3杯目¦あなたと私の距離感。¦1話完結作品
ドアベルが鳴り、紙袋の持ち手が小さく揺れた。
カウンターは五席。
私は右手の席に腰を下ろすと、抱えていた本をそっと膝に置く。
マスターは温かいおしぼりと、この店オリジナルのクリームソーダを無言で差し出した。
このBARカウンターにはとある噂がある。
嬉しかった話をマスターに聞いてもらい、ドリンクを作ってもらうと、その幸せは長く続くのだという。
「ご注文は?」
「……今日は、少し浮かれてます」
私は照れくなって笑った。
「朗読劇をやっている推しの声優さんが、小説発売のイベントをしていて」
握手会があったのだと話す。
「二種類あって。普通の握手会と、もうひとつは物語にちなんで、左手の薬指に指輪をはめてくれるっていう特別仕様で」
そこで、少しだけ言葉が止まる。
私は左手を見つめた。
「正直、迷いました」
小さく息を吐いた。
「悩んで通常の握手を選びました。物語の中の演出だってわかっていても、左手の薬指って……やっぱり、特別な場所だと思って」
自分にとっても。
きっと、あの人にとっても。
「好きだからこそ、大事にしたいなって」
今日のことを思い出すように視線が遠くなる。
「ブースに立ったら、その人、券を見る前にカゴから指輪を取ったんです」
ふっと笑う。
「私、彼が養成所にいる頃から推していて。彼が出演している作品は全部買ってるしイベントがあればほとんど行っていたので。顔、覚えられていて」
当然、指輪の方だと思ってくれたらしい。
嬉しかった。
胸が、少し熱くなった。
でも。
「……買っていたのは通常券の方で」
その瞬間、申し訳なさが勝った。
期待させてしまったかもしれない。
せっかく用意してくれたのに。
「慌てて、通常を選んだ理由を話しました。大事にしたくてって」
ほんの数秒。
でも、長く感じた沈黙。
「そしたら」
彼女の声が、やわらぐ。
「“大切にしてくれてありがとう”って」
押し付けるでもなく、茶化すでもなく。
ただ、まっすぐに。
「なんだか、救われました」
好きだからこそ守りたかった線が、ちゃんと伝わった気がした。
「その線引きに」
短い祝辞。
グラスが、静かに置かれる。
透明なカクテルだった。
底に淡い光が揺れている。
一口飲む。
やわらかい甘さ。
けれど甘すぎない、すっと引く後味。
「推しと私。近くなくても、それでいいんだって思えました」
彼女は目を細めて笑う。
立ち上がると、本を胸に抱え直す。
ドアベルが鳴る。
夜風が頬を撫でる。
会場の光も、彼の素敵な声も、まだ胸の奥に残っている。
けれど今は、静かだ。
触れられなかった左手。
守った距離。
それもまた、愛のかたち。
――好きだからこそ、きちんと好きでいたい。
その言葉が、胸の中であたたかく灯っていた。




