第4話:転落の夜と、刻まれた狂悪
あの日から数ヶ月――、クリスティーナの中で何かが完全に終わった。
唯一の救いだと信じていた存在から、己の地獄を「思い違い」だと笑い捨てられた絶望。
もう誰も信じない。自分の苦しみを理解する者など、この世界のどこにもいない。
空っぽになったクリスティーナの行動は、苛烈を極めた。
「姫様、今夜も夜会へお出かけになるのですか……?」
侍女の震える声を無視し、彼女は胸元が大きく開いた艶やかなドレスに身を包む。
かつて母の暴力から隠すように覆っていた肌をあえて露出し、毎夜のように夜会へと足を運んでは、何人もの男たちと淫らに戯れた。
酒を煽り、男たちの軽薄な甘い言葉に耳を傾け、自暴自棄な笑みを振り撒く。
周囲の貴族たちは「可憐だった姫が急に破滅的な密通に狂った」と噂し、母親である側妃は「私の教育が至らなかった」と悲劇のヒロインを演じて涙を流した。
すべてがどうでもよかった。
身を滅ぼすことでしか、心の中に渦巻く黒い虚無をごまかす方法がなかったのだ。
そして――破局の時は訪れた。
「……クリスティーナ。君がここまで愚かな女だったとは怒りを通り越して失望したよ」
王宮の時計塔。冷たい月光が差し込むその場所で、ルノアールは吐き捨てるように言った。
その赤い瞳にはかつての温もりなど欠片もなく、目の前の少女を「堕落した不潔な存在」として見下す冷淡さだけが宿っていた。
「母上の愛を解さず、当てつけのように男たちと遊び歩くなど……あまりにも浅ましい。君との婚約は、破棄させてもらう」
婚約破棄の書簡を叩きつけられても、クリスティーナの眉一つ動かなかった。
「……ええ、お望みのままに」
彼女の静かすぎる返答に、ルノアールが一瞬不審な表情を浮かべた、その時だった。
クリスティーナはすっと踵を返し、迷いなく時計塔の淵へと歩を進めた。
風が強く吹き荒れ、銀色の髪が夜空に舞い上がる。
「な……クリスティーナ、何を――!?」
ルノアールの顔から余裕が消え、焦燥が走る。
「ルノアール様」
淵の上に立ち、眼下に広がる漆黒の闇を見下ろしながら、クリスティーナは振り返った。
そのエメラルドの瞳には、一切の生気がなかった。ただ、仄暗い虚無と、全てを諦め切った冷笑だけが浮かんでいる。
「貴方の仰る通りでしたわ。……私が、間違っていたのです」
「待て! 降りるんだ、クリスティーナ!!」
ルノアールが必死に手を伸ばし、駆け出す。
「貴方に期待した、私が愚かでした」
言い捨てると同時に、彼女の身体がふわりと夜風に浮いた。
手を伸ばしたルノアールの指先が、彼女のドレスの裾を掠める――その瞬間だった。
命を絶つクリスティーナの怨念か、あるいはあまりにも理不尽な死を悼んだ神の悪戯か。触れ合った指先を伝い、絶望に満ちた彼女の「十六年間の真実の記憶」が、濁流となってルノアールの脳内へ直接流れ込んでいった。
――ドクンッ!!
重力に引きずられ、まっさかさまに落ちていく銀髪の少女。
最期の瞬間、彼女の唇が静かに歪み、仄暗い笑みを浮かべたのが見えた。
「――っ、クリスティーナ――――ッ!!!!」
ルノアールの悲痛な叫びが夜空に響き渡ると同時に、彼の視界に、見たこともない地獄の光景が激しくフラッシュバックする。
服の下に隠された、目を覆うような全身の熱湯痕と青あざ。
「お前なんて産まれてこなければ良かった」と激昂し、宝石指輪で幼い体を抉る母親の醜い狂気の顔。
「助けて」と泣き叫んでも誰一人として救ってくれず、ただ一人で暗闇に震えていた無数の夜。
そして――バルコニーで必死に傷を見せ、救いを求めた少女に対し、「思い違いだ」と無邪気に笑ってみせた、愚かで傲慢な自分の姿。
『母親が我が子を憎むなんて、あるはずがないよ』
自分の朗らかな声が、最悪の呪いとなって脳内で何度も反響する。
(あああ……っ! 違う、私は……私は、なんてことを……ッ!!)
ルノアールは頭を抱えて激しくのたうちまわった。
彼が信じていた「正しく優しい世界」が、音を立てて木っ端微塵に崩壊していく。
彼女の悲鳴を、傷を、地獄を、「無知」という無慈悲な刃で踏みにじり、死へ追いやったのは――他ならぬ、自分自身だったのだ。
あまりの罪悪感と猛烈な後悔に、彼の魂が絶叫をあげる。
「頼む……神様、どうか時間を……やり直すチャンスをくれえええええっ!!!」
血を吐くようなルノアールの叫びに応えるように世界が歪み、光と闇が激しく反転した。




