2026年7月3週目。第6話 「嫌やったら飛んだらええんですよ」コンカフェオーナーとの話。
ある日の夕方。
博之は、いつものコンセプトカフェの扉を開けた。
「おかえりなさい」
聞き慣れた声が飛んでくる。
初めて来た頃は、扉を開けるだけでも緊張した。女の子と何を話せばいいのか分からず、
注文した飲み物をひたすら口に運んでいた。
だが、今では百回以上通っている。
オーナーとも、働いている女の子たちとも顔見知りだった。
「いつもの席、空いてますよ」
案内されなくても分かる席に座ると、しばらくしてアイスコーヒーが置かれた。
「今日は、何か考え込んでます?」
「分かる?」
「いつもより黙ってるから」
「いつも、そんな喋ってる?」
「だいぶ喋ってます」
女の子が笑った。
「小説の続きですか?」
「いや。今日はカレー屋」
「カレー屋?」
近くにいた別の女の子まで振り向いた。
「また小説の中の話ですか?」
「今回は、現実の方」
「え、本当に店やるんですか?」
「まだやらへん。妄想とExcelの段階」
「一番得意なところですね」
「そうそう。そこまでは早いねん」
博之はスマートフォンを取り出し、Excelで作った試算表を見せた。
「散髪屋の近くに、六席ぐらいの空きスナックがあってな。土日だけなら、
月三万円ぐらいで借りられるかもしれへんねん」
「三万円は安いですね」
「築五十年で、三階で、まあまあ小汚いけどな」
「そこでカレーを出すんですか?」
「昼はカレー。夜は、ファンの人向けにちょっと飲めて、だらだら喋れる店」
「面白そう」
「面白そうやねんけど、計算したら全然儲からへん」
博之は試算表を拡大した。
「土日を全部使って、店に残るのが月三万九千円ぐらい」
「少なっ」
女の子が率直に言った。
「しかも、俺の人件費はゼロ」
「それ、働けば働くほどしんどくないですか?」
「そうやねん。そこでチップ制度を考えてん」
博之は、五百円のチップを一枚買ってもらい、酒を奢る代わりに応援してもらう仕組みを説明した。
「月二万円ぐらいチップが入ったら、店に三万九千円、俺に二万円。合わせて五万九千円」
「土日全部使って?」
「土は終日。日は昼のみやな。」
「それでも安いですね」
「やろ」
話を聞いていたオーナーが、カウンターの奥から近づいてきた。
「会社は辞めるんですか?」
「辞めへん。そんな勇気もないし、辞めたら普通に生活できん」
「借金して始めるんですか?」
「それもしない。今の俺に貸すところもないし、もう借金はこりごりや」
「初期費用はいくらです?」
「上限二十万円。七月のボーナス四十万円のうち、半分まで」
「営業は?」
「土日だけ。嫌になったり赤字が続いたりしたら、やめる」
オーナーは少し考えてから、あっさりと言った。
「それなら、やったらいいんじゃないですか」
「そんな簡単に言います?」
「簡単には言ってませんよ。今、条件を聞いたでしょ」
「まあ、聞いたけど」
「会社を辞めない。借金しない。初期費用の上限も決めてる。土日だけで、小さい店から始める」
オーナーは指を折りながら確認した。
「家賃二十万円で、保証金二百万円。厨房設備のローンを組んで、
脱サラして始めますと言われたら止めます」
「うん」
「でも今回は、家賃三万円。初期費用二十万円。六席。発信にも使える」
「うん」
「それなら、一回試してもいいんじゃないですか」
博之は、ストローで氷をかき混ぜた。
オーナーの口から出た「小さい」という言葉が、妙に心に残った。
これまでの博之は、何かを始めるなら、きちんとした形にしなければならないと思っていた。
毎日営業する。
本格的な厨房を作る。
たくさんの客を集める。
それで生活できるほど稼ぐ。
そこまでできなければ、始める意味がない。
だから、最初の一歩が大きくなりすぎて、動けなかった。
だが今回は、六席しかない。
土日だけである。
失敗したとしても、何千万円もの借金が残る計画ではない。
「でもなあ」
博之は、アイスコーヒーを一口飲んだ。
「嫌な客とか来たら嫌やねん」
女の子たちが顔を見合わせた。
オーナーは間を置かずに答えた。
「来ますよ」
「即答やな」
「うちを百回以上見てきたんやから、分かるでしょ」
「まあ、それは」
「いい人も来ます。静かに飲んで帰る人もいる。毎回差し入れを持ってきてくれる人もいます」
オーナーは、カウンターに軽く手を置いた。
「でも、酔っ払う人も来る。女の子にしつこく絡む人もいる。自分は特別扱いされて
当然やと思ってる人もいる」
「おるな」
「金を払ったんやから、何を言ってもいいと思ってる人もいます」
「それは、しんどいな」
「しんどいですよ」
オーナーは笑ったが、否定はしなかった。
「でも、そういう人にどう帰ってもらうか。どこまでなら許すか。
次から来てもらわない方がいいのか。それも店をやる仕事です」
「それを楽しめへんかったら、無理?」
「全部を楽しまなくていいですよ。ただ、面倒なことも起こる前提で始めた方がいいです」
博之は黙ってうなずいた。
YouTubeにも、変なコメントは来る。
小説にも、気に入らないと文句を言う人間はいる。
画面の向こうなら、非表示にすることもできる。
だが、現実の店では、相手が六席のうち一つに座っている。
「まあ、それも含めてVlogにできるかなとは思ってるけど」
「何でも動画にしたら解決すると思ってません?」
「ちょっと思ってる」
「危ないなあ」
女の子が笑った。
オーナーは試算表をもう一度見た。
「それより、料金の取り方を変えた方がいいですよ」
「チップ?」
「チップだけやと、払う人と払わない人が出ますよね」
「まあ、善意やからな」
「カレーを食べて帰るだけの人は、カレー代だけでもいいと思います」
「七百円」
「でも、そのあと一時間、二時間と座って、博之さんと喋る人もいるんでしょ?」
「多分、それがメインになると思う」
「それをチップだけに任せたら、絶対しんどくなりますよ」
オーナーは博之の前にあるコーヒーを指した。
「カレー七百円で、三時間喋る」
「うん」
「時給にしたら、二百円ちょっとですよ」
「カレーの材料費も入ってるけどな」
「もっと悪いやないですか」
「確かに」
「最初は楽しいと思いますよ。来てくれたことがうれしいから、何時間でも喋る」
オーナーの口調が、少し真面目になった。
「でも、何回か続けたら思いますよ。何で俺、七百円で三時間も喋らなあかんねんって」
博之は思わず笑った。
「それ、絶対思うわ」
「でしょう」
「YouTubeでも思う時あるもん。動画を見ずに、DMで全部教えてくれとか」
「店でも同じです。相談を聞く。写真を撮る。ずっと話し相手になる。それを全部サービスにしたら、
続かないです」
「ほんなら、どうする?」
「チャージを取ったらいいんですよ」
「カレー食うだけでも?」
「食べてすぐ帰る人は、なしでもいいと思います」
オーナーは指でカウンターを区切るように動かした。
「でも、食べたあとに残って喋るなら、まず五百円なり千円なり取る」
「俺と喋る代?」
「店に滞在する代金です。博之さんと喋れるのも込み」
「一時間千円ぐらい?」
「最初はそれでもいいんじゃないですか。長くいるなら追加料金を取る。
二時間で千五百円とか、三時間なら二千円とか」
「友達が来ても取るん?」
「そこは博之さんが決めたらいいです。でも、友達やから無料、
知り合いやから無料ってやってたら、誰から金を取るのか分からなくなりますよ」
「うわ、それはありそう」
「全員から三千円、五千円取れとは言いません。ただ、ルールは作った方がいいです」
博之の頭の中で、またExcelの表が開き始めた。
カレー七百円。
コーヒー二百円。
食べて帰るだけなら、チャージなし。
残って喋るなら、一時間千円。
さらに応援したい人は、五百円のチップ。
夜は基本料金三千円。
延長とチップは別。
「チップは、なくてもええん?」
「チップは応援ですから、なくてもいい。でも、博之さんの時間そのものは、
最初から料金に入れた方がいいです」
「なるほどな」
「博之さんの商品、カレーだけじゃないですよ」
「何なん?」
「博之さんですよ」
博之は一瞬、黙った。
「カレーだけ食べたい人は、もっと入りやすい店に行きます。わざわざ古いビルの
三階まで上がってくる人は、メンヘラオジサンに会いたいから来るんでしょ」
「そう言われると、ちょっと恥ずかしいけどな」
「そこを無料にしたら、一番売れるものを無料で配ってるのと同じです」
会社では、自分が商品になるなど考えたこともなかった。
決められた場所へ行き、決められた仕事をこなし、できるだけ迷惑をかけずに帰る。
そこでは、自分が誰であるかより、休まず働けるかどうかの方が重要だった。
だが、六席の店では違う。
客は、会社員の博之ではなく、メンヘラおじさんに会いに来る。
小説を書いてきた博之の話を聞きに来る。
それに値段を付けてもいいのかもしれない。
「まあ、やってみて嫌やったら、飛んだらええんですよ」
オーナーが急に軽い調子へ戻った。
「また無責任なこと言うな」
「何がです?」
「店を飛ぶって。契約もあるし、客もおるやろ」
「借金残して行方不明になれと言ってるんじゃないですよ。合わなかったら、
きちんと店を閉めればいいという話です」
「言い方が悪いやろ」
「博之さんに分かりやすく言いました」
「俺、今、自己破産中やで」
「知ってます」
「破産してる人間に、飛んだらええって言う?」
横で聞いていた女の子が、こらえきれずに吹き出した。
「いやいや」
「何やねん」
「破産っていう、だいぶ大きめの無責任をやった本人が、無責任って注意するんですか」
一瞬、店内が静かになった。
次の瞬間、オーナーも女の子たちも笑い出した。
「確かにな」
博之も笑うしかなかった。
人生で一番大きく飛んだのは、自分である。
信用取引で損を広げ、返せなくなり、自己破産までたどり着いた。
そんな男が、小さな店を閉める話に責任を説いている。
「でもな」
博之は笑いながらも、空になりかけたコーヒーカップを見つめた。
「今度は、飛ぶんじゃなくて、ちゃんと着地したいねん」
オーナーは、少しだけ表情を変えた。
「それなら、最初に出口を決めておいたらいいですよ」
「出口?」
「初期費用は二十万円まで。追加の借金はしない。赤字が何か月続いたらやめる。
次の借り手が決まったら撤退する」
「うん」
「そこを守ってやめるなら、飛ぶんじゃないです。予定どおり着地しただけです」
博之は、小さくうなずいた。
「一回失敗した人の方が、小さく始められると思いますよ」
「そうなん?」
「何も失敗したことがない人は、自分ならできると思って、最初から大きい店を借りたりするから」
「俺は、もう大きく張る金も信用もないけどな」
「それも安全装置です」
「ひどい言い方やな」
「褒めてますよ」
オーナーは笑った。
「まずは、店を借りるか決める前に、本当に二十万円でそろうか見てきたらどうです?」
「冷蔵庫とか?」
「冷蔵庫、電子レンジ、IH。値段を見て、配送や設置まで確認する。Excelの数字が合ってるか、
現物を見た方がいいですよ」
「見るだけなら、ただやしな」
「また出ましたね。見るだけ」
「最初は全部、見るだけから始まるんや」
博之はスマートフォンのメモに、三つの言葉を入力した。
冷蔵庫。
電子レンジ。
IHヒーター。
まだ店を借りるとは決めていない。
カレーを一食も作っていない。
客が来る保証もない。
それでも、妄想だけだった六席の店に、少しずつ値段とルールがつき始めていた。
カレーの値段だけではない。
店に滞在する時間。
博之と話す時間。
そして、失敗した時に撤退するための条件。
始めるために必要なのは、何が何でも成功すると信じ込むことではない。
失敗しても、今度こそ小さく着地できる形を作ることなのかもしれなかった。




