第二話 父は、死んだはずだった
夢だった。
そう思うことにした。
そうでなければ説明がつかない。
春人は朝日が障子越しに差し込む和室で目を覚ました。
全身にじっとりと汗をかいている。
「……夢。」
そう呟いてから、自分の声がひどくかすれていることに気付いた。
昨夜見た光景が、頭から離れない。
襖の前に立つ父。
青白い顔。
そして最後の言葉。
『俺は……殺された。』
「あり得ない。」
両手で顔をこする。
父は心筋梗塞だった。
医師が診断し、死亡診断書もある。
幽霊などいるはずがない。
ましてや、殺人事件など。
ゲームなら「亡霊イベント」が始まる場面だが、現実にそんなものは存在しない。
「疲れてるんだ。」
自分に言い聞かせるように呟く。
長時間の移動。
父を亡くした精神的なショック。
慣れない環境。
全部重なって悪夢を見ただけだ。
それで終わり。
そう結論づけようとした。
そのとき。
コンコン。
「春人、起きてる?」
母の声だった。
「起きてるよ。」
「朝ご飯できてるわ。」
「うん。」
普段と変わらない日常。
それだけで少し安心した。
◇ ◇ ◇
食卓には焼き魚と味噌汁。
島で採れた明日葉のおひたし。
東京ではめったに食べられない朝食だった。
「懐かしい。」
「あなた、昔は明日葉が嫌いだったのよ。」
「そうだった?」
「毎回残して、お父さんに怒られてたじゃない。」
母が少し笑う。
春人もつられて笑った。
その笑顔を見て、ようやく母が少しだけ安心したような表情を浮かべる。
「今日、お寺へ行くから。」
「分かった。」
「そのあと、お墓にも寄ろうと思うの。」
「……うん。」
父の墓。
まだ現実感がない。
食卓の父の席だけが空いている。
それだけで十分なはずなのに、心のどこかではまだ父が帰ってくるような気がしていた。
◇ ◇ ◇
朝食を終え、仏間へ線香をあげに行く。
遺影は昨日と同じ笑顔だった。
「親父。」
自然と声が漏れる。
「夢だったよな。」
もちろん返事はない。
そのときだった。
視線の端に、小さな木箱が映った。
「あれ?」
仏壇の横に置かれた古びた小箱。
昨日は気付かなかった。
「母さん、この箱って?」
「ああ、それ?」
母は振り返る。
「お父さんが大事にしてた物よ。」
「開けていいの?」
「私は見たことないわ。」
春人は箱を持ち上げる。
思ったより軽い。
鍵は掛かっていなかった。
ゆっくり蓋を開ける。
中には古い腕時計。
古びたライター。
そして一枚の写真。
「これ……。」
高校生の頃の自分と父が写っている。
二人で釣りをしている写真だった。
懐かしい。
しかし、それだけだった。
「宝箱イベントじゃないんだからな。」
思わず苦笑する。
ゲームなら、ここで重要アイテムが手に入る。
秘密の鍵。
暗号。
USBメモリー。
何か事件につながる証拠。
そんな期待をしてしまった自分が恥ずかしい。
「現実はそんな都合よくできてないか。」
箱を閉じる。
その瞬間だった。
カタン。
箱の底から何かが落ちた。
「あれ?」
小さな紙切れ。
箱の底板が二重になっていたらしい。
「……え?」
春人は紙を拾う。
そこには父の字で一行だけ書かれていた。
『港へ行け』
「……。」
たった四文字。
日付もない。
説明もない。
母を見る。
「これ、お母さん知ってる?」
「え?」
紙を見せる。
「初めて見たわ。」
「父さんが書いた字だよね。」
「ええ……。」
二人は顔を見合わせた。
「何だろうね。」
「さあ……。」
母は首をかしげるだけだった。
◇ ◇ ◇
寺へ向かう途中。
春人は助手席で紙を見つめ続けていた。
『港へ行け』
ゲームなら分かる。
次の目的地が更新されたのだ。
クエストマーカーが表示される。
目的地へ行けばイベントが始まる。
「……。」
現実でそんなことを考える自分に苦笑する。
「どうしたの?」
母が尋ねる。
「いや、何でもない。」
「お父さんの字、懐かしい?」
「そうだね。」
本当は違う。
昨夜の夢。
この紙。
偶然とは思えなかった。
◇ ◇ ◇
寺で読経を終え、墓参りを済ませる頃には昼になっていた。
母は近所へ挨拶回りに行くと言う。
「春人、一人で大丈夫?」
「港を少し歩いてくる。」
「懐かしいものね。」
そう言って母は車で去っていった。
春人はポケットから紙を取り出す。
『港へ行け』
「行くだけ行くか。」
別に事件を期待しているわけではない。
散歩だ。
ただの散歩。
そう自分に言い聞かせながら港へ向かう。
◇ ◇ ◇
港は静かだった。
漁船が数隻。
波止場では漁師たちが網を手入れしている。
カモメが鳴き、潮風が頬をなでる。
「何もないじゃないか。」
当然だ。
ゲームじゃない。
イベントなんて起きるわけがない。
春人は防波堤まで歩く。
海は青く澄み、底まで見える。
子どもの頃、父とここで釣りをした。
「懐かしいな。」
そのとき。
「春坊か?」
後ろから声を掛けられた。
振り返ると、日に焼けた老人が立っていた。
「……あ。」
「覚えとるか? 漁師の源じいだ。」
「源じい!」
父と親しかった漁師だった。
「大きくなったなあ。」
「ご無沙汰してます。」
二人はしばらく父の思い出話をした。
その途中。
源じいがぽつりと言った。
「健一さんも、亡くなる前の日まで、この港に来とった。」
「え?」
春人は聞き返す。
「毎日じゃないんですか?」
「いや。」
源じいは首を振る。
「あの日は様子がおかしかった。」
「様子?」
「誰かを待っとるみたいじゃった。」
「誰を?」
「知らん。」
老人は腕を組む。
「夕方遅くまで一人で海を見とった。」
「父が……。」
「それでな。」
源じいは少し声を潜めた。
「帰るとき、こんなことを言っとった。」
春人は思わず身を乗り出す。
「『もし春人が帰ってきたら、港へ行けと言っといてくれ』って。」
世界が止まった。
「……え?」
「どうした?」
「今、何て……。」
「だから、『港へ行け』じゃ。」
春人の手から紙が滑り落ちた。
父は亡くなる前日。
源じいにも同じ言葉を残していた。
偶然ではない。
夢でもない。
箱の中の紙だけではなかった。
父は確かに、自分へ何かを伝えようとしていたのだ。
春人の背中を、真夏の潮風とは違う冷たい風が吹き抜けた。
そして彼はまだ知らない。
この港のどこかに、父が命を懸けて隠した「真実」への第一歩が眠っていることを。
──第二話 終




