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2026年7月3週目。第5話 妄想は速い。でも、一歩目は遅い

 Excelのセルを黄色く塗ったあと、博之はノートパソコンを閉じた。

 店に残る金が、約三万九千円。

 チップで作る、自分の仮の人件費が二万円。

 合わせて、約五万九千円。

 数字だけなら、一応の形にはなった。

「ここまでは早いんよな……」

 椅子の背にもたれ、天井を見上げる。

 独り言だった。

 頭の中で商売を作るのは得意だった。

 家賃。

 原価。

 客単価。

 固定費。

 損益分岐点。

 価格を変え、客数を変え、営業日を変える。Excelのセルをいくつか書き換えるだけで、

 赤字の店が黒字になり、六席の空きスナックが繁盛店にもなる。

 気がつけば、二時間でも三時間でも考えていられる。

 けれども、実際に金を払い、誰かと契約し、後戻りしにくい一歩を踏み出す段階になると、

 急に足が止まる。

「いざやるとなったら、動かれへんねんな」

 これまでにも、同じことがあった。

 不動産投資を考えていた頃である。

 最初は、新築ワンルームマンションだった。

 営業マンの説明を聞き、節税効果や将来の家賃収入が書かれた資料を持ち帰った。

 だが、自分で計算し直すと、営業マンの示した未来ほど都合よくはいかなかった。

 空室。

 修繕。

 管理費。

 金利。

 売却価格。

「これは違うな」

 そう判断して、新築には手を出さなかった。

 次に調べたのは、築古のワンルームマンションだった。

 新築より価格が安く、表面上の利回りは高い。

 だが、管理費と修繕積立金が重い。

 給湯器やエアコンが壊れれば、一度に金が飛ぶ。

 さらに調べていくうちに、最後は築古戸建てへたどり着いた。

 安い戸建てを買い、自分で直し、家賃を得る。

 おそらく、自分が不動産をやるなら、それが一番合っている。

 そこまでは考えた。

 不動産屋も何軒か回った。

 物件資料も集めた。

 家賃相場や固定資産税、リフォーム費用まで計算した。

 それでも結局、一軒も買わなかった。

「知識だけは、よう増えたけどな」

 利回りの計算方法は覚えた。

 危ない物件を見分ける目も、多少は身についた。

 だが、家賃を生む物件は一つも手元に残らなかった。

 慎重だったと言えば、聞こえはいい。

 怖くて決断できなかっただけとも言える。

 その一方で、株の信用取引では、行ってはいけないところまで行った。

 もう少し上がる。

 ここで損切りしたら、今までの損が確定する。

 次の取引で取り返せる。

 そうやって、引き返すべき場面で踏み込み続けた。

 不動産では、一歩も出なかった。

 信用取引では、何歩も出すぎた。

 結果として残ったのが、自己破産だった。

「動かれへん時には動かれへんのに、動いたらあかん時に限って動くんよな」

 我ながら、扱いにくい人間だった。

 今は信用取引もできない。

 不動産を買うために、金融機関から融資を受けることも難しい。

 過去を振り返り、あの時に築古戸建てを買っていれば、信用取引に手を出していなければ、

 と考えることはある。

 だが、すべてはたらればだった。

 買った戸建てが空室になっていた可能性もある。

 大規模な修繕が必要になっていたかもしれない。

 都合のいい未来だけを選び、失ったものを数えても仕方がない。

 その「今」に、突然転がり込んできたのが、六席の空きスナックだった。

 築五十年。

 三階。

 土日だけなら、家賃は月三万円。

 冷蔵庫や調理器具をそろえても、初期費用の上限は二十万円。

 不動産のように何百万円、何千万円という金は必要ない。

 借金をして始めるつもりもない。

 七月に入ったボーナス四十万円。その半分を使えば、一度は試せる。

「ほんまに、やれるんかな」

 金額が小さいから、不安も小さいわけではなかった。

 失敗したら、二十万円を失う。

 それだけではない。

 YouTubeで告知して、誰も来なかったらどうする。

 登録者四千八百人と自分で言いながら、現実の六席すら埋まらなかったら、かなり恥ずかしい。

 カレーが余ったら。

 チップが一枚も置かれなかったら。

 嫌な客が来たら。

 途中で体力が続かなくなったら。

 考え始めると、失敗の形はいくらでも思いついた。

 博之はスマートフォンを手に取った。

 一人で考え続けても、同じ場所を回るだけである。

 YouTubeのライブ配信を始め、視聴者に空きスナックの話をしてみることにした。

「まだ全然、決めたわけじゃないんですけどね」

 最初に逃げ道を作ってから、話し始めた。

「散髪屋さんに行ったら、近くの空きスナックを土日だけ借りられるかもしれん、という話が

 ありまして。家賃は月三万円ぐらい。そこでカレー屋と、夜は小さい飲み屋みたいなんを

 できへんかなと」

 すぐにコメントが流れ始めた。

『飲食はそんなに甘くないですよ』

『絶対に赤字になると思う』

『衛生管理は大丈夫なんですか?』

『保健所の許可、取れるんですか?』

『週二日勤務なのに、土日まで体力持ちます?』

『客が来る前提で考えてませんか?』

 案の定だった。

「まあ、そう言われるわな」

 博之は苦笑した。

 どの指摘も、完全に間違っているわけではない。

 飲食店が簡単でないことは分かっている。

 体力に不安があることも、その通りだった。

 営業許可や衛生面については、まだ何も確認していない。

 客が来る保証もない。

 それでも、画面に「甘くない」「無理」「赤字」と並ぶと、胸の奥が少し沈んだ。

 自分でも不安に思っていることを、他人から言葉にされると弱い。

「やっぱり、やめた方がええんかな」

 一瞬、そう思った。

 ライブ配信を切れば、この話そのものをなかったことにもできる。

 空きスナックをもう一度見に行かなければいい。

 管理人にも連絡しなければ、そのうち別の借り手が見つかる。

 妄想だけして、結局何もしなかった話が一つ増えるだけである。

 だが、配信を終えたあと、博之はもう一度Excelを開いた。

 家賃三万円。

 初期費用、最大二十万円。

 月々の固定費、約六万円。

 金額を見ながら考え直す。

 もしこれが、家賃二十万円の路面店だったら。

 保証金が二百万円必要だったら。

 厨房設備に五百万円かかる話だったら。

 博之も最初からやろうとは思わない。

 けれども、今回は違う。

 失敗したところで、何千万円もの借金が残る計画ではない。

 二十万円は、今の博之にとって決して小さな金ではなかった。

 自己破産の手続き中に、軽々しく使ってよい金でもない。

 だからこそ、上限を決める。

 追加の借金はしない。

 二十万円を超えるなら撤退する。

 毎月の赤字が続くなら店を閉じる。

 出口を決めてから試せば、信用取引の時とは違う。

「二十万円で、一回現実を見られるんか」

 そう考えると、少しだけ見え方が変わった。

 もう一つ、この店には飲食以外の価値があった。

「これ、Vlogになるんよな」

 物件を見に行く。

 管理人と条件を交渉する。

 保健所へ相談する。

 冷蔵庫や電子レンジを選ぶ。

 古い店を掃除する。

 初めてカレーを仕込む。

 客が来る。

 あるいは、誰も来ない。

 カレーが余る。

 値段を変える。

 嫌な客への対応に困る。

 その全部が、動画になる。

 小説にも書ける。

 noteの記事にもできる。

 ライブ配信の話題にもなる。

 博之は紙のノートを開き、真ん中に丸を描いた。

 丸の中に「週末カレー屋」と書く。

 そこから線を伸ばした。

 YouTube。

 小説。

 note。

 ライブ配信。

 ファンミーティング。

「一個やったら、全部つながるんか」

 ただし、店の赤字を動画の収益で埋めればよいという話ではない。

 それを認めれば、店でいくら損をしても「宣伝費」「体験代」と言い訳できてしまう。

 信用取引で損を広げた時と、同じことになりかねない。

 店は店として、赤字を出さない。

 そのうえで、過程を発信にも使う。

 順番を間違えてはいけない。

 スマートフォンを開き、先ほどの配信のコメントを見返した。

 否定的な言葉の間に、数は少ないが、別のコメントも残っていた。

『本当に始めるなら一回行ってみたい』

『カレー食べに行きますよ』

『六席なら埋まる日もあるんじゃないですか』

『店ができていく動画は見たいです』

 もちろん、「行きたい」と「実際に来る」は違う。

 予約でもない。

 売上でもない。

 その場の勢いで書いただけかもしれない。

 それでも、ゼロではなかった。

「やる前から、答えは出えへんわな」

 妄想だけなら、これまでに何百回もしてきた。

 戦国時代で飯屋を開く話。

 江戸時代で豚汁を売る話。

 地方で商売を立て直す話。

 小説の中では、店を何軒も開き、人を雇い、町まで栄えさせてきた。

 頭の中では、何度でも成功できる。

 現実は違う。

 現実には、大家がいる。

 保健所がある。

 仕入れがある。

 客が来ない日がある。

 そして、途中で怖くなり、逃げたくなる自分がいる。

「だから、書くより難しいんやろな」

 博之は小さく笑った。

 まだ契約をする必要はない。

 明日、冷蔵庫を買う必要もない。

 次にやるべきことは、もっと小さくてもいい。

 実際に店を経営している人へ、この計画を話してみる。

 博之には、百回以上通っているコンセプトカフェがあった。

 オーナーとも顔見知りである。

 飲食店であり、客と話す時間を売る店でもある。

 カレーと会話を組み合わせようとしている博之にとって、これ以上近い商売の先輩はいないかも

 しれない。

「今度行った時、聞いてみるか」

 Excelの数字を作るところまでは、いつも速い。

 問題は、その次だった。

 妄想を現実に変える最初の一歩は、契約書に判を押すことではない。

 怖いと言いながらも、店をやっている人に自分の甘い計画を見せ、笑われる覚悟をすることなのかも

 しれなかった。

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