2026年7月4週目。第8話 看板しかないバー。友人と茨木のチェーン店で飲みながら商店街を漂流してバーに出会う
二〇二六年七月、第四週。
散髪屋で空きスナックの話を聞いてから、まだ一週間もたっていなかった。
築五十年の雑居ビルにある、六席だけの店。
管理人に採算の甘さを指摘され、自宅でExcelを何度も作り直した。
コンセプトカフェのオーナーには、カレーだけではなく、博之と話す時間にも料金を
付けた方がいいと言われた。
家電量販店へ行き、冷蔵庫や電子レンジの値段も見た。
それでも、結論は出ていない。
「結局、やるかやらんかやねんな」
数字を増やしても、最後に残る問題はそれだった。
そんなことを考えていた週末、博之は友人と軽く飲みに行くことになった。
店は駅近くのチェーン居酒屋だった。
特別うまい店を探す気力もなければ、予約するほど大げさな飲み会でもない。
安く飲めて、二人でだらだら話せれば、それでよかった。
「刺身、いく?」
友人がメニューを開きながら尋ねた。
「いや、今日はやめとくわ」
「何で?」
「この暑さで生もの、ちょっと怖いやん」
「チェーン店やから、その辺はちゃんとしてるやろ」
「ちゃんとしてると思うけど、当たったら仕事も小説も全部止まるからな」
「気にしすぎやろ」
「食中毒は、気にして防げるなら気にした方がええ」
結局、唐揚げ、ポテトフライ、揚げ出し豆腐と、火の通ったものばかりを注文した。
カレー屋を考え始めてから、外食を見る目も少し変わっていた。
料理が出てくるまでの時間。
皿の大きさ。
メニューの数。
一人の店員が、何席を回しているか。
以前なら気にもしなかったことを、無意識に見ている。
「店、ほんまにやるん?」
生ビールを一口飲んだ友人が聞いた。
「まだ分からん」
「また妄想だけ?」
「それを今、自分でも警戒してる」
博之は、空きスナックの条件を簡単に説明した。
土日だけなら、月三万円。
初期費用は二十万円以内。
昼はカレー。
夜は少人数で酒を飲みながら、メンヘラおじさんと話す店。
「六席やったら、ええんちゃう?」
「みんな簡単に言うねんな」
「何千万も借金する話ちゃうんやろ?」
「それ、コンカフェのオーナーにも言われた」
「ほんなら、やってみたらええやん」
「失敗する側は、簡単には言えへんねん」
そんな話をしながら、二人で軽く飲んだ。
仕事の愚痴も出た。
友人も友人で、会社の人間関係や、先の見えない働き方に疲れていた。
四十代になると、飲み会で語る内容も変わる。
若い頃のように、どこへ遊びに行くか、誰と付き合うかという話ではない。
仕事をいつまで続けるのか。
給料は上がるのか。
親はいつまで元気なのか。
自分はこのままでいいのか。
答えの出ない話を、揚げ物と安い酒で流し込む。
「もう一軒、行く?」
店を出たところで、友人が言った。
「ちょっと気になってる店あんねん。地ビール出すところ」
「ええやん」
二人で歩いて向かったが、店の前まで来ると、すでに扉が閉まっていた。
時計を見ると、午後五時半を少し過ぎたところだった。
「閉まるん早ない?」
「夜呑みはまだなんかな」
「どうする?」
「このまま帰るのも中途半端やな」
「ほんなら、ちょっと漂流するか」
「漂流って何やねん」
「店を決めずに歩くことや」
二人は行き先を決めないまま、春日の商店街を歩き始めた。
日が傾き始めていたが、七月の空気はまだ重たかった。
昔からある飲食店。
古い喫茶店。
シャッターの閉まった店。
新しくできたらしい美容室。
何度も通ったことのある道なのに、店をやる目線で見ると、以前とは違って見えた。
「ここ、家賃なんぼするんやろな」
「また店のこと考えてるやん」
「一回考え始めたら、全部そう見えるねん」
その時、友人が立ち止まった。
「ここ、何の店?」
美容室の隣に、小さな看板が出ていた。
店名らしい英文字と、グラスの絵。
それだけである。
料金表はない。
酒の種類も書かれていない。
表から中の様子もよく見えなかった。
「バーちゃう?」
「それは分かるけど、値段分からんの怖ない?」
「チャージ三千円とかやったら嫌やな」
「一杯二千円とかもあるで」
二人で看板を眺めながら、入るかどうか迷っていると、隣の美容室から年配の男性が顔を出した。
「そこ、入ったらええやん」
突然声をかけられ、博之と友人は振り返った。
「ここ、どんな店なんですか?」
「ええ店やで。怪しい店ちゃう」
美容室の男性は、なぜか自分の店のように熱心に説明し始めた。
「店の人、前はどこぞのホテルでバーテンダーやってたんや。酒もちゃんとしてるし、
変な値段取らへん」
「ホテルのバーテンダー?」
「そうそう。独立して、ここ始めたんや。まだできてそんなにたってへんけどな」
「表に値段、何も書いてないから入りにくいんですよ」
「それはわしも言うてる。値段書かな、初めての人は怖いやろって」
「ですよね」
「でも、入ったら普通や。兄ちゃんら、一杯飲んでいき」
そこまで隣の美容室から推薦されると、断る方が難しかった。
博之は友人と顔を見合わせた。
「どうする?」
「まあ、入ってみるか」
「高かったら一杯で帰ろ」
二人は扉を開けた。
外から想像していたより、店内は明るかった。
木目のカウンター。
壁に並ぶ酒瓶。
柔らかな照明。
椅子も床も新しく、古い店をそのまま使ったというより、一度きちんと手を入れたことが分かる。
「がっちり内装したんやな」
博之は小さな声でつぶやいた。
どう考えても、元は別の飲食店だった。
居抜きで借りた場所を、自分の店として丁寧に作り直したのだろう。
カウンターの中にいた男性が、二人に気づいて笑顔を向けた。
「いらっしゃいませ」
客は誰もいなかった。
開店して間もない時間なのか、そもそも今日はまだ客が来ていないのかは分からない。
博之は一瞬だけ、六席の空きスナックを思い出した。
店を開けても、客が来ない時間。
店主は、その静けさの中で何を考えるのだろう。
「お二人ですか?」
「はい」
「お好きな席へどうぞ」
博之たちは、入口近くではなく、カウンターの奥へ座った。
逃げるように一杯だけ飲んで帰るつもりだったはずなのに、腰を落ち着ける場所を選んでいた。
「何を飲まれますか?」
差し出されたメニューを開く。
値段を見て、博之はひとまず安心した。
高級ホテルのバーほどではない。
かといって、チェーン居酒屋の値段でもない。
きちんとした酒と、店主の技術に金を払う店なのだろう。
「お店、最近できたんですか?」
博之が尋ねた。
「はい。まだ始めたばかりです」
「隣の美容室のおっちゃんに、めちゃくちゃ勧められて入りました」
店主が苦笑した。
「あの方、よく宣伝してくださるんですよ」
「前はホテルでバーテンダーしてたって聞きました」
「ええ。長く勤めていたんですが、独立しまして」
博之は、カウンターの内側を見た。
整然と並んだグラス。
磨かれた道具。
背後の棚に並ぶ酒瓶。
客はまだ誰もいない。
それでも店主は、客が来ることを信じて、毎日ここを開けている。
「独立するの、怖くなかったですか?」
思わず、そんな言葉が出た。
店主は少しだけ手を止め、博之の顔を見た。
「怖かったですよ」
「やっぱり?」
「今も怖いです」
静かな店内で、氷の触れ合う音がした。
博之は友人と軽く飲みに出ただけだった。
閉まっていた小さなビールの店を諦め、何となく商店街を漂流した。
その先で偶然入った、客のいない新しいバー。
そこで博之は、自分が今、一番聞きたかった言葉を口にする人と出会った。
「実は僕も、小さい店を始めるか迷ってまして」
店主がグラスを置いた。
「どんなお店ですか?」
六席の空きスナック。
土日だけのカレー屋。
博之は、もう何度目になるか分からない説明を、今度は実際に店を始めたばかりの男に
向かって話し始めた。




