたでしょ、今。正しい順番で正しいことを言えば、あたしが動くと思った。分かるんだよ、そういうの。あんたの目が、あたしじゃなくて、あたしの後ろの記録を見てるんだもん」
返す言葉がなかった。図星というものが、こんなに物理的に痛いとは知らなかった。攻略という言葉を、他人の口から聞いたのは初めてだった。そしてそれは、彼が思っていたより、ずっと醜い言葉だった。
「記録は見せない。けど」
麗奈は背を向けながら、小さく言った。
「……あの夜、当直だったのは、あたしじゃない。それだけ」
裏口の戸が閉まった。突き放す言葉の中に、一粒だけ情報が混ざっていた。それが麗奈なりの何かであることは分かったが、それに甘える資格が自分にあるのかは、分からなかった。
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夜、答えは思いがけない場所から転がってきた。
夕食の買い出しに出た坂下商店の前で、消防団の法被を着た男に肩を叩かれたのだ。中学の同級生の、堀内だった。ずんぐりした体型はそのままに、日に焼けて、二児の父になっていた。
「山田ぁ! おまえ島に居たのかよ! おやじさん、残念だったな」
堀内は島の噂を知らないわけではないだろうに、まるで気にしていなかった。缶コーヒーを二本買って、一本を春人に押しつけ、防波堤に並んで座った。中学の話を三十分した後で、堀内はふと、声を落とした。
「……なあ。おまえが親父さんのこと調べてるって、ほんとか」
春人は缶を握ったまま、頷いた。ごまかす気力が、もうなかった。
「そっか」堀内は海を見たまま言った。「おれ、消防団だからさ。あの夜のこと、ちっと引っかかってたんだ」
「引っかかってた?」
「おれたち団員には出動要請、来てねえんだよ。まあ救急だけなら団は出ねえこともあるけどさ。それより……次の日、分団長がぽろっと言ったんだ。『ゆうべの救急、大賀郷まで行ったらしい』って」
大賀郷。
役場のある地区。そして、春人の実家がある三根とは、別の地区。
「……うちは、三根だ」
「だよな。だからおれも、聞き間違いかと思ってた。けど、おまえが調べてるって聞いて、なんとなくな」
堀内は缶コーヒーを飲み干して、立ち上がった。去り際に、一度だけ振り返った。
「山田。おれはおまえの味方とか、そういうんじゃねえよ。ただ、健一さんには世話になった。それだけだかんな」
一人残された防波堤で、春人はノートを開いた。手が震えて、字が歪んだ。
推理ゲームなら、ここで音楽が変わる場面だ。新しい証拠がファイルに追加され、疑惑が「事件」へ昇格する演出が入る。だが現実の防波堤には演出も効果音もなく、ただ夜の海が黒く動いているだけだった。そしてゲームと決定的に違うことが、もう一つあった。ゲームの真実は、暴けば暴くほど爽快だった。現実の真実は、一枚めくるごとに、めくった指のほうが冷たくなっていく。
父が倒れたのは、自宅ではない。大賀郷――役場のある地区。匿名メッセージは、正しかった。
つまり。
「父さんは家で倒れた」と語ったあの物語は、嘘だ。
そして春人は、鉛筆を持ったまま、動けなくなった。その物語を、春人に最初に語ったのは、電話の向こうで泣いていた、母だったからだ。
母が、嘘をついたのか。
それとも母も、誰かの嘘を、本当だと信じ込まされているのか。
家に帰ると、居間の明かりが半分落ちていた。廊下の奥から、母の声が聞こえた。電話をしている。低い、押し殺した声だった。
「……ええ。……初七日が終われば、あの子は東京に戻ります。……はい。……分かってます、恒一さん」
春人は、暗い廊下に立ち尽くした。
仏壇の父の遺影が、薄闇の中からこちらを見ていた。線香はとうに消えていたのに、一瞬、その匂いがした気がした。
――なあ、父さん。
最初の嘘は、誰の嘘なんだ。
(第五話 了)




