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第4話 メンヘラおじさんの人件費。自己肯定感低すぎて店でも安売りするところやった。

 Excelのセルには、三万八千二百円と表示されていた。

 端数を丸めれば、約三万八千円。

 土曜日昼夜と日曜日昼を、一か月ほぼすべて使う。

 昼はカレーを作り、コーヒーを出す。

 土曜日の夜には、少人数の飲み屋を開く。

 買い出しをして、仕込みをして、店を掃除し、客と話し、皿やグラスを洗って帰る。

 家賃、水道光熱費、材料費、酒代、氷代、消耗品代。

 思いつく限りの経費を引いた結果、最後に残ったのが三万九千円だった。

「一か月、全部回して三万九千円か」

 博之は数字を見たまま、椅子の背にもたれた。

 赤字ではない。

 それ自体は悪くない。

 少なくとも、店を開けるたびに金が減っていく計算ではなかった。

 だが、そこには大きな問題があった。

「これ、メンヘラオジサンの人件費、入ってへんやん」

 正確には、博之自身の人件費である。

 朝からスーパーへ行き、肉や野菜を買う。

 米を炊き、カレーを作り、店まで運ぶ。

 開店前には床を掃き、カウンターを拭き、客を迎える準備をする。

 営業が始まれば、注文を聞き、コーヒーを入れ、話し相手になる。

 土曜日の夜には酒を出し、客が帰ったあとには、グラスを洗い、ゴミをまとめ、店内を元の状態にす。

 それを毎週繰り返す。

 博之が三万九千円を給料として受け取れば、店に残る金はゼロになる。

「俺が全部働いて、店には何も残らへんのか」

 冷蔵庫が故障しても、買い替える金がない。

 客が少ない月が一度来ただけで、すぐに赤字へ落ちる。

 食器を増やすことも、新しい料理を試すこともできない。

 店の中に金が残らなければ、半年続けても何も育たない。

 それでも、三万九千円を自分の給料として考えれば、まだましなのか。

 月に六十四時間働くとして、時給は六百円ほど。

 仕込みや買い出しの時間まで含めれば、さらに下がる。

「やっぱり、おっちゃんの言う通りやな」

 安くすれば客が来る。

 客が来れば、何とかなる。

 博之は、どこかでそう考えていた。

 しかし、その考えでは店が回ったとしても、働く自分の方が先に潰れる。

 会社では、長い間、自分の時間に価値があると思えなかった。

 何度も休職し、週に二日しか出社できない。

 周囲の人間より働けていないという後ろめたさが、いつもどこかにあった。

 だから会社の外でも、自分の時間を安く差し出そうとする。

 動画を作る。

 小説を書く。

 ライブ配信で話を聞く。

 コメントに返事をする。

 それらに何百時間使っても、金にならなければ仕方がないと思っていた。

「店でも、また同じことするところやったな」

 博之は部屋の中を見回した。

 その時、棚の上に置かれた透明なケースが目に入った。

 中には、赤や青の丸いチップが入っている。

 百円や五百円と印刷された、カジノ風の玩具のチップだった。

 何かに使えると思って買ったものの、実際には長い間、棚の飾りになっていた。

 博之はケースを手に取り、五百円と書かれたチップを一枚取り出した。

「ああ、これ使えるんちゃうか」

 時々通っているコンセプトカフェでは、客が女の子に飲み物を奢る仕組みがあった。

 客は自分の分だけでなく、話している相手にも一杯注文する。

 それが店の売上になり、キャストの評価や給料にもつながる。

 ただ、博之自身は、客から酒を奢られても何杯も飲むつもりはなかった。

 酒が嫌いなわけではない。

 だが、店が終わったあとには小説も書きたい。

 YouTubeの配信をする日もある。

 抗うつ薬との相性も考えなければならない。

 毎週、客と一緒に酒を飲み続けるような働き方では、長く持たない。

「酒はいらんけど、喋る分にはええんよな」

 ライブ配信では、視聴者からスーパーチャットをもらうことがあった。

 五百円。

 千円。

 時には、それ以上。

 特別な商品を渡したわけではない。

 話が面白かった。

 続けてほしい。

 少し応援したい。

 そういう気持ちに対して、視聴者が金を払ってくれた。

 ただし、スーパーチャットはそのまま全額が博之の手元に入るわけではない。

 サービス側の手数料が引かれる。

「直接会うんやったら、直接もろてもええんちゃうか」

 博之は五百円のチップを指先で転がした。

 店で、博之に酒を一杯奢りたいと思った客がいたとする。

 その代わりに、このチップを買ってもらう。

 一枚五百円。

 話が面白かったと思えば一枚。

 もう少し応援したいと思えば二枚。

 かなり楽しんでもらえたなら、カウンターの上に何枚か積んでもらう。

 酒を飲まずに、酒を奢ってもらったのと同じ形にする。

「スパチャの現金版やな」

 強制ではない。

 チップを払わない客を冷たく扱うつもりもない。

 カレーを食べに来た人には、普通にカレーを出す。

 その上で、メンヘラオジサンと話して楽しかった、また店を続けてほしいと思ってくれる人から、

 少しだけ応援してもらう。

 博之はExcelに新しい項目を作った。

 項目名は「チップ収入」。

 一回の営業で、平均二千円。

 五百円のチップなら四枚である。

 昼営業が月八回。

 夜営業が月四回。

 合計十二回。

 二千円を十二回で、二万四千円。

 三万九千円に二万四千円を加えると、六万三千円になった。

「全然足らんやんけ」

 思わず声が出た。

 チップ制度を思いついた瞬間には、もっと大きな金額になる気がしていた。

 だが、計算してみれば二万四千円である。

 しかも、毎回必ず二千円分のチップが出る保証はない。

 誰も置かない日もある。

 夜の客が二人しか来ない日もある。

 博之は数字を少し下げ、月二万円と入力し直した。

 店に残る利益、三万九千円。

 博之がチップとして受け取る金、二万円。

 合わせて五万九千円。

「まあ、約六万円か」

 ただし、これは六万円の利益ではない。

 三万九千円は店に残す金。

 二万円は博之自身の仮の人件費。

 そう分けて考えなければ、また店の金と自分の金が混ざってしまう。

 自分の人件費が月二万円。

 土日を使う量を考えれば、決して高くはない。

 むしろ安い。

「これでも、まだ趣味寄りやな」

 効率だけを考えるなら、会社で残業をするか、単発の仕事を探した方がいいかもしれない。

 それでも、博之はExcelを閉じなかった。

 この店で得られるものは、六万円だけではない。

 自分で場所を借りる。

 自分で値段を決める。

 実際に料理を作る。

 客を告知で呼ぶ。

 誰が来て、何に金を払うのかを、自分の目で確かめる。

 YouTubeの登録者四千八百人という数字が、現実の六席を埋められるのか。

 小説を四百五十万回読まれた男に、直接会ってみたいと思う人がいるのか。

 その人たちは、カレーに七百円を払うのか。

 博之と話す時間に、五百円のチップを置いてくれるのか。

 それは、Excelの中では答えが出ない。

「やってみな、分からへんな」

 博之は、五万九千円のセルを黄色く塗った。

 完成した商売の利益ではない。

 最初の実験で目指す金額だった。

 仮に初月の人件費が安くても、やってみれば数字が取れる。

 十五食作って、何食売れたか。

 昼と夜では、どちらに客が来たか。

 カレーだけ食べて帰る人が何人いたか。

 何時間も話していく人がいたか。

 チップが一枚でも置かれたか。

 その結果を見て、次の月に変えればいい。

 カレーの仕込み量を減らす。

 価格を上げる。

 昼営業を減らし、夜に寄せる。

 予約制にする。

 話す時間に、最初から料金を付ける。

 今はまだ、何が正しいのか分からない。

「初めから百点の商売なんか、無理やわな」

 四十万円のボーナスから、初期費用として最大二十万円を使う。

 月三万九千円を店に残す。

 チップで、博之自身の人件費を二万円作る。

 合わせて、約五万九千円。

 大きな商売ではない。

 成功と呼べる数字でもない。

 だが、二十万円で実際の店を試し、客の反応を見られるなら、残りは体験の価値だと

 考えることもできる。

 動画にもなる。

 小説にも書ける。

 失敗したとしても、何が駄目だったかは残る。

 妄想だけで終われば、何も残らない。

 博之はExcelの一番下に三つの行を追加した。

 第一段階。

 赤字を出さない。

 第二段階。

 自分の人件費を作る。

 第三段階。

 自分の人件費を払ったうえで、店に月五万円を残す。

「まずは、第一段階からやな」

 休職を十回以上繰り返した窓際サラリーマンが、いきなり立派な経営者になれるわけではない。

 それでも、自分の時間を無料で差し出すことだけは、少しずつやめなければならなかった。

 カレー七百円。

 夜営業三千円。

 チップ一枚五百円。

 まだ、客が一人でも来ると決まったわけではない。

 それでも六席の小さな店で、メンヘラおじさんは初めて、自分の時間に値札を付けようとしていた。

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