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八丈島の復讐と苦悩 ~ゲーム知識は役に立たない~  作者: 伝説の男前
第二章 ゲーム脳探偵

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第十一話 サイドクエスト

 台風の名前は、まだ番号でしか呼ばれていなかった。


 台風が近づく島は、静かに忙しい。


 防風ネットが張られ、鉢植えが屋内に入れられ、船が陸に揚げられていく。商店の棚からパンとカップ麺が消え、ガソリンスタンドに軽トラの列ができる。誰も騒がない。手だけが動く。島の人々にとって台風対策は、避難ではなく家事だった。


 春人はといえば、自分の部屋を「捜査本部」に改装していた。


 探偵ゲームの探偵には、必ず事務所がある。壁一面のコルクボード、赤い糸、時系列のメモ。形から入るのは、悪いことではないはずだった。ホームセンターでコルクボードを買い、七枚のカードを貼り、写真と地図を配置する。赤い糸だけは、買う勇気が出なかった。あれを張った瞬間、決定的に「そういう人」になる気がした。


 部屋を覗いた母は、何も言わずに立ち去り、十分後、台所から付箋の束を持ってきた。


「書き足すこと、増えるでしょ」


それだけ言って、下りていった。黄色い付箋の束は、母なりの従軍の証だった。春人はそれをボードの隅に、勲章のように貼った。


---


 捜査本部の初仕事は、証拠の保全だった。


石田は言った。素材は消すな、全部残しとけ。そのとおりだと思った。今までの証言は、全部春人の記憶とノートの走り書きにしかない。裁判を見据えるなら、録音がいる。ゲームでも、回収したログは自動でアーカイブされるからこそ、あとで読み返せるのだ。


春人はスマホに録音アプリを入れ、さっそく堀内をつかまえた。船揚げを手伝いながら、カメラのデータ欠損の話をもう一度、今度は記録に残る形で話してもらう。それだけのつもりだった。


「――で、悪い。この話、録音させてくれないか」


スマホを取り出した瞬間、堀内の顔から表情が消えた。


「……おまえ、それ、本気で言ってんのか」


「え、いや、証拠として残さないと、あとで」


「しまえ」


堀内は、ロープを巻く手を止めなかった。声だけが低くなった。


「おれはおまえに話したんだ。『記録』に話したんじゃねえ。録るなら、おれは組合の人間として喋るぞ。『何も知りません、機械のことは分かりません』ってな。どっちがいい」


春人は、スマホをポケットに戻した。


ログは残らなかった。代わりに、教訓が残った。人は、人に向かってしか喋らない。マイクを向けた瞬間、証言は証言でなくなり、答弁になる。ゲームのログ機能が偉大だったのは、キャラクターがログの存在を知らないからだ。現実の人間は、全員、録られていることを知っている。


「……悪かった」


「おう」堀内はロープを縛り終えて、ふっと表情を戻した。「けど春人、おまえの言いたいことも分かる。だからよ、おれの話が要るときが来たら、ちゃんとした場所で、ちゃんと喋ってやる。警察でも、裁判でも。……そのときまで、おれの記憶を信用しろ」


記憶を信用しろ。記録の時代に、この島は、まだ記憶で回っていた。


---


「たんてーさん、だよね?」


午後、坂下商店の前で麦茶を飲んでいた春人は、小学生二人組に包囲された。日焼けした兄妹だった。兄が小四、妹が小一というところか。兄のほうが、意を決した顔で言った。


「ちくわが、いなくなった」


「……ちくわ?」


「ねこ! しましまの! 三日前から帰ってこないの!」妹のほうが叫んだ。「たんてーさん、島のなぞ、しらべてるんでしょ。ばあちゃんが言ってた。はるとくんは、たんてーごっこしてるって」


探偵ごっこ。島の大人たちの評価が、六歳の口から正確に転送されてきた。


断ろうとした。父の事件を追う人間に、猫を探している時間はない。だがそのとき、診療所帰りの麗奈がちょうど通りかかり、事情を聞いて、笑いをかみ殺しながら言った。


「受けなよ、探偵さん。初依頼じゃん」


「おい、俺は猫を探してる場合じゃ――」


「あのね」麗奈は声を落とした。「この子たちの家、浜のほうの旧家でね。じいちゃんは元漁協の役員。島のことなら何でも知ってる家系。それにさ」


麗奈は、兄妹に聞こえない角度で、付け加えた。


「『探偵ごっこの春人くんが、うちの子の猫を探してくれた』って話が広まるのと、『探偵ごっこの春人くんが、猫すら探さなかった』って話が広まるの、どっちがいいと思う?」


島は、見ている。ならば、見せるものを選べ。麗奈の島内政治学は、春人の評判システム理解より三十年分は深かった。


「……依頼、お受けします」


報酬は、飴玉三個(前払い)だった。


---


猫探しを、春人は舐めていた。


オープンワールドのお使いクエストなら、マップにマーカーが出る。FPSの索敵なら、足音と気配で位置が割れる。春人はまず、地図アプリに目撃情報を記録する方針を立てた。兄妹の家を中心に、半径を区切って碁盤目状に潰していく。マップ埋めの要領だ。効率は、理論上、最強のはずだった。


現実の猫は、マーカーも足音も出さず、そして碁盤目を尊重しなかった。炎天下、兄妹と三人で島の路地を三時間歩き、春人は熱中症寸前になり、成果は「よそのキジトラ二匹と、明らかに迷惑そうな野良一匹」だった。


ただ、収穫が全くなかったわけでもない。路地で出会う大人たちの反応が、昨日までと違った。「猫探してんの? ちくわちゃん? ああ、あの子んとこの」。質問はナイフだと麗奈は言った。だが「猫を見ませんでしたか」というナイフは、誰のことも刺さないらしい。人々は気軽に立ち止まり、気軽に喋った。三丁目の角のばあさんは麦茶をくれた。父の話をしていた頃には一度も開かなかった島の口が、猫の話では、面白いほど開いた。


「たんてーさん、みんなとしゃべれるじゃん」と妹が言った。


「……猫の話ならな」


「ねこのはなしから、すればいーのに」


六歳の攻略アドバイスが、島に来てから聞いたどの助言より本質を突いている気がして、春人は暑さとは別の理由で少しくらくらした。


夕方、防波堤で座り込んでいると、バケツを提げた源じいが通りかかった。事情を聞いた源じいは、鼻で笑った。


「歩いて探すやつがあるか。猫は人の都合じゃ動かん。猫の都合で動く。……おい、坊主ども。ちくわってのは、魚は好きか」


「だいすき! アラもらって食べてた!」


「なら、夕方の漁港だ。今日は船を揚げちまったから、アラが出ん。腹を空かせた猫が集まるのは――」


源じいは、曲がった指で、港のはずれを指した。


製氷庫の裏。かつて魚のアラが出ていた場所。そして、父の物置のある一角だった。


待つこと四十分。日が傾き、製氷庫の影が伸びた頃、物置の裏手の茂みから、縞模様の猫がのそりと現れた。妹が「ちくわ!」と叫び、猫は飴玉より早く捕獲された。ちくわは物置の床下の隙間を寝床にしていたらしく、体中に蜘蛛の巣をつけていた。


依頼、完了。報酬は飴玉と、兄妹の「たんてーさん、ほんものだ!」という認定と――それから、思いがけない置き土産だった。


帰り際、兄のほうが、ふと言ったのだ。


「あのね、たんてーさん。じいちゃんがこないだ、言ってたよ。『健一さんの物置、夜に明かりがついとった』って」


春人の足が、止まった。


「……それ、いつの話?」


「んっとね、こないだの、雨の日。じいちゃんが夜釣りやめて帰ってきた日だから……せんしゅう?」


先週。父の死から二週間後。持ち主のいない物置に、夜、明かり。


春人は物置に駆け戻った。夕闇の中、目を凝らす。そして、見つけた。


南京錠が、新品になっていた。


春人が二週間前にこじ開けようとした、あの錆びた古い錠ではない。ホームセンターの棚に並んでいるような、銀色のディンプルキーの錠が、真新しい光を放っていた。


錠を換えるのは、中に入る用事のある人間だ。そして、これから先も入るつもりの人間だ。


候補を数える。物置の名義上の管理者なら、漁協――つまり組合長の黒川泰三。相続人としてなら、母、そして手続きを仕切っている叔父。防犯のためなら駐在もあり得るが、駐在なら春人に一言あるはずだ。それとも、リストの外の誰か。夜に明かりを灯し、鍵を新調し、人目を避けて出入りする誰か。


探しているのか。守っているのか。隠しているのか。


――親父の物置に、今、誰が出入りしてる?


兄妹が「たんてーさん、こわいかおしてる」と囁き合っているのに気づいて、春人は慌てて表情を戻した。ちくわを抱いた妹に飴玉をもう一個渡され、報酬は合計四個になった。島に来て初めて完了したクエストの報酬としては、悪くなかった。


---


夜、捜査本部のボードに「物置・新しい錠・夜の明かり」の付箋を貼ってから、春人は迷った末に、スマホを手に取った。


宛先は、あの匿名の番号。使われていないはずの、しかし一度だけ真実を送ってきた番号。返信が来るとは思っていなかった。それでも、書いた。


『あなたが誰でも構いません。父の話を聞かせてください。父が最後に電話した相手が、あなたなら――俺は、父が何を「渡す」と言ったのか知りたいだけです。山田春人』


送信。エラーは、出なかった。


返事は、来なかった。一時間、画面を見つめても、来なかった。春人は諦めて、風呂に入り、寝る前にもう一度だけ画面を見た。


通知が、一件。


着信ではない。ショートメッセージでもない。家の固定電話が鳴ったのは、その直後だった。二十三時過ぎの固定電話は、島では非常事態の音だ。母より先に、春人が受話器を取った。


「……はい、山田です」


沈黙。波の音のような、遠いノイズ。それから、機械で加工したような、低くくぐもった声が言った。


「――物置に、近づくな」


「っ、誰だ」


「見られてるのは、おまえのほうだ。台風が来る。……台風の夜、島の目は、全部閉じる」


通話は、切れた。


受話器を持ったまま、春人は立ち尽くした。廊下の奥から母が「誰から?」と顔を出す。「間違い電話」と答える声が、自分でも分かるほど掠れていた。


警告なのか。それとも、誘いなのか。


台風の夜、島の目は、全部閉じる。


監視カメラも、隣人の耳も、島中の窓も――全部が閉じる夜が、明後日、来る。


(第十一話 了)


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