第3話 あなたがいるだけで、自分に自信が持てた
私ととしおさんの関係は、少しずつ変わっていった。
最初はボランティア仲間。
次に、よく話をする人。
そして――。
気がつけば、毎日のように連絡を取り合う相手になっていた。
朝起きれば、メッセージが届いている。
『おはようございます。今日も仕事頑張りましょう』
昼休みには、
『お昼、ちゃんと食べましたか?』
夜には、
『今日もお疲れさまでした。ゆっくり休んでください』
そんな何気ない言葉の積み重ねが、私の生活を少しずつ変えていった。
以前なら、仕事が終われば家に帰るだけだった。
休日も、本を読んで過ごすことが多かった。
それが今では、
「次の休みは、としおさんと会える」
そう思うだけで、一週間を頑張れるようになっていた。
恋というものが、こんなに生活を変えるものだとは知らなかった。
◇
ある金曜日の夜。
仕事を終えて帰宅した私は、スマートフォンを見た。
としおさんから電話がかかってきた。
「もしもし?」
『ひとみさん?』
「はい」
『今、大丈夫ですか?』
「大丈夫ですよ」
『よかった』
最近、電話をすることも増えていた。
「今日はどうでした?」
『忙しかったですよ』
「大変でしたね」
『でも、ひとみさんから朝メッセージもらったので頑張れました』
「そんな大げさな」
『本当ですよ』
私は笑った。
「としおさんって、仕事が大変でも弱音を吐かないですよね」
『そうですか?』
「はい」
『昔は、もっと余裕なかったですよ』
「そうなんですか?」
『仕事しかなかったので』
少し沈黙があった。
『僕、ずっと自分に自信がなかったんです』
私は黙って聞いた。
『仕事はそれなりにできると思ってました。でも、女性から見たら魅力なんてないだろうなって』
「どうしてですか?」
『この歳まで彼女がいなかったから』
私は少し笑った。
「でも、今は違いますよ」
『……そうですね』
としおさんの声が少し明るくなった。
『今は、ひとみさんがいますから』
胸が温かくなる。
「私も、としおさんに出会えてよかったです」
『本当に?』
「はい」
『じゃあ……』
少し間があった。
『僕、もっと自信を持ってもいいのかな』
「もちろんですよ」
『ありがとうございます』
電話の向こうで、としおさんが笑った。
その笑い声を聞きながら、私は思った。
この人を幸せにしたい。
そう思ったのは、そのときが初めてだった。
◇
翌週。
私たちは、また食事をした。
いつものように、とりとめのない話をしていた。
仕事。
本。
旅行。
将来のこと。
「ひとみさん」
「はい?」
「僕、聞きたいことがあります」
「何ですか?」
「ひとみさんは、結婚したいですか?」
私は少し驚いた。
「……はい」
「子どもは?」
私は少し考えた。
「できれば欲しいです」
「僕もです」
その言葉に、心臓が大きく鳴った。
「何人くらい?」
「二人くらい……」
「僕も同じです」
偶然だった。
でも、その偶然が嬉しかった。
「家はどういうところがいいですか?」
「静かなところがいいです」
「僕も」
「休日に一緒に買い物したり」
「はい」
「たまに旅行したり」
「いいですね」
「子どもと一緒に公園に行ったり」
「楽しそうですね」
二人で未来の話をした。
まだ恋人ですらないのに。
それでも、不思議と怖くなかった。
むしろ。
その未来が、本当に来るような気がした。
◇
食事が終わったあと。
店の外に出る。
夜風が少し冷たかった。
「寒いですね」
「大丈夫ですか?」
「はい」
としおさんが自分の上着を少しこちらに寄せる。
「風、こっちから来てますよ」
「ありがとうございます」
しばらく歩いた。
そして駅に着く。
としおさんが立ち止まった。
「ひとみさん」
「はい?」
「僕……」
また、あの緊張した顔だった。
「どうしました?」
「ちゃんと言いたいことがあります」
私は黙って待った。
「僕と、付き合ってください」
時間が止まったように感じた。
周りには人がいる。
電車の音も聞こえる。
駅のアナウンスも聞こえる。
なのに。
私の耳には、としおさんの声しか入らなかった。
「……私でいいんですか?」
やっと、それだけ言った。
「ひとみさんがいいです」
迷いのない答えだった。
「本当に?」
「はい」
「後悔しませんか?」
「しません」
私は俯いた。
涙が出そうだった。
「……お願いします」
小さな声で答えた。
「はい」
としおさんは嬉しそうに笑った。
そして。
私も笑った。
四十歳を前にして。
私は初めて、恋人ができた。
◇
帰り道。
私は何度もスマートフォンを見た。
恋人になった。
その言葉が、頭の中を何度も回る。
私はもう一人じゃない。
そんな感覚があった。
家に帰ってからも、落ち着かなかった。
いつもなら本を読む時間。
でも今日は本を開く気になれない。
私はベッドに座り、スマートフォンを見つめる。
すると、としおさんからメッセージが届いた。
『今日は人生で一番嬉しい日かもしれません』
私は笑った。
『私も嬉しいです』
少し考えてから、
『これからよろしくお願いします』
と送った。
すぐに返事が来る。
『こちらこそ。一緒に幸せになりましょう』
その言葉を見て、胸がいっぱいになった。
一緒に幸せになる。
それは、私がずっと欲しかったものだった。
◇
交際が始まってから、としおさんは少しずつ変わっていった。
以前より服装を気にするようになった。
髪を整えるようになった。
健康のために少し運動も始めた。
「最近、少し痩せたんじゃないですか?」
ある日、私が言うと、
「本当ですか?」
としおさんは嬉しそうに聞き返した。
「はい。少しだけ」
「ひとみさんが言うなら、もっと頑張ろうかな」
「無理しないでくださいね」
「大丈夫です」
としおさんは笑った。
私は、その変化が嬉しかった。
私と出会ったことで、少しでも前向きになってくれた。
そう思っていた。
◇
そして、ある日。
会社の同僚から、
「最近、としおさん、なんか雰囲気変わりましたよね」
と言われた。
「そうですか?」
「はい。前より明るくなった感じがします」
「そうなんですね」
「何かいいことあったんじゃないですか?」
私は少し恥ずかしくなった。
「……そうかもしれません」
同僚は笑った。
「彼女でもできました?」
「……はい」
「えっ、本当ですか?」
「はい」
「おめでとうございます!」
その言葉を聞いて。
私は、嬉しかった。
誰かに自分の恋愛を祝ってもらう。
そんな経験も、ほとんどなかったから。
◇
その日の夜。
としおさんに、その話をした。
「今日、会社の人に彼女できたのって聞かれました」
『本当ですか?』
「はい」
『なんて答えたんですか?』
「できましたって」
『……嬉しいです』
「どうして?」
『ひとみさんに彼氏がいるって、ちゃんと知られるのが嬉しいんです』
「変なの」
『変じゃないですよ』
としおさんは笑った。
『僕、昔は女性と付き合うなんて自分には無理だと思ってました』
「今は?」
『今は……』
少し間があった。
『僕にもできるんだって思います』
私は嬉しかった。
「よかったですね」
『はい』
その声は、自信に満ちていた。
以前の、としおさんとは少し違った。
自信がなかった男性が。
私と付き合うことで。
少しずつ自分に自信を持つようになっていた。
◇
ある休日。
私たちはショッピングモールへ行った。
「ひとみさん、何か欲しいものありますか?」
「特にないですよ」
「本は?」
「この前買ったばかりなので」
「服は?」
「大丈夫です」
「じゃあ、何か食べましょう」
「はい」
フードコートで昼食を食べる。
そのあと、二人で店を見て回った。
派手な買い物はしない。
高級な店にも行かない。
でも、楽しかった。
私は、こういう時間が好きだった。
特別なことをしなくても。
好きな人と一緒にいる。
それだけで幸せだった。
「ひとみさん」
「はい?」
「僕、こういう普通の生活が欲しかったんです」
「普通の生活?」
「はい」
としおさんは少し遠くを見る。
「仕事して、家に帰って、奥さんがいて。休日には一緒に買い物して。子どもができたら、家族で出かけて」
「……私もです」
「だから」
としおさんは私を見る。
「ひとみさんとなら、それができる気がします」
私は胸がいっぱいになった。
「私も、としおさんとなら……」
その先は言えなかった。
でも、としおさんには伝わったと思う。
◇
その夜。
私は家に帰り、鏡の前に立った。
いつもと同じ顔。
特別美人ではない。
特別若くもない。
でも。
今日は、自分の顔が少し好きだった。
私は思った。
私でも、誰かに愛してもらえるんだ。
年齢なんて関係ない。
見た目だって関係ない。
ちゃんと向き合ってくれる人はいる。
そう思えた。
◇
一方。
としおもまた、自宅で一人だった。
テーブルの上には、通帳が置かれている。
としおはそれを眺めた。
長年働いて貯めてきたお金。
親から受け継いだ財産。
合わせれば、一億円近い。
普通の人から見れば、大きな金額だった。
としおは昔から、お金を使うことより貯めることが好きだった。
将来の不安があったからだ。
結婚できないかもしれない。
家族を持てないかもしれない。
だからせめて、お金だけは残しておこう。
そんな気持ちで貯めてきた。
でも今。
そのお金の意味が少し変わっていた。
「家を買うのもいいな」
そんなことを考える。
ひとみと暮らす家。
子どもが生まれたら。
大きな家じゃなくてもいい。
家族が笑って暮らせればいい。
としおは通帳を閉じた。
そしてスマートフォンを見る。
ひとみからメッセージが来ていた。
『今日はありがとうございました。楽しかったです』
としおは笑った。
すぐに返信する。
『僕も楽しかったです。これからもずっと一緒にいましょう』
送信。
そして、もう一度通帳を見る。
今まで。
お金を貯めることが人生の目的だった。
でも。
これからは違う。
このお金を使って。
ひとみと幸せな家庭を作る。
そんな未来を想像していた。
◇
交際して三か月。
私たちの関係は、とても穏やかだった。
喧嘩もほとんどない。
お互いに無理をしない。
連絡も強制しない。
会えない日は、電話だけ。
それでも。
私には十分だった。
ある夜。
としおさんが言った。
「ひとみさん」
「はい?」
「僕たち、この先もずっと一緒にいられますよね?」
「……はい」
「結婚も……考えてくれますか?」
私は少し黙った。
そして。
「はい」
と答えた。
としおさんは安心したように笑った。
「よかった」
「私も、嬉しいです」
「じゃあ、これからもっと頑張らないと」
「何をですか?」
「いい旦那さんになること」
私は笑った。
「もう十分ですよ」
「いや、まだまだです」
そう言うとしおさんは笑った。
その顔を見て。
私は、この人と結婚するのだと思った。
そして。
この幸せがずっと続くと思っていた。
としおさんも、そう思っていた。
少なくとも。
あの日までは。
◇
数週間後。
としおさんは会社の同僚たちと食事をすることになった。
久しぶりの飲み会だった。
としおは以前なら、こういう場所を避けていた。
女性がいる場所では、どう振る舞えばいいか分からなかったからだ。
けれど。
今は違う。
自分には彼女がいる。
自分も恋愛ができる。
そう思えるようになった。
「としおさん、最近変わりましたよね」
「そうですか?」
「なんか自信ついた感じがします」
「まあ……」
としおは少し照れながら笑った。
「彼女ができまして」
「えっ!」
「本当ですか?」
「おめでとうございます!」
周囲から祝福される。
としおは嬉しかった。
今まで感じたことのない感覚だった。
自分が一人の女性に選ばれた。
そして。
周囲からも認められている。
としおは、自分の中に生まれた自信を噛みしめていた。
その自信は、このときはまだ――。
ひとみを愛するためのものだった。
しかし。
人は一度、自分が認められる喜びを知ると。
もっと認められたいと思うことがある。
もっと褒められたい。
もっと若く見られたい。
もっと魅力的だと思われたい。
もっと「すごい男」だと思われたい。
そして。
としおの中にも。
まだ小さなものだったが。
そんな欲が芽生え始めていた。
本人さえ、それに気づいていなかった。
このときは。
ただ、ひとみと幸せになりたい。
それだけだった。




