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八丈島の復讐と苦悩 ~ゲーム知識は役に立たない~  作者: 伝説の男前
第二章 ゲーム脳探偵

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第十二話 台風の夜(前編)

 台風は、夕方から本気を出した。


 午前中はまだ、強い雨と風の日でしかなかった。昼過ぎに定期船の欠航が決まり、空の便が全便欠航になり、島がひとつ、外界から切り離された。三時を回ると雨が横に降り始め、五時には、家そのものが低く唸り出した。八丈島の古い家は、台風と一緒に育っている。雨戸の内側で、家は軋みながら、しかし確かに受け流していた。


 春人は子供の頃、台風が嫌いではなかった。学校が休みになり、家族三人が同じ部屋に集まり、停電に備えてろうそくと携帯ラジオが食卓に並ぶ。父は台風の夜だけ、決まって花札を出してきた。「テレビも点かん夜は、こういうもんに限る」。猪鹿蝶。花見で一杯。月見で一杯。役の名前を教わりながら、雨戸の外の風を聞いた。あの頃の嵐は、家族を閉じ込めてくれる、優しい檻だった。


同じ嵐が、今夜は時刻表になっている。


 母は夕方、仏壇に灯明を上げて、早々と夕飯を済ませた。


「恒一さん、台風が抜けてから来るって。金曜に」


「……そう」


「春人。今夜は、家にいてね」


母は、春人の顔を見ずに言った。見ないことで、全部見ていると伝わる言い方だった。ゆうべの「間違い電話」を、母が信じていないことは分かっていた。


「分かってる」


春人は、そう答えた。答えながら、リュックに防水ライトを詰めていた自分の部屋のことを考えていた。


---


 行くべきか。罠なら、行けば思う壺だ。警告なら、行かなければ何も分からない。


 昼のうちに、春人は麗奈と堀内に相談していた。回答は、満場一致だった。


『行くな。死ぬよ』(麗奈)


「行くな。死ぬぞ」(堀内)


堀内は電話口で、真剣に怒っていた。


「あのな、島の台風は内地のとは別もんだ。瞬間五十メートル出たら、トタンは刃物になって飛ぶんだよ。おれは今夜、消防団で詰所に泊まりだ。何かあっても、暴風のピークじゃ救助にも出られん。分かるか? 誰も、助けに行けないんだ」


「……ああ」


「返事が軽いんだよ、おまえは」


電話を切る間際、堀内は言った。「物置なんぞ、逃げやしねえ。台風が抜けたら、おれが組合長に掛け合ってやる。だから今夜は寝てろ」


正論だった。正論はいつも、少しだけ遅い。


台風が抜けたら、島の目が開く。島の目が開いたら、物置に近づく者はまた噂の網にかかる。そして「島の目が閉じる夜」に動くのは、春人だけではない。あの新品の錠を付けた誰かも、今夜を選ぶはずだ。カメラのデータを消した誰かも。夜の物置に明かりを灯した誰かも。


今夜を逃せば、物置は今夜のうちに空になる。春人はそう確信していた。確信には、何の証拠もなかった。ただ、電話の声はこう言ったのだ。台風の夜、島の目は、全部閉じる。あれは脅しの形をした、時刻表だった。


問題は、あの声が誰の味方かだった。


捜査ボードの前で、春人は仮説を三つ書き出していた。仮説一、声は叔父側の人間で、春人を家に閉じ込めるための脅し。なら物置では今夜、回収作業が行われる。仮説二、声は父の協力者で、春人を守るための警告。なら今夜の物置には、近づく別の誰かがいる。仮説三、声は第三の勢力で、目的不明。


三つの仮説は、行き先だけが一致していた。今夜、物置で何かが起きる。どの仮説が正しくても、現場にいなければ、春人は永遠に「起きた後」を生きることになる。カメラのデータのように。父のスマホのように。消えてから数える側は、もうたくさんだった。


---


決行は、二十二時。気象情報では、暴風のピークは二十三時から午前一時。ピーク前の「まだ歩ける」時間帯が、唯一の窓だった。


春人は装備を並べた。レインウェア上下。長靴ではなく、濡れてもいいスニーカー(長靴は水が入ると動けなくなると、子供の頃の台風で学んでいた)。防水ライト。モバイルバッテリー。スマホは防水ケースへ。軍手。タオル。


並べながら、春人は自分がこの行為をどこで覚えたのかを、正確に知っていた。ステルスミッションの出撃準備画面だ。装備スロットを埋めていくときの、あの手触り。そして攻略理論も、ちゃんとあった。雨と風は、ステルスの味方だ。足音は消え、視界は落ち、警備兵の巡回は屋内に引っ込む。嵐の夜は、潜入日和――ゲームの中では。


二十一時半、麗奈から最後のメッセージが来た。


『どうせ行くんでしょ。あんたの「分かってる」は信用しない』


続けて、もう一通。


『三十分おきに生存報告。一回でも途切れたら、堀内くんの詰所に電話する。防水ケースに入れても通知は見える。以上』


止めても無駄だと判断した瞬間に、監視体制の構築へ切り替える。その割り切りの速さは、救急の現場の人間のものだった。春人は『了解。ありがとう』と返した。命綱が一本、確かに腰に結ばれた気がした。ゲームの主人公はソロで嵐に出る。現実の春人は、三十分おきの定時連絡を背負って出る。格好はつかない。だが、格好つけて死ぬよりいい。それくらいの学習能力は、この二週間でついていた。


二十二時五分。春人は雨戸の隙間から外へ出た。


母の部屋の明かりは消えていた。玄関の靴を一足、わざと残し、食卓に書き置きを置いた。行き先と、堀内の詰所の電話番号。ゲームの主人公は書き置きなんて残さない。だが春人は、母の顔を思い出して、書いた。あなたまで、いなくならないで。あの言葉に、無断で出る勇気はなかった。せめて、無言では出ないことにした。


---


外に出て三歩で、攻略理論は死んだ。


雨は、降っていなかった。壁になって、押してきた。風は音ではなく、質量だった。前傾しないと立てず、前傾すると突風にすくわれる。街灯は生きていたが、光の中を雨が真横に走り、視界は白く煮えていた。ステルスどころではない。敵も味方も関係なく、世界そのものがプレイヤーを殺しに来ていた。


――ゲームの嵐は、演出だ。


春人は、電柱にしがみつきながら理解した。ゲームの雨は、画面を濡らすエフェクトで、風はカメラを揺らす演出だった。移動速度に多少のデバフがかかっても、スタミナゲージが削れても、プレイヤーは死ななかった。現実の台風には、ゲージがない。あるのは、飛んでくるトタンと、折れる枝と、足を取る側溝と、五十メートル先まで運ばれる体だけだ。


港までの二キロを、春人は五十分かけて進んだ。普段なら二十分の道だった。


最初の定時連絡は、バス停の待合小屋の陰で打った。『生きてる。まだ半分』。麗奈の返信は三秒で来た。『次は23時』。短さが、ありがたかった。


途中、何かの板が頭の高さを回転しながら通過して、春人は本気で死を意識した。電線が鞭のように鳴り、どこかの家のアンテナが道路を滑っていった。引き返すなら今だと、百メートルごとに思った。ゲームオーバーになったらリスポーンする体に、二十五年間慣れきってきた。その体の記憶が、いちいち間違いだと訂正される。ここで飛んでくるトタンには、当たり判定の猶予もない。コンティニューの画面も出ない。


思うたびに、足は前に出た。理屈ではなかった。この嵐の向こうで、父の残した何かが、今夜、持ち去られようとしている。それだけだった。


港が、見えた。


防波堤に波が当たり、白い爆発が夜空に上がっていた。海が、山になっていた。係留を解かれ陸に揚げられた船たちが、ロープの下でじっと耐えていた。


そして、製氷庫の陰、父の物置に――


明かりが、点いていた。


扉の隙間から漏れる、細い、揺れる光。懐中電灯の光だ。


春人は風下に回り、氷の搬出台の陰に張り付いた。心臓が、嵐と同じ音で鳴っていた。攻略理論の残骸が、それでも頭の隅で動いた。風下からの接近。物陰のライン取り。視認される前に、こちらが視認する。


二十三時の定時連絡を、春人は搬出台の陰で打った。『港に着いた。物置に誰かいる』。送信した直後に気づいた。この一通で、麗奈は選択を迫られる。詰所に通報すれば、堀内たちが嵐に出ることになる。しなければ、春人は一人だ。返信は、今度は三秒では来なかった。一分後、短く一言。『無理だけはしないで。何かあったら叫んででも逃げて』。麗奈もまた、正解のない選択肢の前に立たされていた。巻き込むというのは、こういうことだった。


扉が、開いた。


人影が一つ、段ボール箱を抱えて出てきた。レインコートのフードを深く被り、体格も年齢も分からない。影は箱を、物置脇に停められた軽トラの荷台に積むと、また物置に戻っていった。荷台には、既に箱が二つ。


軽トラは、白。島に何百台とある型だった。ナンバーを読もうと目を凝らしたが、雨が視界を煮て、数字は像を結ばなかった。荷台の箱に、印字が見えた気がした。漁協のロゴ? 農協? ただの再利用の箱? 五十メートルの距離と嵐は、すべての情報を「気がした」に変えてしまう。ゲームの潜入ミッションで双眼鏡アイテムが必ず配られる理由を、春人は生まれて初めて、心から理解した。


――運び出してる。今夜のうちに、全部。


考えるより先に、体が動いた。搬出台の陰から飛び出し、軽トラへ走る。荷台の箱を確かめる、せめて写真を――そう思った瞬間だった。


突風が、来た。


その夜一番の突風だった。春人の体は真横に一メートル飛ばされ、積んであった空のドラム缶が倒れ、転がり、金属の悲鳴が嵐を裂いた。


物置の光が、ぴたりと止まった。


フードの影が、戸口に立っていた。懐中電灯の光が、ゆっくりと、倒れたドラム缶を舐め、地面を這い、そして、泥の中に手をついた春人の顔を、正面から捉えた。


白い光の向こうで、影が何かを言った。風が言葉をちぎって飛ばした。聞こえたのは、最後の一音だけだった。


――と。


「はると」の、「と」。


影は、春人の名前を知っていた。


その瞬間、島中の明かりが、落ちた。


街灯も、港の常夜灯も、遠くの集落の窓も、一斉に。停電だった。世界に残った光は、影の手の中の懐中電灯、ただ一つになった。


光が、こちらへ近づいてくる。


春人は泥の中で、動けなかった。風の壁の中、光の輪だけが、一歩ずつ、確実に、近づいてくる。


(第十二話 了)

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