第8話 金で愛される男
「としおさんなら、何でもできるよね」
その言葉が、としおの頭から離れなかった。
何でもできる。
以前の自分なら、そんなことを言われることはなかった。
仕事では評価されていた。
年収も高い。
貯金もある。
会社では、それなりの立場にいる。
けれど、女性から見れば自分はただの「冴えない中年男」だと思っていた。
それが――
今は違う。
若い女性が、自分を見て笑ってくれる。
高い店に連れていけば喜んでくれる。
プレゼントをすれば抱きついてくる。
そして、
「としおさんって、すごい」
と言ってくれる。
その言葉が欲しかった。
もっと。
もっと聞きたかった。
---
「今度、どこ行きたい?」
としおが聞くと、彼女はスマートフォンを見せた。
画面に映っていたのは、高級ホテルだった。
「ここ」
「……ここ?」
「うん」
「高いよ」
「そう?」
彼女は笑った。
「でも、としおさんなら大丈夫でしょ?」
また、その言葉だった。
としおは笑った。
「まあ……大丈夫だけど」
「じゃあ行こうよ」
「分かった」
予約を取った。
部屋は最上級ではない。
それでも一泊で十万円を超えた。
予約完了の画面を見ながら、としおは思った。
「十万円くらい、どうってことない」
一億円近い資産。
仕事の収入。
何十年もかけて築いてきた財産。
十万円など、その中のほんの一部だ。
そう思えば、怖くなかった。
---
ホテルに着くと、彼女は大喜びした。
「すごい!」
「気に入った?」
「うん!」
「じゃあ、よかった」
彼女は窓の外の景色を見ながら、としおの腕に寄り添った。
「こんなところ連れてきてもらったの初めて」
「そう?」
「うん」
そして、としおの顔を見る。
「としおさんって、本当に優しいね」
その一言で、としおは満足した。
金を払った。
その代わりに、笑顔をもらった。
そんな感覚だった。
---
だが、その翌日。
ひとみから電話があった。
「としおさん」
「うん」
「今週末、両親に会ってくれる?」
「……ああ」
「結婚のこと、ちゃんと話したいって」
としおは黙った。
「どうしたの?」
「いや……」
「嫌?」
「そういうわけじゃない」
「じゃあ、いい?」
「うん」
ひとみは安心したように笑った。
「よかった」
「……ひとみ」
「なに?」
「結婚って、急がなくてもいいんじゃないかな」
電話の向こうが静かになった。
「どうして?」
「いや……仕事も忙しいし」
「前は、早く一緒に暮らしたいって言ってたよね」
「そうだけど」
「何かあった?」
としおは答えられなかった。
「……何もないよ」
また嘘だった。
---
週末。
ひとみの両親と食事をした。
父親はとしおを見ながら、何度も頷いていた。
「しっかりした人で安心しました」
母親も笑っていた。
「ひとみがこんなに嬉しそうなの、久しぶりです」
その言葉を聞いたとき。
としおの胸が痛んだ。
「自分は何をしているんだ」
そう思った。
目の前にいる家族。
自分を信じてくれているひとみ。
そして――
自分には別の女性がいる。
それでも、結婚を断ることはできなかった。
「よろしくお願いします」
頭を下げた。
ひとみの母親が笑顔になった。
「こちらこそ」
その瞬間。
としおは、自分が二つの人生を生きているような気がした。
---
その夜。
彼女から電話が来た。
「今日、何してたの?」
「食事」
「誰と?」
「知り合い」
「女?」
「……違うよ」
嘘だった。
「本当?」
「ああ」
彼女は少し黙った。
そして言った。
「私、としおさんのこと信じてるから」
その言葉を聞いて、としおの心がざわついた。
「信じてる」
ひとみも言う。
この女性も言う。
自分は二人から信じられている。
だが、二人を同時に幸せにすることなどできない。
それなのに、としおは決断しなかった。
---
翌月。
会社で大きな仕事を任された。
数千万円単位の予算を扱うプロジェクトだった。
としおは責任者の一人として、会社の資金を管理する立場になった。
部下からも頼られていた。
「としおさんに任せれば大丈夫です」
「お願いします」
「さすがですね」
その言葉を聞くたびに、としおは誇らしかった。
そして――
会社の口座に動く金額を見ていた。
数千万円。
一億円。
普段、自分が触れることのない金額だった。
だが、数字として見ていると、不思議な感覚になる。
「俺の個人資産より大きいな」
もちろん、それは会社の金だ。
自分のものではない。
そんなことは分かっている。
しかし――
その数字を扱える自分に、少しだけ酔っていた。
---
そんなある日。
彼女からメッセージが届いた。
――欲しいものがある。
――何?
――車。
としおは画面を見つめた。
――車?
――うん。
――今の車じゃダメなの?
――もっと可愛い車が欲しい。
そして、
――としおさんが選んでくれたら嬉しい。
その言葉に、としおの心が動いた。
車。
バッグとは違う。
旅行とも違う。
もっと大きなプレゼント。
「俺が買ってあげる」
そう言えば、彼女はきっと喜ぶ。
「すごい」
「ありがとう」
「こんなことしてくれるの、としおさんだけ」
そんな言葉を想像した。
そして――
検索を始めた。
---
数日後。
二人でディーラーへ行った。
担当者が説明する。
「こちらでしたら、オプションを含めまして――」
提示された金額を見て、としおは息を飲んだ。
数百万円。
これまでなら絶対に躊躇する金額だった。
だが、彼女が隣にいる。
「これがいい」
彼女が言った。
としおは彼女を見た。
「本当に?」
「うん」
「高いよ」
「無理?」
その一言だった。
としおは笑った。
「いや」
そして言った。
「買おう」
彼女は抱きついてきた。
「大好き!」
その瞬間。
としおは思った。
「俺は、まだこんなに人を喜ばせられる」
それが快感になっていた。
---
その夜。
としおは自分の銀行口座を確認した。
残高は減った。
それでも十分に残っている。
「大丈夫」
そう呟いた。
しかし――
以前とは違う。
以前は、
「家族を守るために使う金」
だった。
今は、
「自分を大きく見せるために使う金」
になっていた。
その違いに、としおは気づいていなかった。
---
そして、ひとみは気づき始めていた。
「最近、としおさん……何か変じゃない?」
友人に相談した。
「どういうところが?」
「連絡が減った」
「仕事が忙しいんじゃない?」
「それもあると思う」
「じゃあ、気にしすぎじゃない?」
ひとみは首を振った。
「……前と違う」
以前のとしおは、毎日のように連絡をくれた。
仕事が終われば電話をくれた。
休日には会いに来た。
結婚の話をしていた。
子どもの話をしていた。
家の話をしていた。
今は――
「忙しい」
「疲れてる」
「また今度」
そればかりだった。
そして何より。
以前のとしおは、ひとみの話をよく聞いてくれた。
今は、自分の話ばかりするようになっていた。
「俺、最近仕事でも評価されてるんだ」
「この前、こんな店に行ったんだ」
「これ買ったんだ」
「若い人とも話す機会が増えてさ」
「若い人?」
ひとみが聞き返す。
「会社の人だよ」
としおは答えた。
ひとみは、それ以上聞かなかった。
---
その夜。
ひとみは一人で眠れなかった。
スマートフォンを見る。
としおとの昔のメッセージ。
――早く一緒に暮らしたい。
――子どもは二人くらい欲しいね。
――ずっと大切にする。
――ひとみさんと出会えてよかった。
スクロールしていく。
そこには、幸せだった二人の記録が残っていた。
「どうして……」
ひとみの目から涙が落ちた。
「どうして変わっちゃったの?」
答えはまだ分からなかった。
だが――
その頃、としおは別の女性の隣で笑っていた。
そして彼女は言った。
「としおさんって、本当にお金持ちなんだね」
「まあね」
「じゃあ、もっとすごいもの買える?」
としおは笑った。
「何が欲しい?」
その質問が、
としお自身の人生をさらに深い場所へ落としていくことになる。
彼女が答えた。
「一億円あったら、何でもできるよね」
としおは笑った。
「一億円なんて、さすがに使わないよ」
「本当に?」
「うん」
彼女は微笑んだ。
「じゃあ、どこまで私のために使える?」
としおは答えなかった。
ただ――
その質問を、嫌だとは思わなかった。




