2026年7月3週目。第7話 「来る前提」ではなく、「来ない前提」で考える
コンセプトカフェを出た博之は、そのまま家には帰らなかった。
オーナーから言われた言葉が、頭に残っていた。
「冷蔵庫、電子レンジ、IH。値段を見て、配送や設置まで確認した方がいいですよ」
Excelには、初期費用二十万円と入力した。
だが、それは博之が頭の中で作った数字にすぎない。
本当に二十万円で収まるのか。
そもそも、六席の店に必要な設備とは、どの程度のものなのか。
一度、現物を見た方がいい。
博之は帰り道にある大型家電量販店へ入った。
「見るだけやしな」
いつもの言葉が、また口から出た。
見るだけなら、ただである。
値札を見ても金は減らない。
店員に質問しても、契約書へ名前を書く必要はない。
ただし、今回は以前とは少し違った。
不動産投資を考えていた時の「見るだけ」は、決断を先延ばしにするための言葉だった。
今日の「見るだけ」は、Excelに置いた数字が現実と合っているかを確かめるためのものだった。
少なくとも、博之はそういうことにした。
エスカレーターを上がり、白物家電の売り場へ向かう。
普段なら、冷蔵庫の横を通っても、容量や消費電力まで気にすることはない。
だが今日は、一台ずつ、自分の店に置くつもりで見た。
「こんな大きいのはいらんな」
家族向けの大型冷蔵庫は、最初から候補にならなかった。
六席の店で、営業は土日だけ。
カレーは予約数に数食を足す程度。
酒も大量に仕入れるつもりはない。
必要なのは、食材と飲み物を二日分ほど入れられる、小型の二ドア冷蔵庫だった。
売り場の端に、比較的安い商品が並んでいる。
「ハイアールか」
値札を見る。
三万五千円前後。
以前なら、聞き慣れない海外メーカーの商品を見て、すぐに候補から外していたかもしれない。
しかし、今回は見栄を張る必要がない。
客は冷蔵庫のメーカーを見に来るわけではない。
カレーを安全に保存できて、飲み物が冷えればいい。
「これで十分ちゃうか」
博之はスマートフォンを取り出した。
冷蔵庫、三万五千円。
メモへ入力する。
当初は、中古の冷蔵庫を買うつもりだった。
リサイクルショップなら、二万円前後で見つかるかもしれない。
一万五千円も安くなる。
自己破産の手続き中で、頼りになるのは七月のボーナス四十万円だけである。
少しでも初期費用を抑えたい。
だが、値札の下に書かれた配送や保証の案内を見て、別の問題に気づいた。
「中古を買って、誰が運ぶんや」
博之は車を持っていない。
仮にレンタカーを借りても、冷蔵庫を一人で三階まで運ぶことは難しい。
横丁のビルには、エレベーターもなかった。
配送を頼めば、その分の費用がかかる。
設置後、すぐに故障する可能性もある。
古い商品なら、電気代が高いことも考えられる。
一万五千円を節約するために、配送業者を探し、故障を心配し、
再び買い直すことになれば、かえって高くつく。
「新品の方が手間かからへんかもな」
新品なら保証がある。
配送や設置も、購入時にまとめて頼める。
三階まで運べるか、階段の幅は足りるかという確認は必要だが、少なくとも自分で抱えて
上がる必要はない。
中古が安いとは限らない。
本体価格ではなく、店で使い始めるまでにかかる金と手間で比べなければならない。
それも管理人に言われた「最後に何が残るか」と同じ考え方だった。
次に電子レンジを見る。
高機能なオーブンレンジは必要ない。
パンを焼くつもりもなければ、凝った料理を作る予定もない。
冷めた料理を温められれば十分である。
「二万五千円ぐらいか」
これもスマートフォンへ入力した。
冷蔵庫、三万五千円。
電子レンジ、二万五千円。
合計六万円。
その近くには、卓上型のIHクッキングヒーターが並んでいた。
一口なら数千円。
二口使える商品でも、一万円前後。
店に残っていた設備が、どこまで保健所の基準を満たすかは分からない。
そもそも家庭用の調理家電で営業できるのかも、まだ確認していない。
それでも、値段を知るだけなら意味はある。
「二つで一万円ぐらい見といたらええか」
冷蔵庫、三万五千円。
電子レンジ、二万五千円。
IHヒーター、一万円。
ここまでで七万円。
最後に必要なのが、ホットクックだった。
博之の頭の中では、カレーを作る中心的な設備になっていた。
材料を切り、調味料を入れて設定すれば、火加減を見続けなくても調理できる。
営業前に別の準備をしながら作れるなら、一人で店を回す負担を減らせる。
価格は五万円前後。
「冷蔵庫三万五千、レンジ二万五千、IH一万、ホットクック五万……」
合計十二万円。
そこへ配送や設置費が加わる。
炊飯器も必要になるかもしれない。
包丁。
まな板。
鍋。
保存容器。
皿。
スプーン。
コップ。
洗剤や消毒用品。
百円ショップや量販店の安い商品を使っても、細かな物を集めれば数万円はかかる。
「設備だけで十万は、ちょっと甘かったな」
すべてを新品でそろえれば、十二万円から十五万円。
家賃の初月分や仕入れ、予備費まで入れれば、初期費用二十万円という上限は、
余裕のある数字ではなかった。
だが、完全に外れているわけでもない。
セール品。
型落ち。
ポイント還元。
中古で買っても問題の少ない食器や調理器具。
必要なものを選別すれば、二十万円以内に収まる可能性はある。
「設備は、何とかなりそうやな」
博之は売り場の端に置かれたベンチへ座った。
冷蔵庫も、電子レンジも、ホットクックも、金を払えば手に入る。
高望みをしなければ、選択肢はいくつもある。
問題は、そこではなかった。
「設備は買えても、客は買われへんからな」
新品の冷蔵庫を入れても、客が来るわけではない。
五万円のホットクックを買っても、カレーが十五食売れる保証はない。
立派な皿をそろえても、六脚の椅子が埋まるとは限らない。
設備の値段を見に来たはずなのに、結局、考えるのは客のことだった。
コンセプトカフェのオーナーから教えられた、チャージ料についても考え直す。
カレーを食べて帰るだけの客からは、カレー代七百円だけを受け取る。
コーヒーを飲むなら、二百円を加える。
そこまでは、普通の飲食店である。
だが、カレーを食べ終えたあとも席に残り、博之と話すなら、別に料金をもらう。
「一時間千円ぐらいかな」
三千円、五千円を取るつもりはなかった。
友人や、長く配信を見てくれている人が遊びに来る感覚もある。
自分と話すために高額な金を払わせるのは、まだ抵抗があった。
それでも、七百円のカレーだけで二時間、三時間と話し続けるのは無理がある。
最初は楽しくても、いずれ不満が出る。
何で俺は、ただ同然で何時間も喋らなあかんねん。
オーナーに指摘された通りになるだろう。
カレー、七百円。
コーヒー、二百円。
食べて帰るだけなら、チャージなし。
残って話す場合は、一時間千円。
さらに応援したい人は、五百円のチップを買う。
「これなら、多少は分けられるか」
食事だけしたい人。
少し話したい人。
長く滞在したい人。
それぞれが使った時間に応じて、負担も変わる。
友人が来た場合に、どこまで料金を取るのか。
常連になった客を、毎回きっちり一時間で区切るのか。
細かな運用は、実際に始めなければ分からない。
最初から完璧な制度を作る必要はない。
そう考えたところで、博之の指が止まった。
「いや、待てよ」
自分は今、何を前提に料金を考えているのか。
一時間話す客がいる。
二時間滞在する客がいる。
友人やファンが次々に店へ来る。
その前提で、チャージや延長料金を決めている。
客が来ることを、当然のように考えていた。
「まだ一人も予約入ってへんやん」
店すら借りていない。
保健所にも相談していない。
告知もしていない。
それなのに、長居する客への料金を心配している。
妄想の中では、いつも店が混んでいた。
六席しかないから、すぐに満席になる。
ファンが店へ来て、カレーを食べ、チップを積んでくれる。
博之は、そういう場面ばかりを想像していた。
だが、考えなければならないのは、満席になった時のことより先に、誰も来なかった時の
ことではないのか。
博之はスマートフォンのメモを開き、新しい行に入力した。
来ない前提。
四文字を見た瞬間、頭の中で膨らんでいた店が少し静かになった。
YouTubeの登録者は四千八百人いる。
Xは二千人。
TikTokは八百人。
小説は五百万回以上読まれている。
ライブ配信では、「店を始めたら行きます」とコメントしてくれた人もいた。
だが、「行きます」は予約ではない。
大阪の近くに住んでいるとは限らない。
その日に仕事が入るかもしれない。
体調を崩すこともある。
書き込んだ時には行くつもりでも、一週間後には気持ちが変わっているかもしれない。
ネット上で四千八百人が登録していても、現実の店に来るのはゼロ人かもしれない。
「ゼロ人やったら、どうする?」
博之は小さな声で自分に尋ねた。
カレーを十五食作って、客が一人も来なければ、十五食すべてが残る。
自宅へ持ち帰って何日も食べれば、食材を完全に捨てずには済む。
だが、それを毎週続けることはできない。
何より、誰も来ない店で一日待ち続ける精神的な負担は大きい。
登録者四千八百人。
小説五百万閲覧。
その数字を自分で掲げたあと、店に誰も来なければ、会社で評価されないこととは別の形で、
自分の価値を否定されたように感じてしまうかもしれない。
「期待して開けるから、しんどいんやな」
最初は、予約制にすればいい。
予約が三人なら、カレーを五食作る。
予約が一人なら、その一人のために店を開けるのか、次の週へずらすのかを決める。
予約がゼロなら、無理に営業しない。
あるいは、最初の一か月だけは、予約が一定数に達した日だけ開ける。
「五人集まったら営業します、でもええんか」
毎週必ず土日を開けなければ、店とは呼べない。
どこかで、そんな思い込みがあった。
だが、土日だけの仮契約で始める店である。
見栄を張って毎週店を開け、誰も来ないまま固定費と材料費を積み上げる必要はない。
人が来る日にだけ開ける。
予約に合わせて仕込む。
それでも試すことはできる。
来ない前提で考えると、必要な設備も変わってくる。
最初からすべて買う必要があるのか。
ホットクックは、本当に二台必要なのか。
大量の食器をそろえる必要があるのか。
瓶ビールを何本も仕入れておく必要があるのか。
予約数が分かっていれば、食材も酒も、最低限だけ買えばいい。
「まず客を確かめてから、設備でもええんちゃうか」
店を借りる。
設備を全部そろえる。
カレーを十五食作る。
それから客を募集する。
これまで博之は、その順番で考えていた。
だが逆でもいい。
店を開くかもしれないと発信する。
実際に来たい人が何人いるのかを確認する。
保健所や管理人へ条件を確認する。
そのうえで、必要な設備だけを買う。
客が一人も来ないなら、十二万円の家電を買う前に分かる方がいい。
博之はスマートフォンのメモへ、さらに書き加えた。
予約数プラス二食。
予約ゼロなら、営業しない。
最初から毎週開けない。
設備は許可と予約の見込みを確認してから。
「これやったら、失敗しても小さくできるな」
客が来ないことを考えるのは、弱気になることではない。
自分には人気がないと決めつけることでもない。
ゼロ人でも壊れない仕組みを作ることである。
ゼロ人を想定しておけば、一人来た日は失敗ではない。
一人のためにカレーを作り、ゆっくり話す。
その人が「また来ます」と言ってくれれば、次は二人になるかもしれない。
初日から六席を埋める必要はない。
満席になる物語だけを想像して、自分を追い詰める必要もない。
博之はベンチから立ち上がり、もう一度、家電売り場を見渡した。
冷蔵庫。
電子レンジ。
IHヒーター。
ホットクック。
金さえ払えば、今日この場で買うこともできる。
だが、今買う必要はなかった。
物を買うことは、行動した気分になりやすい。
新品の冷蔵庫を契約すれば、店へ一歩近づいたように思える。
しかし、本当に先に確認すべきなのは、設備ではない。
営業できる店なのか。
本当に来たい人がいるのか。
そして、客が一人も来なくても、自分が耐えられる形になっているのか。
博之は何も買わず、量販店を出た。
それでも、ただ見て帰ったわけではなかった。
冷蔵庫が三万五千円すること。
新品には配送と保証という価値があること。
初期費用二十万円には、思ったほど余裕がないこと。
そして、設備より先に客を確かめなければならないこと。
妄想の店では、いつも六席が埋まっていた。
現実の店では、まずゼロ人から考える。
ゼロ人でも赤字を広げない。
そのゼロ人を、一人にする。
一人を、次は二人にする。
六席が埋まるのは、そのずっと先でいい。
家電量販店で博之が手に入れたのは、新しい冷蔵庫ではなかった。
誰も来ない日から始めてもいいという、現実的な覚悟だった。




