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2026年7月3週目。第3話 自分を安売りしない計算

 自宅に戻っても、管理人のおっちゃんの言葉が頭から離れなかった。

「十時間働いて、最後に二千円残りましたでは、商売ちゃう。金のかかる趣味や」

 ごもっともであった。

 博之は散髪したばかりの頭をかきながら、ノートパソコンを開いた。

 店を見ている間は、六席のカウンターに人が座り、鍋からカレーの湯気が立ち上る光景ばかりを

 想像していた

 しかし、湯気だけでは家賃を払えない。

 客の笑顔だけでも、冷蔵庫は買えない。

「一回、ちゃんと計算するか」

 Excelを立ち上げ、新しいファイルを作った。

 ファイル名は、とりあえず「週末カレー屋試算」。

 こういうものを作るのは得意だった。

 会社でも、数字を並べ、項目を分け、複数の条件を比較するような仕事は何度もしてきた。

 人と話すのは苦手でも、Excelは博之を否定しない。

 休職した回数も聞いてこない。

 機嫌をうかがう必要もない。

 数字を入れれば、数字で返してくれる。

 最初の行に、月額家賃三万円と入力した。

 次に、水道光熱費。

 共益費。

 材料費。

 消耗品費。

 設備費。

 そして最後に、人件費と書いた。

 そこで、指が止まった。

「俺の人件費か……」

 自分の時間に値段を付けることには、妙な抵抗があった。

 会社では十回以上、休職している。

 今では精神障害者保健福祉手帳の三級を持ち、週に二日ほど会社へ行くだけの

 窓際サラリーマンだった。

 会社の中で、自分が必要とされている感覚はほとんどない。

 仕事を与えられても、それは期待されているからというより、

 そこに在籍しているから割り振られているように思えた。

 誰からも認められていない。

 少なくとも、博之自身はそう感じていた。

 一方、会社の外では、少しずつ数字が積み上がっている。

 YouTubeの登録者は四千八百人。

 Xは二千人。

 TikTokは八百人。

 小説家になろうでは、いくつもの作品が合計五百万回ほど読まれた。

 会社の人事評価だけを見れば、何度も休職した障害者。

 インターネット上の数字だけを見れば、何百万人にも作品や動画を見られた発信者。

 どちらが本当の自分なのか、博之にも分からなかった。

「そら、自信なんか持てへんわな」

 だから、カレーを五百円にしようとした。

 安ければ文句を言われにくい。

 五百円なら、味が少々普通でも許してもらえる。

 自分に会いに来ることへ金を払ってもらうのが申し訳ないから、

 せめてカレーぐらいは安く出そうとした。

 だが、それでは結局、また自分の時間を無料で差し出すことになる。

「七百円にしよう」

 博之は販売価格の欄に、七百円と入力した。

 五百円から七百円。

 たった二百円の値上げだった。

 それでも、自分の中では随分と思い切った決断に感じた。

 次は販売数。

 管理人に話した二十食は、さすがに多すぎる。

 椅子は六つしかない。

 初めて開く、三階の目立たない店に、いきなり二十人が来ると思う方がおかしい。

「十五食でも多いかもしれんな」

 最初は十五食仕込む。

 だが、売上の試算は一日十二食で置くことにした。

 売れ残りを考えれば、そのぐらいが現実的に思えた。

 カレー十二食、七百円。

 一日八千四百円。

 コーヒーは一杯二百円。

 五杯売れたとして千円。

 飲み物や菓子を持ち込む客が二人おり、一人五百円の持ち込み料を払えば、さらに千円。

 一日の昼営業で、一万四百円。

 土曜日と日曜日、月八日営業すれば、八万三千二百円。

「昼だけで八万円ちょいか」

 数字だけを見れば、悪くないようにも思える。

 しかし、売上は利益ではない。

 管理人に言われたばかりだった。

 次に、土曜日の夜営業を入力した。

 当初考えていた一時間二千五百円はやめた。

 一時間三千円。

 瓶ビールか焼酎など、酒は二杯まで。

 小盛りのカレーはサービス。

 酒や食べ物を外から持ち込む場合は、別に五百円。

 一晩に五人来れば、一万五千円。

 持ち込み料が二人分あれば千円。

 一晩一万六千円。

 月四回で、六万四千円。

 昼と夜を合わせた月間売上は、十四万七千二百円になった。

「十五万円弱か」

 博之は、少しだけ気分がよくなった。

 月の売上が十五万円と聞けば、小さな副業としては悪くない。

 だが、ここからが本番だった。

 カレー一食の原価を、米、肉、野菜、ルーを合わせて二百五十円と仮定する。

 昼営業で月九十六食売れれば、二万四千円。

 夜の小盛りカレー。

 酒。

 コーヒー。

 氷。

 おしぼり。

 紙ナプキン。

 洗剤。

 消毒液。

 ゴミ袋。

 細かな消耗品まで含めて、材料費と変動費を合計四万九千円と仮置きした。

 家賃は三万円。

 水道光熱費、共益費、通信費や予備費まで考えると、店を維持する固定費は月六万円ほど

 見ておいた方がよさそうだった。

 売上、十四万七千二百円。

 材料費と消耗品、四万九千円。

 固定費、六万円。

 残額、三万八千二百円。

 博之はセルを見つめた。

「三万八千円か」

 多少の誤差を考えれば、約三万八千円。

 一か月の土曜日昼夜と日曜日の昼を、ほぼすべて店に使う。

 買い出しをする。

 カレーを仕込む。

 店を掃除する。

 客を迎える。

 酒を出す。

 話し相手になる。

 皿とグラスを洗い、最後にゴミをまとめて帰る。

 それだけやって、残るのは三万九千円。

 しかも、そこには博之自身の人件費が一円も入っていなかった。

 一日八時間働くとして、月六十四時間。

 三万八千二百円を六十四時間で割れば、時給は六百円にも届かない。

「俺が三万九千円もろたら、店の利益はゼロやからな」

 冷蔵庫が壊れても、買い替える金がない。

 客が少ない月が一度来ただけで、赤字になる。

 半年続けても、店には何も積み上がらない。

 管理人の言った通りだった。

 店が回ることと、商売として成り立つことは違う。

「これは、さすがに厳しいな」

 それでも、Excelを閉じる気にはならなかった。

 次に、初期費用の欄を作った。

 小型冷蔵庫。

 電子レンジ。

 ホットクック。

 炊飯器。

 IHヒーター。

 鍋、包丁、まな板、保存容器。

 皿、スプーン、コップ。

 洗剤、消毒用品、掃除道具。

 小さな看板や、店内の照明も必要になるかもしれない。

 まだ実際の値段は調べていない。

 中古でそろえるか、新品にするかも決めていない。

 ひとまず設備と備品で十五万円。

 最初の家賃や細かな予備費も含め、初期費用の上限を二十万円と置いた。

 頼りになる現金は、七月に入ったボーナス約四十万円だった。

 二十万円使えば、残りは二十万円。

 今の博之にとって、決して軽い金額ではない。

「全部突っ込んだらあかん」

 初期投資二十万円のセルを、赤い枠で囲んだ。

 高級な設備はいらない。

 立派な皿もいらない。

 カレーも、十五食ではなく十食から始めればいい。

 予約を取って、来る人数が分かってから仕込む方法もある。

 まずは売れ残りを出さないこと。

 そして、料理だけで利益を出そうとしないこと。

 管理人の言葉が蘇る。

「ファン向けにやるんやったら、売るのはカレーだけやない。兄ちゃんとしゃべる時間も込みや」

 客は、本当にカレーだけを食べに来るのだろうか。

 七百円のカレーだけが目的なら、もっと便利で、もっと本格的な店がいくらでもある。

 この古い雑居ビルの三階まで上がってくる人がいるとすれば、YouTubeで見ていた

 メンヘラおじさんに会うためかもしれない。

 小説を読んでいた人が、作者と話してみたいと思うからかもしれない。

 そこに値段を付けることを、申し訳ないと思ってはいけない。

「俺が自信ないから、全部安くしてまうんやな」

 博之は椅子の背にもたれた。

 四百五十万回読まれても。

 動画を何百万回見られても。

 まだ、自分には金を払ってもらうほどの価値がないと思っている。

 会社で評価されない自分の方が本物で、インターネット上で認められている自分は、

 何かの間違いだと思っている。

 けれども、価値を決めるのは会社の人事評価だけではない。

 六席の店に、実際に誰かが来てくれるかもしれない。

 七百円のカレーを食べ、三千円を払って、一時間話してくれるかもしれない。

 それが一人でもいれば、自分の時間が完全に無価値ではないことを、少しは信じられるかもしれない。

 博之はExcelの一番下に、新しい行を作った。

 月間目標利益。

 そこへ、五万円と入力した。

 ただし、今の計算では届かない。

 三万九千円から、あと一万一千円。

 しかも、本当は自分の人件費も確保しなければならない。

「まだ全然足らんな」

 それでも、先ほどまでよりは問題がはっきりした。

 家賃が高すぎるわけではない。

 カレーが作れないわけでもない。

 足りないのは、客単価と、自分の時間に対する値段だった。

 数字は冷たい。

 博之の休職回数も、自信のなさも考慮してくれない。

 だが、冷たいからこそ、ごまかしも慰めもなく、次に考えるべきことを示してくれる。

「予約制にした方がええな」

 博之は、Excelの余白にメモを残した。

 仕込みは十五食ではなく、予約数プラス数食。

 昼の価格は七百円。

 夜は三千円。

 長く話す客からは、別に料金をもらう仕組みが必要。

 六席の空きスナック。

 四十万円のボーナス。

 二十万円の初期費用。

 月三万九千円の仮利益。

 まだ商売と呼べる数字ではない。

 だが、妄想だった店が、少しずつ現実の数字に置き換わり始めていた。

 立ち直りとは、自信を取り戻してから始めるものではない。

 自信がないままExcelを開き、自分を安売りしないための数字を、一つずつ入れていくこと

 なのかもしれなかった。

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