第2話 あなたとなら、普通の幸せがほしい
それから、私たちは少しずつ会うようになった。
毎週というわけではない。
仕事が忙しい週は会わない。
休日に予定が入っていれば、翌週にする。
そんな、ゆっくりとしたペースだった。
それでも。
私にとっては、それまでの人生にはなかった時間だった。
金曜日の夜。
仕事を終えて会社を出る。
駅へ向かいながら、スマートフォンを見る。
としおさんからメッセージが届いている。
『今週もお疲れさまでした』
たったそれだけ。
でも、それを見るだけで少し嬉しくなる。
『としおさんもお疲れさまでした』
返信する。
数秒後。
『明日、時間ありますか?』
私は思わず立ち止まった。
明日は土曜日。
特に予定はない。
もちろん、ボランティアの予定もなかった。
『はい。大丈夫です』
送信。
すぐに返信が来る。
『よかった。よかったら一緒にご飯食べませんか?』
私は画面を見ながら笑ってしまった。
『ぜひ』
それだけのやり取りなのに。
明日が楽しみになった。
◇
翌日。
待ち合わせ場所に着くと、としおさんはすでに来ていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
「早いですね」
「楽しみで、早く来てしまいました」
そう言って、としおさんは照れたように笑った。
「私も、少し早く来ました」
「本当ですか?」
「はい」
二人で顔を見合わせる。
そして、同時に笑った。
まだ付き合っているわけではない。
でも、もう普通の知人とは違っていた。
私はそのことを感じていた。
「今日はどこに行きます?」
「ひとみさん、何か食べたいものあります?」
「私は何でも」
「それが一番困るんですよ」
「すみません」
「じゃあ……」
としおさんが少し考える。
「前に話していたお店、行きませんか?」
「あの洋食屋さん?」
「そうです」
「行きたいです」
私たちは歩き始めた。
◇
食事をしながら、いろいろな話をした。
仕事の話。
子どもの頃の話。
好きな本。
休日の過ごし方。
家族の話。
「ひとみさんは、休日は何していることが多いんですか?」
「本を読んでいるか、ボランティアです」
「本当に好きなんですね」
「はい」
「僕も何か趣味を作ろうかな」
「何か興味があるんですか?」
「実は……」
としおさんは少し恥ずかしそうに言った。
「僕の趣味、貯金なんです」
「貯金?」
「はい」
思わず笑ってしまった。
「すみません」
「いや、笑っていいですよ」
「でも、珍しいですね」
「そうですよね」
としおさんも笑った。
「僕、昔から無駄遣いが嫌いなんです」
「しっかりしていますね」
「そう言われます」
「将来のために貯めているんですか?」
「そうですね」
としおさんは少し考えてから言った。
「老後とか、病気したときとか。あとは……家族ができたときのためとか」
その言葉を聞いた瞬間。
私は箸を止めた。
「家族?」
「はい」
「結婚したいんですか?」
聞いてしまった。
としおさんも少し驚いたようだった。
「……したいです」
「そうなんですね」
「ひとみさんは?」
私は少し迷った。
「私も……」
そこで言葉を止める。
「私も、できれば結婚したいです」
「できれば?」
「はい」
「どうして?」
「今まで、そういう人に出会えなかったので」
としおさんは黙って私を見る。
「でも」
私は続けた。
「本当に好きになれる人がいるなら、結婚したいです」
としおさんが小さく頷いた。
「僕も同じです」
その言葉に、胸が少し熱くなった。
◇
食事の帰り道。
駅まで歩いていると、としおさんが言った。
「ひとみさん」
「はい?」
「もし嫌じゃなければ……」
そこで止まる。
「どうしました?」
「いや……」
としおさんは少し緊張していた。
「また、二人で会ってもらえますか?」
「はい」
私はすぐに答えた。
「もちろんです」
「よかった」
としおさんは明らかにホッとしていた。
その表情を見て、私は笑った。
「そんなに緊張していたんですか?」
「しましたよ」
「どうして?」
「嫌われたら嫌なので」
その言葉に、胸がきゅっとなった。
私はこれまで、男性からそんなことを言われたことがなかった。
「嫌いになんてなりませんよ」
自然と、そう答えていた。
としおさんがこちらを見る。
「本当ですか?」
「はい」
「よかった」
その顔を見ていると、こちらまで嬉しくなる。
◇
それから、私たちは頻繁に連絡を取るようになった。
朝。
『おはようございます』
昼。
『お仕事、頑張ってください』
夜。
『今日はお疲れさまでした』
毎日、大した内容ではない。
それでも。
スマートフォンを開けば、としおさんがいる。
それだけで安心した。
私は少しずつ、としおさんの存在を生活の中に受け入れていった。
そしてある夜。
としおさんから電話がかかってきた。
「もしもし?」
『ひとみさん?』
「はい」
『今、大丈夫ですか?』
「大丈夫ですよ」
『よかった』
しばらく沈黙が続いた。
「どうしました?」
『いや……声が聞きたくて』
私は何も言えなくなった。
『すみません。変ですよね』
「いえ……」
『迷惑でしたか?』
「違います」
私は小さく笑った。
「私も……声、聞きたかったです」
電話の向こうで、としおさんが黙った。
「としおさん?」
『……嬉しいです』
その声は、少し震えていた。
その夜、私たちは一時間近く話した。
内容は覚えていない。
仕事の話だったと思う。
好きな食べ物の話。
子どもの頃の話。
そんな、どうでもいい話。
でも。
電話を切ったあと。
私は幸せだった。
◇
ある日。
ボランティア活動が終わったあと、としおさんが私に言った。
「ひとみさん」
「はい」
「今度、僕の家の近くに来ませんか?」
「何かあるんですか?」
「おすすめの本屋があるんです」
「本屋?」
「ひとみさん、本好きだから」
私は嬉しくなった。
「行きたいです」
「じゃあ、来週どうですか?」
「はい」
そして翌週。
私たちは大きな書店へ行った。
私は何時間でもいられる場所だった。
「ひとみさん、楽しそうですね」
「はい」
「そんなに本が好きなんですね」
「好きです」
「よかった」
「何がですか?」
「ひとみさんが楽しそうだから」
その言葉に、私は少し照れた。
本を選びながら、としおさんが言う。
「これ、面白そうですね」
「それ、最近話題になってますよ」
「じゃあ買ってみようかな」
「本当に?」
「ひとみさんがすすめるなら」
私は笑った。
「じゃあ、私も買います」
「同じ本を?」
「はい」
「じゃあ、次に会ったとき感想を言い合いましょう」
「いいですね」
その瞬間。
私たちは、次に会う約束をした。
自然に。
当たり前のように。
それが、とても嬉しかった。
◇
その日の帰り。
駅のホームで電車を待っていると、としおさんが言った。
「ひとみさん」
「はい?」
「僕……」
少し間を置く。
「最近、毎日が楽しいんです」
「私もです」
「今まで、仕事して家に帰って、それだけだったんですよ」
「私も似ています」
「でも今は違う」
としおさんは私を見た。
「ひとみさんと会えると思うと、仕事も頑張れるんです」
私は何も言えなかった。
嬉しかった。
でも、それと同時に怖くなった。
こんなに幸せでいいのだろうか。
今まで何もなかった私に。
こんな時間が突然訪れていいのだろうか。
電車が到着する。
「じゃあ、また」
「はい」
私は電車に乗った。
扉が閉まる。
ホームにいるとしおさんが見える。
手を振っている。
私も手を振った。
電車が動き出す。
姿が見えなくなる。
私は窓に映った自分の顔を見る。
少し笑っていた。
いつからだろう。
自分の顔を見て、こんなふうに嬉しいと思えるようになったのは。
◇
数日後。
私は会社の昼休みに、としおさんから届いたメッセージを見た。
『今度の日曜日、空いてますか?』
『空いてます』
すぐに返す。
しばらくして返信が来る。
『じゃあ、少し遠出しませんか?』
『どこに行くんですか?』
『ひとみさんが好きそうな場所です』
『どこでしょう?』
『それは当日まで秘密です』
私は笑った。
仕事中なのに、頬が緩んでしまう。
「ひとみさん」
「はい?」
同僚に声をかけられる。
「なんか今日、機嫌いいですね」
「そうですか?」
「はい」
「別に何もないですよ」
「そうですか?」
「はい」
私はスマートフォンを伏せた。
でも、心の中では分かっていた。
何もないわけではない。
私には今。
会いたい人がいる。
話したい人がいる。
一緒に笑いたい人がいる。
そして――。
もしかしたら。
この人と人生を一緒に歩けるかもしれない。
そんなことを考え始めていた。
◇
日曜日。
待ち合わせ場所に行くと、としおさんはいつもより少しおしゃれをしていた。
「お待たせしました」
「いえ。今来たところです」
「今日は、どこに行くんですか?」
「秘密です」
「まだ秘密なんですね」
「はい」
二人で電車に乗る。
しばらくして、としおさんが窓の外を指差した。
「見てください」
「綺麗ですね」
車窓から見える景色。
都会のビルが少しずつ減っていく。
緑が増えていく。
そして、駅を降りた。
そこには大きな公園があった。
「ここ……」
「ひとみさん、前に言ってましたよね」
「何を?」
「いつか、自然の多い場所でゆっくり本を読みたいって」
私は驚いた。
「覚えてたんですか?」
「覚えてますよ」
としおさんは笑った。
「ひとみさんが話してくれたことは、できるだけ覚えていたいんです」
胸がいっぱいになった。
私はベンチに座った。
としおさんも隣に座る。
風が吹く。
木の葉が揺れる。
遠くから子どもたちの声が聞こえる。
何でもない休日だった。
でも。
私にとっては、特別な一日だった。
「としおさん」
「はい?」
「今日は、ありがとうございます」
「こちらこそ」
「楽しいです」
「僕もです」
しばらく二人で景色を眺める。
そのときだった。
「ひとみさん」
「はい」
「僕……」
としおさんがこちらを向く。
私は少し緊張した。
「ひとみさんのこと、大切にしたいと思っています」
心臓が大きく鳴った。
「……はい」
「まだ、付き合ってくださいって言うのは早いかもしれません」
「……」
「でも、僕は本気です」
私は俯いた。
嬉しくて。
涙が出そうになった。
「私も……」
声が震える。
「私も、としおさんのこと……大切に思っています」
としおさんは何も言わなかった。
ただ、嬉しそうに笑った。
私も笑った。
その日。
私たちはまだ正式な恋人ではなかった。
でも。
お互いの気持ちは、もう十分に近づいていた。
◇
帰宅してから。
私は一人で部屋にいた。
いつものように本を開く。
でも、今日は本の内容が頭に入らない。
私は本を閉じた。
そして、スマートフォンを見る。
としおさんからメッセージが届いていた。
『今日は本当に楽しかったです』
私は返信する。
『私もです』
少し考える。
そして、もう一文追加した。
『これからも、ずっと仲良くしてください』
送信。
しばらくして返信が来る。
『もちろんです』
その下に、もう一行。
『僕、ひとみさんに出会えてよかったです』
私は画面を見つめた。
そして、胸の中でそっと思った。
――私も。
このとき私はまだ知らなかった。
としおさんが、これまでずっと自分に自信を持てなかったことを。
女性から愛されることに、どこか諦めていたことを。
そして。
私との恋によって。
彼の中に、少しずつ「自分は誰かに選ばれる男なんだ」という自信が生まれていくことを。
その自信が。
いつか彼を、大きく変えてしまうことを。
私はまだ、知らなかった。




