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八丈島の復讐と苦悩 ~ゲーム知識は役に立たない~  作者: 伝説の男前
第二章 ゲーム脳探偵

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第十三話 台風の夜(後編)

 光の輪が、泥に膝をつく春人の眼前で止まった。


 嵐の咆哮の中、フードの影が、もう一度何かを叫んだ。今度は、風の切れ目が言葉を通した。


「――山田、先輩! ですよね!?」


先輩。


その二文字で、恐怖の質が変わった。影は懐中電灯を自分のフードの下に向けた。照らし出されたのは、若い、青ざめた、雨に濡れた顔。漁協の廊下ですれ違った、あの若い職員だった。中学の体育館の裏で、春人がカードゲームのルールを教えた後輩。


名前が、今度は出てきた。矢口だ。矢口、悠太。当時小六の、いつも兄のお下がりのデッキを使っていた。


「やぐ、ち……?」


「なんでここにいるんですか!! 死にますよ、こんな夜に!」


「それはこっちのセリフだ!」


怒鳴り合わないと会話にならなかった。矢口は春人の腕を掴んで引き起こし、二人はもつれるように物置に転がり込んだ。矢口が内側から扉を閉めると、嵐の音が一段遠くなり、代わりに、トタン屋根が今にも剥がれそうな悲鳴が頭上に降ってきた。


懐中電灯一本の光の中、二人は、荒い息のまま向かい合った。


「……先輩、なんで」


「親父の物置だからだ。おまえこそ、なんでだ。この箱、どこに運ぶ気だ」


矢口の顔が、ぐしゃりと歪んだ。泣くのを堪える顔だった。二十三歳の顔が、一瞬で中学生に戻った。


「……組合長に、言われたんです」


---


矢口の話は、切れ切れに、しかし全部出てきた。


三日前、組合長の黒川泰三に呼ばれた。「健一さんの物置を整理する。故人の借り物だからな。中身は全部、組合の倉庫に移せ。台風の晩にやれ。人が見てると、遺族が気を悪くするからな」――理屈は、通っている。島流の「配慮」の形さえしている。だが台風の夜を指定する整理作業など、あるはずがなかった。


「変だとは、思ったんです。でも……断れる島じゃないの、先輩も知ってるでしょう。うちは親父も兄貴も組合の船に乗ってる。組合長に睨まれたら、矢口の家は終わりなんです」


春人は、カードゲームの大会のことを思い出していた。どんなに強いデッキを組んでも、大会のルールを決めるのは運営で、プレイヤーは従うしかない。ただしゲームなら、気に入らなければ別のゲームに移ればいい。矢口には、移る先がなかった。この島は、彼の唯一のサーバーで、黒川の家は、そのサーバーの運営だった。運営に逆らったアカウントがどうなるか、島の人間は全員、生まれたときから知っている。


噂のシステムも、監視カメラの消去も、島中の口の重さも、全部同じ構造の上にあった。悪意ですらない。ただの、生存戦略だった。


「探し物も、言われてるんだろ」


矢口は、びくりと肩を跳ねさせた。


「……茶色い、書類封筒。A4の。『見つけたら、開けずに俺に直接持ってこい』って。それだけ、何度も念を押されました」


茶色い書類封筒。父が「渡す」と言ったもの。叔父が書斎を漁って見つけられなかったもの。それは書類の形をしていた。


「あと……先輩。俺、言わなきゃいけないことが、あります」


矢口は、懐中電灯を持つ手を震わせた。


「カメラのデータ。七月三日の夜の。……消したの、俺です」


春人は、黙って次の言葉を待った。責める資格が自分にあるのかどうか、分からなかった。矢口は、堰を切ったように続けた。


「組合長に言われて。『機械の調子が悪いから、三日の夜の分だけ初期化しとけ』って。おかしいって分かってました。分かってて、消しました。バックアップも……取ってません。怖かったから。持ってるほうが怖いから。……先輩が島中で調べ回ってるって聞いて、ずっと、ずっと胃が痛かった」


嵐の夜の告白は、録音されていない。この証言も、また「人の記憶」の中にしかない。だが春人は、堀内の言葉を思い出していた。そのときが来たら、ちゃんとした場所で喋ってやる。記憶は、消えない限り、いつか証言になれる。


「矢口。今の話、いつか、ちゃんとした場所で話せるか」


「…………」


「今すぐじゃない。約束もしなくていい。ただ、覚えといてくれ。おまえが消したのはデータで、記憶まで消せって言われたわけじゃない」


矢口は、長いこと黙って、それから、子供みたいに小さくうなずいた。


---


「で、封筒は見つかったのか」


「ないです。箱、全部見ました。網と、工具と、古い雑誌と、釣具。書類なんて、どこにも」


春人は、懐中電灯を借りて、物置の中を見回した。


六畳ほどの空間。棚、作業台、積まれた漁具。ゲームなら、と春人は思った。隠しアイテムのある部屋には、必ず「不自然」がある。壁の色が一箇所違う。棚の影に光る点がある。叩くと音の違う板がある。


春人は壁を叩いて回った。全部、同じ音がした。作業台の引き出しの底板を外した。何もなかった。工具箱の二重底を疑った。二重ですらなかった。ゲームの隠し場所の定石は、十五分で全部外れた。設計者が「見つけさせるため」に置く不自然は、現実の物置には存在しなかった。


膝をついて息をついたとき、視界の隅を、記憶がかすめた。


蜘蛛の巣だらけの、縞模様の猫。


――ちくわは物置の床下の隙間を寝床にしていた。


猫が入れる隙間が、床下にある。


春人は床板に這いつくばった。奥の隅、棚の下の床板が、一枚だけ短い。指をかけると、板は素直に持ち上がった。ゲームの隠し扉のような軋みも演出もなく、ただの古い床板として、あっさりと。


床下の空間に、防水ケースが一つ、置かれていた。


釣具用の、オレンジ色のハードケース。春人の心臓が、嵐を追い越した。矢口が息を呑んで覗き込む。留め具を外す。開ける。


空だった。


落胆が、体の芯を抜いていった。宝箱を開けたら空だった、という経験は、ゲームには基本的に存在しない。空の宝箱を置く設計者はいない。開けられる箱には、開ける意味が保証されている。それがゲームという契約だった。現実の箱は、その契約の外にいた。誰かが先に開けたのか。最初から空だったのか。父が自分で移したのか。箱は、何も説明してくれなかった。


いや――正確には、ほとんど空だった。


ケースの底に、一枚だけ、札が残されていた。


花札だった。


(すすき)の野の上に、大きな満月。「芒に月」。月見で一杯の、あの月の札。


防水ケースの中で、湿気ひとつ帯びず、それは真新しい顔で春人を見上げていた。


「……なんですか、それ。花札?」


矢口には、ただのゴミに見えただろう。だが春人の指は、札を摘まんだまま動かなかった。


台風の夜だけ、決まって花札を出してきた父。テレビも点かん夜は、こういうもんに限る。停電の食卓、ろうそくの火、月見で一杯。


これは、ゴミではない。署名だ。


ここに何かがあった。それを移したのは、俺だ。そして、この意味が分かるのは――世界で、春人だけだ。


父は、床下の暗がりに、息子だけに読めるセーブデータを残していた。


「矢口。このケースのこと、組合長に報告するか?」


矢口は、首を横に振った。それから、思い直したように言った。


「……『物置に書類はありませんでした』。それが、俺の見たままの報告です。床下までは、見てません。俺、床下なんて、見てませんから」


見てません、を二回言って、矢口は目を逸らした。それが後輩なりの、精一杯の反逆だった。


---


暴風のピークは、午前一時過ぎに島を通過した。


二人は物置の中で、それをやり過ごした。屋根は結局、剥がれなかった。麗奈への定時連絡だけは欠かさなかった。『無事。詳細は明日』『了解。生きてればいい』。ろうそくの代わりに懐中電灯を床に立てて、二人は漁網の山に背中を預けた。停電の夜に、明かりを囲んで、年の離れた男二人。まるであの頃の台風の食卓だった。花札が一枚しかないのが、残念だった。


待つ間、矢口はぽつぽつと喋った。島を出たかったこと。専門学校のパンフレットを親に黙って捨てられたこと。それでも島が嫌いになりきれないこと。「先輩に教わったカードゲーム、俺、まだ持ってます。島じゃ対戦相手、いないですけど」


「……今度、やるか」


「マジすか」


「ああ。ルール、覚えてるかな」


風の弱まった午前三時、二人は港で別れた。矢口は箱を積んだ軽トラで組合の倉庫へ。春人は、徒歩で三根へ。空はまだ荒れていたが、東の端が、わずかに白み始めていた。


帰り道の島は、戦いのあとの顔をしていた。折れた枝が道を塞ぎ、どこかの畑のビニールが電線に巻きつき、道の側溝が濁流を鳴らしていた。それでも、倒れた鉢植えを起こしに出てくる年寄りが、もういた。島は、こうやって何百回も朝を迎えてきたのだろう。壊されては直し、壊されては直し。春人は、ポケットの花札に手を当てて歩いた。父もこの道を、何百回、歩いたのだろうか。


家に着くと、居間に明かりが点いていた。停電は復旧していた。


母が、食卓に座っていた。書き置きを、両手で握って。


「……ただいま」


母は立ち上がり、春人の前まで来て、泥だらけのレインウェアを見て、それから、音が出るほど強く春人の腕を叩いた。一回。二回。三回目は、叩く形のまま、掴んで、そのまま額を春人の肩に押しつけた。


「馬鹿」


「……ごめん」


「馬鹿。あなたって子は、ほんとうに、お父さんそっくり」


母の背中越しに、仏壇の遺影が見えた。春人はポケットの上から、花札の硬さを確かめた。父さん。あんたの息子は、生きて持ち帰ったよ。あんたの署名を。


風呂から上がると、スマホに通知が一件、灯っていた。


あの匿名の番号からの、ショートメッセージだった。


『札は、見つけたな』


春人は、濡れた髪のまま、画面を凝視した。


物置には、矢口と春人しかいなかった。矢口は花札の意味を知らない。なのに、この送り主は、知っている。春人が「札を見つける」ことまで、知っていた。


指が、勝手に返信を打っていた。


『あんたは誰だ。父さんの、何なんだ』


今度は、返信はすぐに来た。


『月が満ちたら、分かる』


窓の外、台風一過の空の高いところで、千切れ雲が飛ぶように流れていた。雲の切れ間に、欠けた月が見えた。


次の満月は――春人はカレンダーアプリを開いた――八月八日。


二週間後だった。


(第十三話 了)


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