第9話 あなたより、若さを選んだ
「話がある」
としおからそう言われたのは、土曜日の夕方だった。
ひとみは待ち合わせ場所へ向かった。
最近、としおの様子がおかしい。
連絡は減った。
会う回数も減った。
結婚の話もしなくなった。
それでも、ひとみは信じていた。
「仕事が大変なんだ」
そう思っていた。
あれだけ優しかった人だ。
あれだけ自分を大切にしてくれた人だ。
簡単に変わるはずがない。
そう信じたかった。
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喫茶店に入る。
としおは先に来ていた。
「久しぶり」
ひとみが笑う。
「うん」
しかし、としおは笑わなかった。
「どうしたの?」
「……ひとみ」
「うん」
「結婚のことなんだけど」
その言葉を聞いて、ひとみは少し安心した。
「うん」
ようやく話してくれる。
そう思った。
しかし――
「やめようと思う」
「……え?」
一瞬、意味が分からなかった。
「何を?」
「結婚」
ひとみは黙った。
「どうして?」
「いろいろ考えたんだ」
「何を?」
「僕たち、合わないと思う」
「……合わない?」
「うん」
「どうして急に?」
「急じゃない」
としおは視線を逸らした。
「ずっと考えてた」
「いつから?」
「……最近」
「最近っていつ?」
「ひとみ」
「私、何かした?」
「そうじゃない」
「じゃあ、どうして?」
としおは答えなかった。
ひとみの胸が苦しくなる。
「他に好きな人がいるの?」
沈黙。
その沈黙だけで、答えは分かった。
「……いるんだ」
「ごめん」
その一言で、ひとみの中の何かが崩れた。
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「いつから?」
「……しばらく前」
「私と付き合っているとき?」
としおは答えなかった。
「付き合っているときからなの?」
「ごめん」
「その人、何歳?」
ひとみは聞いた。
としおは黙った。
「何歳なの?」
「……二十歳」
ひとみは息を呑んだ。
自分とは、あまりにも違う。
「二十歳……」
声が震えた。
「その人が好きなの?」
「……うん」
「私より?」
としおは答えなかった。
その沈黙が答えだった。
ひとみの目から涙が落ちた。
「私と結婚するって言ってたよね」
「言った」
「子どもが欲しいって」
「……うん」
「家を探したよね」
「覚えてる」
「お母さんにも会ったよね」
「……ごめん」
「ごめんじゃ分からないよ!」
初めて、ひとみが声を荒らげた。
店内の視線が集まる。
ひとみは涙を拭った。
「私、何だったの?」
「……」
「あなたが幸せになるための練習だったの?」
「違う」
「じゃあ何?」
「本当に好きだった」
「過去形なんだ」
としおは黙った。
「……そうなんだ」
ひとみは笑った。
泣きながら。
「私、本当に馬鹿だね」
「ひとみ……」
「信じてた」
「……」
「あなたなら、ずっと私を大切にしてくれると思ってた」
としおは何も言えなかった。
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店を出る。
外はもう暗かった。
ひとみは歩きながら、何度も涙を拭った。
「ねえ、としおさん」
「……なに?」
「最後に一つだけ聞いていい?」
「うん」
「その人は、あなたのお金を知ってるの?」
としおの顔が固まった。
ひとみはそれを見逃さなかった。
「知ってるんだ」
「……少しだけ」
「そう」
ひとみは目を伏せた。
「私、一度もあなたのお金を聞かなかったよね」
「……うん」
「いくら持ってるのかも、何を買えるのかも、興味なかった」
「分かってる」
「私はあなたと普通に暮らしたかった」
「分かってるよ」
「でも、その人は?」
としおは答えなかった。
ひとみは静かに言った。
「あなたが選んだんだよね」
「……うん」
「じゃあ、もう何も言わない」
それが最後だった。
二人は別れた。
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その夜。
としおのスマートフォンが鳴った。
彼女からだった。
――どうだった?
としおは返信する。
――別れた。
すぐに返信が来る。
――本当に?
――うん。
――私のため?
その言葉を見て、としおは笑った。
――そうだよ。
――嬉しい。
――今から会える?
としおは迷わなかった。
――行く。
ひとみとの約束。
結婚。
家。
子ども。
全部を捨てた。
その代わりに――
若い女性の「好き」を選んだ。
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待ち合わせ場所に行くと、彼女が走ってきた。
「としおさん!」
そして抱きつく。
「本当に別れたんだ」
「ああ」
「ありがとう」
「……何が?」
「私のために」
その言葉を聞いて、としおは胸を張った。
「俺は本気だから」
彼女は笑った。
「じゃあ、私も本気」
その言葉を聞いた瞬間。
としおは思った。
「これでいい」
ひとみより、この女性を選んだ。
自分は若い女性から愛される男になった。
もう昔の自分ではない。
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それから、としおの生活は変わった。
服。
時計。
車。
高級レストラン。
ホテル。
旅行。
プレゼント。
彼女が欲しいと言ったものは、できるだけ買った。
月に数十万円。
時には百万円を超える。
それでも、としおは気にしなかった。
「まだ金はある」
それが口癖になった。
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ある日。
銀行の担当者から連絡があった。
「最近、大きなお支払いが続いておりますが、大丈夫でしょうか」
「問題ありません」
「かなりの金額になっていますので……」
「大丈夫です」
電話を切る。
残高を見る。
以前、一億円近くあった資産は、少しずつ減っていた。
それでも数千万円以上残っている。
「まだある」
としおは呟いた。
だが――
以前とは明らかに違っていた。
減る速度が速い。
そして彼女は、さらに欲しいものを言い始めた。
「海外旅行行きたい」
「いいよ」
「高級車も欲しい」
「考えよう」
「ブランドの時計も欲しい」
「買おう」
「マンションに住みたい」
「……」
そこだけ、としおは黙った。
マンション。
数千万円。
さすがに大きい。
彼女は笑った。
「無理?」
「いや……」
「としおさん、お金持ちなんでしょ?」
「……そうだけど」
「じゃあ大丈夫だよね」
その言葉に、としおはまた負けた。
「考えてみる」
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問題は、金だけではなかった。
仕事にも影響が出始めていた。
以前は完璧だった。
部下への指示。
取引先との交渉。
予算管理。
書類確認。
何一つ抜けがなかった。
だが、今は違う。
寝不足。
散財。
スマートフォンばかり気にする。
仕事中にも彼女から連絡が来る。
――今日会いたい。
――プレゼント届いた?
――今度ここ行こう。
そのたびに仕事が中断する。
部下が声をかけても気づかないことが増えた。
「としおさん?」
「……ああ」
「こちらの承認、お願いします」
「分かった」
書類を確認する。
そのとき――
一枚の数字を見て、手が止まった。
会社の予算。
数千万円。
ふと、自分の資産と比較してしまう。
「これだけあれば……」
そんな考えが一瞬、頭をよぎった。
「何を考えてるんだ」
すぐに振り払う。
会社の金だ。
絶対に触れてはいけない。
そんなことは分かっている。
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その日の夜。
彼女から電話が来た。
「ねえ、としおさん」
「ん?」
「私、夢があるの」
「何?」
「もっといいところに住みたい」
「今の部屋じゃ駄目?」
「嫌じゃないけど……」
彼女は少し黙った。
「私、としおさんと一緒にいるんだから」
「……」
「もっと大切にしてほしい」
としおは黙った。
「私の友達の彼氏は、マンション買ってくれたんだって」
「……そう」
「すごいよね」
「そうだね」
「としおさんは?」
その言葉に、としおは何も答えられなかった。
電話を切ったあと。
机の上に置いた通帳を見る。
残高。
そして会社の仕事用パソコンを見る。
会社で扱っている金。
「……一時的に借りるだけなら」
そんな考えが、初めて頭をよぎった。
すぐに否定する。
「駄目だ」
しかし――
その考えは消えなかった。
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数日後。
としおは会社の金を管理する書類を見ていた。
一時的に動かせる資金。
決裁まで時間のある予算。
数字を見ながら、頭の中で計算する。
「もし、少しだけ動かして……」
返せば問題にならない。
ボーナスが出れば返せる。
資産を売れば返せる。
彼女を喜ばせたら、また仕事にも集中できる。
そう自分に言い聞かせる。
そして――
パソコンの画面に表示された金額を見つめた。
数百万円。
たった数百万円。
一億円に比べれば小さい。
そう思ってしまった。
指がキーボードに伸びる。
そして――
止まった。
「……俺は何をしてるんだ」
立ち上がる。
その日は何もしなかった。
まだ。
しかし、その夜。
彼女から届いたメッセージを見た瞬間――
としおの決意が揺らいだ。
――としおさん。
――私、あなたなら私を幸せにしてくれるって信じてる。
としおは長い間、その画面を見つめていた。
そして最後に――
「俺が幸せにしてやる」
そう呟いた。
このとき、としおはまだ知らなかった。
「一度だけ」のつもりだったその金が、
自分の人生を終わらせる最初の一歩になることを。




