第2話:狂気の枷と、無知な正義
あの運命の出会いから、六年。
十六歳を迎えたクリスティーナの美しさは、まるで夜空に咲く月下美人のように、眩いばかりの輝きを放っていた。
波打つ銀色の髪は月光を溶かし込んだように煌めき、深く澄んだエメラルドの瞳は見る者を惹きつけて離さない。
今夜の夜会は、彼女の成人を祝うと同時に――長年内々とされてきた「グラスフィエル王国皇太子ルノアールとの正式な婚約」が公表される特別な夜でもあった。
――ガシャァンッ!
側妃の離宮で、華美な磁器の壺が床に叩きつけられ、甲高い破裂音が響き渡る。
「くっ……、」
クリスティーナは鋭い痛みに息を詰まらせた。
ドレス越しに、母親の嵌めた大きな宝石指輪が、容赦なく肩の骨を抉るように叩きつけられたのだ。顔や首元といった目立つ場所には一切傷を残さず、服で隠れる場所ばかりを執拗に痛めつける――それが母の「ルール」だった。
「見ないで! そんな清らかぶった目で私を見ないでちょうだい!」
目の前で肩を激しく上下させ、顔を醜く歪めているのは、実の母親である側妃だった。
年々衰えていく己の容色と、夫である国王の心が遠のいていく焦燥。その鬱憤のすべてが、まもなく成人を迎え、日増しに美しく成長していく娘へと向けられていた。
「どうして私から若さを奪うの!? 私がどれほど陛下のお心を引き留めようと苦しんでいるか知っているでしょう!? なのに陛下は、あなたを見る時だけあの優しい顔をなさるのよ……ッ!」
ヒステリックな叫びと共に、服の上から肉を強く絞り上げられる。
「痛い……お母様、お願いです、おやめください……っ」
「黙りなさい! 痛いですって? 私の心の痛みの方が、何千倍も酷いわ! 感謝しなさい、表では誰もが羨む愛される姫として飾ってあげているのだから!」
側妃の瞳には、愛などひとかけらも存在しなかった。
あるのは、夫の愛を奪う娘への醜い嫉妬と、自分に従属する壊れやすいおもちゃを弄ぶ狂気だけ。
外部に一切悟られぬよう、ドレスで覆われた背や肩を酷く痛めつけられる時間を、クリスティーナはただじっと耐え忍んだ。
(……大丈夫。あと少し、あと少しだけ耐えれば……)
痛みに意識が遠のきそうになる中で、彼女が心の拠り所にしていたのは、胸元に隠した一通の書簡だった。
グラスフィエル王国から、定期的に届くルノアールからの手紙。
力強く整ったその筆跡をなぞるだけで、全身を苛む灼熱のような痛みがほんの少しだけ和らぐ気がした。
『クリスティーナ。君の十六歳の誕生を祝う夜会で、 久々に君に会える。手紙越しではなく、君のその美しいエメラルドの瞳を直接見つめられる日を、心から待ち望んでいるよ』
ルノアール。
太陽のように眩しく、自分を「悲しい色をした瞳の少女」と気づいてくれた、唯一の光。
(ルノアール様……。貴方だけが、私の救い。私を、この地獄から連れ出してくれる王子様……)
クリスティーナは激痛に耐えながら、必死に彼の名前を心の中で反芻した。
彼の手を握れば、この暗闇から抜け出せるのだと、信じて疑わなかった。
◇
そして迎えた、十六歳の誕生夜会。
会場の熱気が最高潮に達する中、クリスティーナは最高級のシルクと宝石で着飾られ、完璧な微笑みを貼り付けて佇んでいた。
その隣には、燃えるような赤髪と堂々たる体躯を持つ、最高に凛々しい青年に成長したルノアールが立っている。
「クリスティーナ。今日も君は、溜息が出るほど美しいね」
ルノアールは心からの讃辞を贈り、愛おしそうに彼女の手を取った。
その手の温もりと力強さに、クリスティーナの胸は震えた。
「ルノアール様……私……」
今だ。今なら、言えるかもしれない。
周りに人がおらず、二人がバルコニーの静寂に包まれたこの瞬間なら。彼なら、長年誰にも言えなかったこの秘密を、ドレスの下にある傷だらけの身体を受け止めてくれるはずだ。
「どうしたんだい? そんなに思い詰めた顔をして」
ルノアールは優しく首をかしげ、屈託のない笑みを向けた。
その瞳はどこまでも濁りなく、世界に対する全幅の信頼に満ちあふれている。
「僕で力になれることなら、何でも言ってごらん。君の悲しみを拭うためなら、僕はどんなことでもするよ」
そのあまりにも眩しい言葉に、クリスティーナの心に溢れんばかりの希望が満ちた。
(ああ……やっぱり、この人は私の太陽だ。私を助けてくれる……!)
これが、地獄の底へ突き落とされる直前の、束の間の夢だとは知らずに。




