第四話 島中が見ている
朝の八丈島は、潮の匂いから始まる。
山田春人は実家の縁側で、ノートパソコンを膝に載せていた。画面に開いているのは表計算ソフト。縦の列には島の人々の名前、横の行には「父との関係」「最後に会った日」「証言の有無」「信頼度」と項目が並んでいる。
――推理ゲームなら、これは「証言フェーズ」だ。
登場人物全員から話を聞き、証言を集め、矛盾を突く。証言と証拠が食い違った瞬間、画面に稲妻が走り、真実が暴かれる。春人が学生時代に何百時間も遊んだ法廷ゲームは、そういう仕組みでできていた。
港の探索は失敗した。物置の鍵をこじ開けようとして駐在に通報されかけ、島中の笑い話になった。だが、と春人は思う。あれは「探索パート」を先にやってしまったのが間違いだったのだ。正しい順序は、まず「聞き込みパート」。フラグを立ててから現場に行く。攻略の基本だった。
「春人、朝ごはんできてるよ」
台所から母の声がした。美咲は喪服を脱いでからも、どこか喪服を着ているような顔をしている。味噌汁と焼き魚と、島寿司の残り。向かい合って食べながら、母は箸の先で魚をほぐし、ぽつりと言った。
「今日はどこか行くの」
「ちょっと、島を回ってくる。父さんの世話になった人に、挨拶」
嘘ではない。だが全部でもない。美咲はしばらく黙って、それから小さく言った。
「恒一さんがね、心配してたよ。春人くんは島に慣れてないから、あんまり一人で歩き回らないほうがいいって」
味噌汁の椀を持つ手が、一瞬止まった。
――なぜ叔父が、俺の行動を気にする?
「別に、観光だよ」
春人はそう答えて、白飯を口に押し込んだ。母は、それ以上何も聞かなかった。聞かないことが、この家の会話のルールになりつつあった。
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聞き込みリストの一番目は、坂下商店のトミ子おばさんだった。島に二軒しかない商店の一つで、父は毎晩ここで缶ビールを買っていたという。店番のトミ子は七十を超えているが、島の情報がすべて集まる場所の主でもある。
――推理ゲームで言えば「情報屋NPC」。まずここで基本情報を集める。
「おばさん、久しぶり。健一の息子の春人です」
「あらまあ、春人くん! 大きくなって! 健一さんは残念だったねえ」
滑り出しは完璧だった。トミ子は春人の子供時代の話を三つして、明日葉の天ぷらの話を二つした。春人は頃合いを見て、本題のボタンを押した。
「あの、父さん、亡くなる前……何か変わった様子とか、なかったですか」
その瞬間だった。
トミ子の顔から、表情がすっと引いた。笑い皺はそのままなのに、目だけが笑っていない。
「……さあねえ。あたしは何も。ほら、春人くん、くさや持っていきなさい、お母さんと食べな」
会話が、終わった。
選択肢が全部消えた、と春人は思った。ゲームなら、話しかければ必ず何かのセリフが返ってくる。同じ質問を十回しても、NPCは十回同じ答えを返してくれる。だが現実の人間は、質問そのものを「なかったこと」にできるのだ。
二軒目の漁協事務所では、もっと露骨だった。事務員の男は春人の顔を見るなり、「ああ」と言った。
「健一さんとこの。……港の物置、開けようとしたんだって?」
まだ何も聞いていないのに、向こうがこちらの「行動履歴」を知っていた。
三軒目の農協の直売所では、レジの女性が春人を見て、隣の同僚と目配せをした。四軒目の民宿では、玄関先で「うちは何も知らないから」と、質問の前に断られた。
昼過ぎ、春人は防波堤に腰を下ろして、呆然としていた。
――おかしい。絶対におかしい。
オープンワールドのゲームでは、街のNPCはそれぞれ独立している。武器屋で何を買おうと、宿屋の主人は知らない。プレイヤーの悪評が広まるシステムがあるゲームでも、伝播には時間がかかるし、金を払えばリセットできる。
だが、この島は違った。
島全体が、一つのサーバーだった。誰かに話しかけた瞬間、その内容が全体チャットに流れる。春人が坂下商店を出て漁協に着くまでの十五分の間に、「健一さんの息子が父親の死を嗅ぎ回っている」という情報は、春人より先に漁協に着いていた。
しかも、情報は伝わるうちに変異していた。
夕方、五軒目に訪ねた父の囲碁仲間の家で、春人はそれを思い知った。老人は玄関を開けるなり、険しい顔で言ったのだ。
「あんた、島の誰かが健一さんを殺したとでも思っとるのか」
「え……いや、そんなことは」
「みんな言っとるぞ。東京の息子が、島の人間を疑って回っとるって。健一さんは心臓で死んだんだ。医者がそう言ったんだ。それを掘り返すのは、死んだ健一さんに恥をかかせることだと、なんで分からん」
戸は、音を立てて閉まった。
春人は薄暗くなり始めた坂道に、一人で立っていた。
帰り道、港のそばで源じいの舟が戻ってくるのが見えた。声をかけようとして、足が止まった。桟橋には漁協の男が二人いて、こちらを見ている。今ここで源じいに近づけば、「息子が源じいに何か吹き込んでいる」という新しい情報が、今夜のうちに島を一周するだろう。源じいにまで、あの防衛システムの矛先が向く。
春人は、生まれて初めて「話しかける」というコマンドを、自分の意思でキャンセルした。ゲームでは一度も選んだことのない選択だった。
誰かを疑っているなんて、一言も言っていない。「変わった様子はなかったか」と聞いただけだ。だが島という装置を通過した質問は、「息子が島民を犯人扱いしている」という別のデータに書き換わっていた。
――伝言ゲームですらない。これは、島の……防衛システムだ。
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「あんた、ほんとに懲りないね」
診療所の前を通りかかったとき、白衣のままの麗奈に呼び止められた。勤務明けらしく、腕を組んで、呆れ半分、心配半分の顔をしている。
「今日一日で、島を何周分騒がせたか分かってる? 午前中の患者さん、三人があんたの話してたよ。血圧測ってる間ずっと」
「……そんなに?」
「そんなにだよ」
麗奈は春人の隣に並んで、ゆっくり歩き出した。診療所の裏の道は、ハイビスカスの垣根が続いている。七月の夕方の風が、湿って重い。
「ねえ春人。島ではね、質問はナイフと同じなの」
「ナイフ?」
「向ける方向を間違えたら、人を傷つける。誰かに『何か知らない?』って聞くことは、その人に『あなたは何か隠してるでしょう』って言うのと同じなんだよ、ここでは。東京なら質問はただの質問かもしれないけど」
春人は黙った。ゲームの中で、彼は何万回も質問をしてきた。「調べる」「話す」「尋ねる」。コマンドを選ぶことに、ためらいなんて必要なかった。質問にコストがあるなんて、考えたこともなかった。
「……じゃあ、どうすればいいんだよ。父さんのこと、何も調べるなっていうのか」
半ば八つ当たりだと分かっていた。麗奈は怒らなかった。代わりに、少しの間を置いて、静かに言った。
「調べるなとは言わない。けど、あんたのやり方は、島の全員を容疑者にしてる。そうじゃなくて……悲しんでる息子として、話を聞けばいいのに。健一さんの思い出を教えてくださいって。それなら、みんな喋るよ。何時間でも」
容疑者としてではなく、人として。
その言葉は、春人の中のどこにも保存されなかった。少なくとも、このときはまだ。彼は「攻略に使える助言」フォルダを探して、該当なし、と処理しただけだった。
「麗奈、ありがとう。参考にする」
麗奈は春人の顔をじっと見て、小さくため息をついた。
「……してないでしょ、参考に」
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家に帰ると、玄関に見慣れない革靴があった。
居間に、叔父がいた。
黒川恒一は、卓袱台の前に楽な姿勢で座り、母の淹れた茶を飲んでいた。役場から直接来たのだろう、クールビズの白いシャツ。春人を見ると、柔らかく笑った。父に少し似た、しかし父よりずっと整った笑い方だった。
「おかえり、春人くん。今日は島を回ったんだって?」
心臓が、一拍分だけ跳ねた。
「……耳が早いですね」
「狭い島だからね。坂下のトミ子さん、漁協の吉村くん、農協、浜のほうの民宿。それから最後は、囲碁の大久保さんのところか」
叔父は、春人の今日の行動を、順番まで正確に、すべて把握していた。
ホラーゲームで、逃げ込んだ先の部屋に追跡者が先回りしている瞬間の感覚に似ていた。いや、違う、と春人は思い直した。もっと悪い。これは、プレイヤーの行動ログを、管理者権限で閲覧されている感覚だ。
「兄さんが死んで、いろいろ知りたい気持ちは分かるよ」
叔父は茶をすすった。声はどこまでも穏やかだった。
「でもね、春人くん。島の人はみんな、兄さんの死を悼んでる。そこをかき回すと、悼む気持ちの行き場がなくなる。悲しみってのはね、そっとしておかないと、怒りに変わるんだ。……島は、東京と違って、逃げ場がないから」
それは助言の形をした、何か別のものだった。
「明後日、初七日の集まりがある。親戚も来る。それが終わったら、君はもう東京に戻りなさい。仕事もあるんだろう。こっちのことは、私と美咲さんでやるから」
台所の入り口で、母がうつむいて立っていた。何も言わなかった。
叔父が帰った後、春人は自分の部屋で、昼間の表計算ソフトを開いた。「信頼度」の列が、まるごと無意味に見えた。数値化できたものが、何一つなかった。人間の心に、パラメータ表示はついていない。好感度も、警戒度も、見えない。見えないまま、確実に変動している。今日一日で、春人は島中の「見えない数値」を、たぶん最悪の方向へ動かした。
ただ一つ、収穫と呼べるものがあるとすれば――叔父の反応だった。ただの観光なら、役場の幹部がわざわざ夜に家まで来て、帰京を促したりはしない。攻略対象が過剰に反応するのは、そこに何かがあるからだ。それだけは、ゲームも現実も、たぶん同じだった。
――ラスボスが、最初から俺のセーブデータを覗いてる。
そのとき、スマホが震えた。知らない番号からのショートメッセージだった。
文面は、一行だけ。
『健一さんが倒れたのは、家じゃない』
春人は跳ね起きた。
父は自宅の居間で倒れ、救急搬送されて死亡した――それが、母から聞いた話であり、葬儀で誰もが口にした「公式の記録」だった。
震える指で電話をかけた。呼び出し音は鳴らず、機械の音声が流れた。この番号は、現在使われておりません。
窓の外で、風が椿の葉を鳴らした。
島中が春人を見ている。だが少なくとも一人だけ、見ているだけではない誰かがいる。
父はあの夜、どこで倒れたのか。
春人はノートの新しいページに、生まれて初めて、攻略サイトのどこにも載っていない問いを書きつけた。
(第四話 了)




