第1話:毒の庭と、眩しすぎる太陽
『アルファポリス様にも同時掲載中』
マルガレル王国の王宮は、今夜も絢爛豪華な熱気に包まれていた。
天井高くから吊り下げられたクリスタルシャンデリアが、煌びやかな光の粒を大理石の床に散らし、着飾った貴族たちの高笑いが空間を満たす。
その狂乱の只中に、十歳のクリスティーナは一人静かに佇んでいた。
彼女が身に纏うのは、最高級のシルクで織られた完璧なドレスだ。
マルガレル王国の「愛される可憐な姫」として、完璧な装いと立ち振る舞いを強いられている彼女の姿は、誰もが羨む美しさだった。
しかしその仕立ては奇妙なほど厳重で、首元から手首に至るまで、肌という肌を隙間なく覆い隠している。
(……痛い)
生地が擦れるたび、皮膚に酷い痛みが走る。
ドレスの下に隠された肌は、昨夜、母である側妃の手によって作られた青あざと火傷の痕で赤黒く腫れ上がっていた。
「お前のような女のせいで、私は陛下のお心を引き留められないのよ! 見ているだけで不愉快だわ」
耳元で囁かれた母の冷たい声が、今も鼓膜にこびりついて離れない。
側妃の頭にあるのは、ただ一つ。国王の愛を一身に集めることだけだった。
だが、どれほど着飾り微笑みかけても、国王の心は日増しに自分から離れていく。それなのに、自分が生んだこの幼い娘が愛らしく微笑むと、国王は目尻を下げ、慈しむようにその小さな頭を撫でるのだ。
夫の愛を繋ぎ止めるための男児を産めなかった焦り。そして、自分に向かなくなった愛が、愛くるしい我が子として目許を破顔させる娘へと注がれていくことへの、狂おしいほどの嫉妬。
国王から見れば、クリスティーナは誇らしく愛しい自慢の娘であり、周囲にとっても「大切に愛されて育っている幸福な姫君」に他ならない。
だからこそ側妃は、表向きは誰よりも「娘を慈しむ完璧な母」を演じ、誰も見ていない自室でだけ、外面に傷が残らぬよう服で隠れる場所を痛めつけるのだ。
表向きの幸福な環境と、ドレスの下の地獄。
その落差の中で育ったクリスティーナの瞳は、空洞だった。
吸い込まれそうなエメラルドの彩りを持ちながら、そこには光も、感情も、何一つ映っていない。
「……こんなところに、美しい妖精がいるのかと思ったよ」
不意に、頭上から伸びやかな声が降ってきた。
顔を上げると、そこにいたのは眩しすぎるほどの存在感を放つ少年だった。
燃えるような鮮やかな赤い髪。力強い生命力を宿した赤い瞳。屈託のない美しい笑みを浮かべ、背筋を真っ直ぐに伸ばして立っている。
隣国グラスフィエル王国の王太子、十三歳のルノアールだった。
誰からも生まれた時から愛を注がれ、望むものを素直に受け取って生きてきた者だけが纏う、圧倒的な正しさと躊躇のない立ち振る舞い。
「君、名前は? どうしてそんなところで一人でいるんだい?」
ルノアールは自然な動作で膝をつき、クリスティーナと目線を合わせた。
彼の瞳には、見下すような色の代わりに、純粋な好奇心と温かな心配の色が浮かんでいる。
誰もが自分を「恵まれた幸せな姫」として通り過ぎていく中で、何の裏もなく真っ直ぐに自分だけを見つめて語りかけてくる存在など、今まで一度もいなかった。
「……クリスティーナ、です」
「クリスティーナ。良い名前だね。僕はルノアールだ」
ルノアールは親しみやすく微笑むと、彼女の小さな手にそっと触れようとした。
誰もが自分に好意を寄せ、差し出した手をとるのが「当たり前」であるかのような、あまりにも無防備で優しい動作。
その手に、クリスティーナは身体を強張らせ、弾かれたように一歩後ろへ引いた。
「っ……!」
怯えた小動物のような反応に、ルノアールは一瞬だけ呆然と目を丸くした。
「すまない、驚かせたね。……でも、君のその瞳」
ルノアールは困ったように笑いながら、真剣な眼差しでクリスティーナを見つめた。
「どうしてそんなに、悲しい色をしているんだ?」
――悲しい?
クリスティーナの胸の奥で、小さな音を立てて何かが揺れた。
「恵まれた姫」として扱われ、誰も自分の痛みに気づいてくれなかったのに。出会ったばかりのこの王子は、彼女の瞳の奥にある痛みを一目で見抜いてみせたのだ。
(ああ……この人なら)
幼いクリスティーナの心に、狂おしいほどの希望が芽生えた瞬間だった。
(この人なら、いつか私をこの地獄から引っ張り出してくれるかもしれない。私を助けてくれるかもしれない)
彼女は知らなかった。
自分に向けられたルノアールのその優しさが、世界に「悪意」が存在することを知らない者の、無邪気な一情に過ぎないことを。
そしてこれが、二人の歪んだ運命と、絶望へのカウントダウンの始まりだった。




