最終話 一億円を失った男
最初は、数百万円だった。
としおは会社のパソコンの前で、何度も画面を見つめていた。
会社の資金。
自分が管理している予算。
そこから一時的に金を動かす。
そして、給料やボーナスが入ったら戻す。
それだけ。
「一度だけなら……」
何度もそう考えた。
「誰にも迷惑はかからない」
「必ず返す」
「俺ならできる」
そう自分に言い聞かせた。
そして――
手を出した。
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最初に動かしたのは、三百万円だった。
振り込んだ直後。
心臓が激しく鳴った。
「……やってしまった」
画面を閉じる。
手が震えていた。
しかし、その日の夜。
彼女に通帳を見せる必要はなかった。
ただ、彼女が喜ぶものを買った。
「ありがとう!」
その笑顔を見た瞬間。
罪悪感が少しだけ薄れた。
「これでいい」
としおは思った。
「すぐ返せばいい」
そう思っていた。
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しかし、金は戻らなかった。
次の給料。
ボーナス。
投資していた資産。
それらを合わせても足りない。
その間にも、彼女は欲しいものを言った。
「旅行に行きたい」
「このバッグが欲しい」
「友達と食事したい」
「もっといい車に乗りたい」
「新しい部屋に住みたい」
としおは財布を開いた。
「いいよ」
「買ってあげる」
「任せて」
その言葉を言うたびに、彼女は笑った。
「としおさんって、本当にすごい」
その言葉が欲しかった。
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三百万円だった横領は、五百万円になった。
そして一千万円になった。
一度借りた金を返すために、さらに会社の金に手をつける。
穴を埋めるために、別の金を動かす。
その繰り返しだった。
気づけば、としお自身にも分からなくなっていた。
「いくら使った?」
通帳を見る。
数字が減っている。
一億円近くあった資産も、見るたびに小さくなっていた。
それでも彼女の前では平然としていた。
「大丈夫」
「俺には金があるから」
「心配しなくていい」
だが、本当は――
心配で仕方がなかった。
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ある夜。
彼女が言った。
「ねえ」
「ん?」
「私、ずっととしおさんと一緒にいたい」
「俺も」
「じゃあ、マンション買おうよ」
としおは黙った。
「賃貸じゃなくて」
「……高いよ」
「でも、としおさんなら買えるでしょ?」
「……」
「私、としおさんならできると思ってる」
その言葉。
それだけだった。
としおはまた負けた。
「分かった」
「本当?」
「探そう」
彼女は笑った。
「大好き!」
その笑顔を見て、としおは思った。
「まだ大丈夫だ」
だが――
もう大丈夫ではなかった。
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銀行から借りた。
カードローンも使った。
消費者金融にも手を出した。
最初は数十万円。
次は数百万円。
やがて数千万円。
「返せる」
としおは繰り返した。
高い給料がある。
退職金もある。
資産も残っている。
だから大丈夫。
しかし、借金には利息がつく。
毎月の返済額が増える。
生活費も必要だ。
彼女への支出も止められない。
それでも、としおは金を使った。
なぜなら――
金を使わなくなれば、彼女が離れていく気がしたからだ。
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そして、ある日。
会社から呼び出された。
「としおさん」
上司の声が、いつもと違った。
「少し確認したいことがあります」
「何でしょう?」
机の上に書類が置かれた。
「この資金移動ですが」
としおの顔から血の気が引いた。
「……はい」
「承認記録と実際の入出金が一致していません」
「……」
「説明できますか?」
としおは何も言えなかった。
「としおさん?」
「……確認します」
その日は帰された。
しかし、翌日も呼ばれた。
その翌日も。
会社の内部調査が始まった。
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数週間後。
としおの横領が発覚した。
会社が調べた金額は――
一億円を超えていた。
としおが凍りついた。
「……そんなに」
自分でも把握できていなかった。
会社の金。
借金。
自分の預金。
投資。
彼女への支出。
全部が混ざっていた。
「返します」
としおは言った。
「必ず返します」
しかし、会社は答えた。
「これは返せば済む問題ではありません」
その言葉で、としおは初めて理解した。
自分は、取り返しのつかないことをした。
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懲戒処分。
そして――
解雇。
会社を出るとき。
社員証を返した。
長年働いた会社。
高い給料。
立派な肩書。
部下。
取引先。
信頼。
すべてが、一日で消えた。
かつては、
「としおさんに任せれば大丈夫」
と言われていた。
今は違う。
誰も自分を信用しない。
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そして、彼女からも連絡が来なくなった。
何度電話しても出ない。
メッセージを送っても返事がない。
数日後。
ようやく返信が来た。
――ごめんね。
その一言だった。
としおは電話をかけた。
「どういうこと?」
「もう無理」
「何が?」
「全部」
「俺はまだ……」
「お金、ないんでしょ?」
「……」
「借金もあるんでしょ?」
「返すから」
「どうやって?」
「働く」
「仕事ないんでしょ?」
「また探す」
しばらく沈黙が続いた。
そして彼女は言った。
「私、幸せになりたいの」
「俺とじゃ駄目なのか?」
「……ごめん」
電話が切れた。
それが最後だった。
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としおは一人になった。
家賃。
借金。
税金。
生活費。
返済。
毎月、金が必要だった。
しかし――
もう高給取りではない。
会社員ですらない。
何十年も築いてきたキャリアは消えた。
履歴書に書ける経歴だけは立派だった。
しかし、採用面接では質問される。
「前職を退職された理由は?」
としおは答えられない。
「家庭の事情です」
そう言う。
しかし、企業は調べる。
次々と不採用になった。
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やがて、としおはアルバイトを始めた。
最初は倉庫だった。
朝早く起きる。
作業着に着替える。
荷物を運ぶ。
立ちっぱなしで働く。
時給制。
かつては、一時間働けば数千円以上の価値を生み出していた。
今は違う。
一時間働いて得られる金は、千円台。
休憩室で昼食を食べながら、としおはスマートフォンを見る。
預金残高。
借金残高。
返済予定。
数字を見て、ため息をつく。
そして、ふと思った。
「俺は、何をしていたんだろう」
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かつての自分。
ひとみと付き合っていた頃。
二人で公園を歩いた。
弁当を食べた。
家を探した。
子どもの話をした。
「普通の幸せが欲しい」
そう言っていた。
ひとみは、自分の一億円など見ていなかった。
高級車も欲しがらなかった。
ブランド品も要求しなかった。
ただ――
自分と一緒にいたかった。
「一億円より大切なもの」
確かに、自分は持っていた。
それなのに――
自分から捨てた。
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一方。
ひとみは少しずつ日常を取り戻していた。
最初は毎日泣いた。
写真を見るたびに苦しくなった。
「どうして」
何度もそう思った。
しかし、時間が経つにつれて、少しずつ変わっていった。
友人と食事をする。
仕事に集中する。
本を読む。
休日には外へ出る。
以前の生活が戻ってきた。
ある日。
友人に誘われて食事へ行った。
そこに、一人の男性がいた。
ひとみより少し年下。
清潔感があり、穏やかな人だった。
「初めまして」
「初めまして」
それだけの会話。
まだ恋ではない。
まだ何も始まっていない。
それでも――
帰り道。
ひとみは久しぶりに、少しだけ笑った。
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その頃。
としおはアルバイト先の休憩室にいた。
スマートフォンを開く。
ひとみの連絡先。
何度も削除しようとして――
できなかった。
最後に送ったメッセージ。
既読になっていない。
としおは画面を閉じた。
「……元気かな」
呟いた。
もう連絡する資格はない。
分かっている。
自分が捨てたのだから。
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仕事が終わった。
夜の街を歩く。
かつて高級車で通った道。
高級レストランで食事をした店。
高級ブランドの店。
全部、今は自分には関係ない場所になった。
ショーウインドウに映る自分を見る。
作業着。
疲れた顔。
白髪。
以前より老けて見える。
としおは立ち止まった。
そして――
自分に向かって呟いた。
「俺は、何が欲しかったんだろう」
金だったのか。
若い女だったのか。
高級品だったのか。
「すごい」と言われることだったのか。
違う。
本当は――
愛されたかった。
認められたかった。
自分にも価値があると思いたかった。
そのために、としおは金を使った。
金で愛を買えると思った。
金で若さを買えると思った。
金で自分の価値を証明できると思った。
そして――
最後には金も。
仕事も。
信用も。
愛してくれていた女性も。
全部、自分の手で失った。
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数日後。
給料日。
アルバイトの給料が口座に振り込まれた。
しかし、そのほとんどは借金の返済に消える。
残った金で、食費を計算する。
「あと何日……」
小さく呟く。
かつて一億円近くあった男が、
数百円、数千円を気にする生活をしている。
それでも働くしかない。
逃げることはできない。
借金は消えない。
過去も消えない。
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そして、としおは知らない。
ひとみが少しずつ前を向いていることを。
ひとみが新しい男性と話していることを。
ひとみがもう、
「としおさんに戻ってきてほしい」
とは思っていないことを。
彼女の人生は、もう動き始めている。
としおの人生だけが、
過去に取り残されていた。
---
一年後。
としおは同じアルバイトを続けていた。
仕事仲間から、
「前は何の仕事してたんですか?」
と聞かれることがある。
そのたびに、
「普通の会社員だよ」
と答える。
本当は違う。
かつてはエリートサラリーマンだった。
高い給料をもらい、
会社から信頼され、
一億円近い資産を持っていた。
結婚するはずだった女性もいた。
普通の幸せを手に入れる直前だった。
それなのに――
若い女性から、
「すごい男」
と思われたかった。
そのために金を使った。
愛されていると思いたかった。
そのために嘘をついた。
金が足りなくなった。
借金をした。
そして会社の金に手をつけた。
最後には横領までした。
すべてを失った。
---
仕事帰り。
としおは一人で歩いた。
空を見上げる。
星は見えなかった。
街の明かりだけが、夜を照らしている。
「ひとみ……」
名前を口にする。
返事はない。
当然だった。
もう、自分の人生に彼女はいない。
としおは歩き出した。
明日もアルバイトがある。
借金の返済もある。
生活しなければならない。
そして――
自分が作った人生を、
これから何年もかけて背負っていくしかない。
かつて一億円を持っていた男は、
今では一時間の労働で得られる金を気にしながら生きている。
けれど。
その人生の中で、としおが最後まで忘れられなかったものは、
一億円ではなかった。
高級車でも。
ブランド品でも。
若い女性でもなかった。
公園のベンチで、
手作りの弁当を食べながら笑っていた、
ひとみの顔だった。
「……あのとき、あれで十分だったんだ」
そう呟く。
しかし――
時間は戻らない。
失ったものは、
金では買い戻せない。
としおは一人、
暗い夜道を歩いていった。
その先にあるのは、
もう「普通の幸せ」ではない。
自分自身が選び、
自分自身で壊した人生だった。




