第3話:太陽の無知と、砕けた心
夜会の喧騒が遠く聞こえる、月明かりの差し込むバルコニー。
涼やかな夜風が、クリスティーナの銀髪を静かに揺らしていた。
目の前には、愛おしそうに自分を見つめるルノアールがいる。
「……ルノアール様。私、ずっと誰にも言えなかったことがあるのです」
震える声で切り出すと、ルノアールは真剣な眼差しで「聞かせてほしい」と静かに頷いた。その温かな瞳に背中を押され、クリスティーナは胸の前で強く拳を握りしめた。
「私の……お母様のことです。表向き、お母様は私を愛する良き母として振る舞っておられます。……けれど、本当は違うのです」
「……母上が?」
ルノアールが少しだけ不審そうに首を傾げる。
クリスティーナは息を呑み、ドレスの袖を少しだけ捲り上げた。最高級のシルクの下から現れたのは、白磁のような肌を無惨に汚す、痛々しい紫色の打撲痕と、指輪で抉られた傷痕だった。
「お母様は、私を女として生まれてきた失敗作だとおっしゃいます。陛下のお心を引き留められない苛立ちを、そして私に若さと未来があることへの憎しみを……誰も見ていない場所で、すべて私にぶつけるのです」
長年、誰にも明かすことを許されなかった地獄。
傷を見せる恥ずかしさよりも、ついにこの苦しみから救われるのだという希望が上回っていた。
「お願いです、ルノアール様。私を……私をこの場所から救い出してください。私を、あなたの元へ連れて行ってください……!」
涙を溢れさせながら、すがりつくようにルノアールの手をとる。
彼なら理解してくれる。自分を「悲しい色をした瞳」と見抜いてくれた彼なら、この手の傷の理由を、心の叫びを受け止めてくれるはずだ――。
しかし。
ルノアールから返ってきたのは、クリスティーナの予想とはあまりにもかけ離れた反応だった。
ルノアールは、傷を見つめたまま固まっていた。
その顔に浮かんでいるのは、怒りでも悲しみでもなく、困惑と……どこか子供を優しく諭すような、哀れみの色だった。
「クリスティーナ……困ったな。君がそんなに追い詰められていたなんて」
ルノアールは穏やかな微笑みを浮かべると、優しく彼女の手を包み込んだ。
そして、悪意などひとかけらもない、あまりにも残酷で「正しい」言葉を口にした。
「でもね、クリスティーナ。母親が我が子を憎むなんて、そんなことあるはずがないよ」
「……え?」
クリスティーナの思考が、ピタリと停止した。
「親が子を思う愛は、何よりも深く尊いものだ。ましてや、君の母上は周囲からも評判の良き母だろう? その傷だって……きっと、君の将来を思うがあまり、厳しく指導しすぎてしまった結果じゃないのかな」
ルノアールは事もなげに笑い、彼女の頭を撫でた。
「君はとても繊細だから、少し思い違いをしてしまっているんだよ。母上の厳しい愛を『憎しみ』だと勘違いして、悲しんでいるだけなんだ。親子の間ですれ違いがあるなら、僕も一緒に話を聞くから。ね? 落ち着いてごらん」
ぽろり、と。
クリスティーナの心の中で、何かが音を立てて粉々に砕け散った。
(……思い、違い……?)
この傷も。背中を焼き尽くすような熱湯の痕も。
「生きているだけで不愉快」と罵られ続けた夜の数々も。
すべては自分の「思い違い」で、母の「厳しい愛」なのだと、この男は笑って言い捨てた。
彼にとって、世界は愛と正義で満ちている。
「実の母が我が子に醜い嫉妬を向け、精神を痛めつける」という不条理な悪意など、彼の生きてきた温かな世界には存在し得ないのだ。
だからこそ、彼は悪気なく、傷ついた少女のSOSを「幼い妄想」として切り捨てた。
「……ああ、」
クリスティーナの口から、掠れた声が漏れた。
目の前にいる男は、太陽などではなかった。
ただ「暗闇の恐怖」を知らず、影の中で凍える者の痛みを理解しようともしない、無知で酷薄な光に過ぎなかったのだ。
すがりついていたルノアールの手を、クリスティーナは静かに離した。
そのエメラルドの瞳から、完全に光が消え失せる。
「……そう、ですね。私の……思い違い、でした」
「分かってくれたかい? 良かった。さあ、夜会の会場に戻ろう」
満足そうに微笑み、手を差し伸べるルノアール。
その手を二度と握るまいと固く拳を握りしめながら、クリスティーナの胸の内にあった「彼への愛」は、一瞬にして冷ややかな絶望へと反転していった。




