2026年7月4週目。第9話 酒の原価ではなく、空間を売る。バーテンダーの主人との語らい。
「どんなお店ですか?」
バーテンダーに尋ねられ、博之は少し考えた。
「店というほど、立派なもんでもないんですけどね」
まずは酒を飲んでからにしようと思った。
何を頼めばいいのか分からず、博之はメニューを眺めたあと、店主に任せることにした。
「柑橘系で、あんまりきつくないやつをお願いできます?」
「かしこまりました」
友人も、細かな注文はせずに言った。
「僕も、何かしゃれたやつで」
「一番困る頼み方やな」
博之が笑う。
「せっかくバーに来たんやから、家では飲まれへんもんがええやん」
「それは確かに」
店主は棚から酒瓶を選び、グラスと道具を並べた。
氷を入れる音。
酒を量る動き。
果物の皮を薄く削る所作。
一つ一つが静かで、無駄がなかった。
博之の前には、淡い黄色のカクテルが置かれた。
表面には細かな泡が浮かび、柑橘の香りがふわりと立つ。
「どうぞ」
「いただきます」
一口飲む。
酸味のあとに、わずかな甘さが来た。
酒の強さはあるが、尖ってはいない。
「うまいな」
思わず、そのまま口に出た。
友人のグラスには、赤みを帯びた酒が入っていた。
「こっちも、だいぶおしゃれやで」
「写真撮っといたら?」
「また何でもコンテンツにしようとする」
「職業病や」
二人で笑った。
酒が入ったことで少し緊張が解け、博之は空きスナックの話を始めた。
「近所の床屋さんから、この近くに空いてる店があるって聞きまして」
「この辺りですか?」
「ええ。スナックばっかり入ってる古いビルの三階です。六席ぐらいの店で、
土日だけなら月三万円で貸してくれるかもしれへんと」
「かなり小さいお店ですね」
「小さいです。そこで昼にカレーを出して、夜は、僕が一応YouTubeと小説をやってるんで、
見てくれてる人向けに、ちょっと飲んで話せる店をできへんかなと」
「なるほど」
店主は驚くでも笑うでもなく、静かに聞いていた。
博之は続けた。
「ただ、考えるだけなら早いんですけど、実際にやるとなると、なかなか動かれへんのですよ」
「お金の問題ですか?」
「それもあります」
博之は、少し迷ってから過去の話もした。
「僕、株の信用取引で結構大きな借金を作りましてね。債務整理もして、
最後は自己破産まで行ったんです」
店主の手が、わずかに止まった。
「そうでしたか」
「だから、今は大きな金は動かされへんのです。銀行から借りるのも無理やし、借りる気もない。
七月にボーナスが出たんで、その中から二十万円だけ使って、冷蔵庫とか調理器具を
そろえようかなと思ってます」
「二十万円を上限に?」
「そうです。もう趣味の延長に近いですよ。失敗しても、それ以上は使わない」
博之は、管理人に採算の甘さを指摘されたことも話した。
カレーを五百円で売ろうとしたこと。
土日を全部使っても、店に三万九千円しか残らないこと。
そこには博之自身の人件費が入っていなかったこと。
「管理人のおっちゃんに言われたんですよ。ファン向けにやるなら、カレーだけやなくて、
あんた自身の料金も入れなあかんでって」
「それは、その通りだと思います」
店主は即答した。
「やっぱりそうですか」
「この店も、酒の原価だけで値段を決めているわけではありませんから」
博之は、手元のカクテルを見た。
「確かに、これを原価で出してるわけじゃないですもんね」
「もちろんです」
店主はカウンターの中を見回した。
「この場所の家賃があります。内装費もあります。グラスや道具もそろえています。氷を作る設備も必要です。開店前には掃除をして、営業後には片付けをする」
「人件費もありますよね」
「ええ。それに、こうしてお客様と話す時間も料金に含まれています」
以前働いていたホテルのバーは、決して安くなかったという。
仕事帰りに一杯飲みに来る人。
商談のあとに、もう少し話すために立ち寄る人。
会社の上役が、部下や取引先を連れてくることもあった。
「安い酒を飲みたいだけなら、コンビニで買った方がいいですからね」
「それはそうや」
「それでもホテルのバーに来てくださるのは、酒だけが目的ではないんです」
静かな照明。
磨かれたグラス。
隣の客との距離。
話しかけるタイミング。
逆に、一人で静かにいたい客には、必要以上に声をかけないこと。
そうした一つ一つを含めて、客は金を払う。
「私の所作なのか、この店の空気なのか、言葉では説明しにくいですけどね」
「でも、それが商品の一部なんですね」
「そうです」
博之は、もう一口カクテルを飲んだ。
「酒って、ええ材料を使ったら、ある程度うまいじゃないですか」
「そうですね」
「同じ酒をそろえて、同じジュースを入れたら、そこまで大差は出えへんのかなと」
「まったく同じにはなりませんが、材料の差は大きいですよ」
店主はうなずいた。
「氷や温度、混ぜ方、分量で味は変わります。ただ、技術だけで何倍もの値段を取れるかと
言われたら、それだけではないと思います」
「最後は居心地ですか」
「居心地もありますし、お客様がどういう気分で帰られるかでしょうね」
その言葉に、博之は少し黙った。
自分の店へ来た客は、どんな気分で帰るのだろう。
カレーがおいしかった。
メンヘラオジサンは、動画と同じように変な人だった。
話を聞いてもらえて少し楽になった。
また来ようと思った。
そのどれかを持ち帰ってもらえれば、七百円のカレー以上の価値になるのかもしれない。
「最近、TikTokとかで流れてくるでしょう」
友人が口を挟んだ。
「日本刀みたいなんで氷を切るバー」
「ああ、ありますね」
「めちゃくちゃ格好いいやつ」
博之は笑った。
「あれは東京やからできるんや。大阪で日本刀振り回して氷切ってたら、
はよ酒出せって引っぱたかれるで」
店主が吹き出した。
「大阪でも、喜ばれるとは思いますよ」
「最初の一回だけやろ。二回目から、普通に割った氷でええから安くしてくれって言われる」
「それは、あるかもしれませんね」
静かだった店内に、笑い声が広がった。
客はまだ、博之と友人しかいなかった。
だが、酒と会話が進むにつれ、客がいない寂しい店には見えなくなっていた。
「でも、あなたがやろうとしている店も同じだと思いますよ」
店主が言った。
「同じ?」
「あなたに価値を感じて、会いたいと思って来る人がいるんでしょう」
「来るかどうかは分からないですけどね」
「来るかどうかと、値段を付けるかどうかは別です」
店主は、博之の空いたグラスへ水を添えた。
「仮に一人でも、あなたと話したいと思って古いビルの三階まで来る人がいるなら、
その時間には値段を付けた方がいいです」
「カレー代だけではあかん?」
「続かないと思います」
コンセプトカフェのオーナーにも、同じことを言われた。
自分の商品はカレーではなく、自分自身だと。
違う商売をしている二人から、ほとんど同じ答えが返ってきた。
「ただ、話を聞く限りでは、かなり小さく始められますよね」
「土日だけで、家賃三万円です」
「うちとは全然違います」
店主は、店内を見回した。
「私は銀行から借りています。内装もかなり手を入れました。家族もいます」
客が来ないからといって、来週すぐにやめることはできない。
家賃も返済も待ってくれない。
家族の生活もある。
怖くても、店を開け続けるしかない。
「正直、もうやらざるを得ないんです」
先ほど、今も怖いと言った理由が分かった。
この店主は、勇気があるから立っているのではない。
引き返せないところまで金と人生を入れたから、毎日カウンターの中に立っている。
「でも、あなたの場合は違います」
店主は博之を見た。
「二十万円が安いとは言いません。ただ、失敗した時の上限を決めている。大きな借金もしない。
内装も最低限。土日だけ」
「ええ」
「それなら、やるという経験を二十万円で買うと考えれば、なしではないと思います」
「経験を買う」
「実際に客を呼んで、料理を出して、自分の時間に値段を付ける。それは、
考えているだけでは分かりませんから」
もちろん、適当に始めてよいという意味ではない。
保健所の許可も必要になる。
契約条件も確認しなければならない。
客が来ない場合も考える。
それでも、失敗の上限が決まっているなら、挑戦そのものに価値はある。
「借金して大きく始めた私が、小さく始められる人を止めるのも変ですからね」
店主はそう言って笑った。
博之は、カウンター越しに店内を見渡した。
整えられた内装。
並べられた酒瓶。
まだ空いたままの椅子。
この店主も、客が来るか分からないところから始めた。
違うのは、背負っている金額と、失敗できる幅である。
「なるほどなあ」
博之は、空になったカクテルグラスを見つめた。
二十万円で成功を買うことはできない。
だが、二十万円で、妄想を一度現実へ出してみることはできる。
その結果、客が来なかったとしても。
カレーが余ったとしても。
自分には店が向いていないと分かったとしても。
考えているだけでは得られなかった答えだけは残る。
「もう一杯、何か作ってもらえます?」
博之が言った。
「次は、少し強めでも大丈夫ですか?」
「明日、会社ないんで」
友人が横から笑った。
「カレー屋の相談しに来たんか、飲みに来たんか分からんな」
「両方や」
氷がグラスの中で鳴った。
ただの二軒目として偶然入ったバーで、博之はまた一つ、店を始める理由を手に入れていた。




