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第2話 2026年7月3週目。兄ちゃん、その見積もりでは何も残らへんで。安いで人がくるんちゃう。あんたとの時間も込みでくるんや。

 博之は、細い階段の下から三階を見上げていた。

 築年数など聞かなくても古いと分かる雑居ビルだった。

 壁には、スナックらしい店名の入った色あせたプレートが並んでいる。

 その一番上、三階の突き当たりだけ、看板を外した四角い跡が残っていた。

「見るだけやからな」

 誰に言うでもなく、博之はつぶやいた。

 一段目に足をかけたところで、背後から声が飛んできた。

「兄ちゃん、何か用か?」

 振り返ると、七十歳前後の男が立っていた。

 くたびれたポロシャツに、履き古したサンダル。腰からは、

 いくつもの鍵をまとめた束がぶら下がっている。

 どう見ても、このビルの関係者だった。

「いや、その」

 無断で入り込もうとしたように見えたのではないかと思い、博之は慌てて階段から足を下ろした。

「上の空いてる店、見に来たんです」

「店に興味あるんか?」

「あるというか、まだ見るだけなんですけど」

 博之は、先ほど出てきた理髪店の方を指さした。

「十年以上通ってる散髪屋さんから、ここの三階が空いてるって聞きまして。週一回とか、

 土日だけでも使わせてもらえへんかなと思って。何か話、通ってないですか?」

「ああ、あんたか」

 男は博之の顔を見直した。

「さっき散髪屋から電話あったわ。何か、ユーチューブやってる兄ちゃんが見に来るかもしれんって」

「話、早いですね」

「暇なんやろ、あいつも」

 男はそう言って笑うと、腰の鍵束を鳴らした。

「わし、ここの管理人や。中、見てええで」

「いいんですか?」

「見るだけなら減るもんやない。上がろか」

 管理人は、博之より先に階段を上り始めた。

 階段は狭く、二人がすれ違うのも難しそうだった。壁紙はところどころ剥がれ、手すりには、

 長年の煙草の煙が染みついたような色が残っている。

 二階を過ぎるあたりで、昼間だというのに、どこかの店から演歌が小さく聞こえた。

「夜は結構、人おるんですか?」

「昔ほどやない。昔は階段まで客が待っとったけどな。今はどこも常連で持たせてる感じや」

 三階の突き当たりまで来ると、管理人は一本の鍵を選び、看板のない扉に差し込んだ。

「ここや」

 鍵が固いらしく、二度ほど回し直してから、扉が開いた。

 湿った空気と、古い煙草と洗剤の混じったような匂いが流れてきた。

「なるほど、なるほどなるほど」

 中へ入った博之は、思わず同じ言葉を重ねた。

 狭い。

 だが、思っていたよりも店の形は残っていた。

 五、六人でいっぱいになるL字型のカウンター。

 赤い布張りの丸椅子が六脚。

 奥には流し台と、小さな収納棚。

 壁紙は茶色く変色し、天井の隅には雨漏りなのか、古い染みが広がっている。

 カウンターには細かな傷が入り、靴底には少し床が張りつく感触があった。

 きれいとは言えない。

 少し、どころではなく小汚い。

「兄ちゃん、汚いと思ったやろ」

 博之の顔を見て、管理人が笑った。

「まあ、年季は入ってますね」

「気ぃ使わんでええ。築五十年や。きれいなわけないやろ」

 管理人はカウンターを手のひらで二度たたいた。

「その代わり、安い。普通に借りるなら月六万や」

「六万円ですか」

「共益費は別や。敷金、礼金もある。最初に借りるなら、何やかんや金はかかるで」

 博之は店内を見回した。

 月六万円。

 自宅の家賃より高い。

 しかし、飲食店の家賃として考えれば、手が届かない数字ではなかった。

「問題は三階やな」

 管理人が扉の外をあごで示した。

「表から店の中が見えへん。通りすがりの客は、まず上がってこん。下に看板出しても、

 知らん店の三階まで来る人は少ないで」

「そこですよね」

「常連持ってる人か、自分で客を連れてこられる人やないと、しんどい」

 博之は少し考えてから、口を開いた。

「僕、一応、YouTubeをやってまして」

「さっき聞いた。ユーチューバーなんやろ?」

「ユーチューバーというほどではないです。登録者が四千八百人ぐらいで、Xが二千人、

 TikTokが八百人です。あと、小説が全部合わせて五百万回ぐらい読まれてます」

「五百万?」

「再生というか、閲覧ですけどね」

 管理人の眉が少し上がった。

「そんなに見られてんのに、あんたこんなとこで何してんの?」

「僕も知りたいですわ」

 管理人が声を上げて笑った。

「ほんなら、週一、二回ぐらいなら誰か来るんちゃうか」

「ファン向けに使えたらなと思ってるんです。五、六人来たら、この店なら満席でしょう」

「小さい店は、少ない客でも形になるからな。通りすがりは期待できんけど、来る人が

 最初から決まってるなら、三階でも関係ない」

 その言葉に、博之の頭の中で、再び店の姿が作られ始めた。

 カウンターに五人。

 自分はその向こう側。

 鍋にはカレー。

 YouTubeでしか話したことのない視聴者と、同じ空間でだらだら話す。

「月六万円で丸ごと借りるんやなくて、土日だけ使わせてもらうのは無理ですか?」

「できんことはない」

「本当ですか?」

「次の借り手が決まるまでの仮貸しやな。オーナーに聞かなあかんけど、土日だけで

 月三万ぐらいやったら、話にはなると思う」

 博之の頭の中で、すぐに割り算が始まった。

「月六万円を三十日で割ったら、一日二千円ですよね。土日が月八日として、

 一万六千円ぐらいには」

「そんな貸し方するわけないやろ」

 管理人は、博之が言い終わる前に切った。

「ですよね」

「兄ちゃん、会社では賢い仕事してるんかもしれんけど、都合のええ時だけ日割りにしたらあかん」

「はい」

「土日は商売するには一番ええ日や。それを押さえるんやから、三万ぐらいはもらわんと合わへん。

 それでも普通に借りる半分や」

 言われてみれば、その通りだった。

「その代わり、次の借り手が決まったら出てや」

「月の途中でもですか?」

「そこは相談するけど、正式に月六万で借りる人が出てきたら、そっちが優先や。

 兄ちゃんのために空けたままにはできん」

「なるほど」

 長く続けられる保証はない。

 だが逆に言えば、いきなり長期契約を結ばずに試せる。

 博之にとっては、悪い条件ではなかった。

「設備は、どこまで残ってるんです?」

「見ての通りや」

 管理人はカウンターの内側に回った。

「流しはある。水も出る。ただし、カラオケは外してある。製氷機もない。冷蔵庫はそこにあるけど、

 電源入れてないから動くか分からん」

 カウンターの端に、古い小型冷蔵庫が置かれていた。

 扉の白い塗装は黄ばみ、取っ手の周りには黒ずみがある。

「これは使うの怖いですね」

「わしも怖い」

「製氷機って、結構高いでしょう」

「新品なら何十万もする。けど、最初からそんなもん要らんやろ。小さい冷蔵庫だけ入れて、

 氷はコンビニか酒屋で買うたらええ。客が何十人も来る店ちゃうねんから」

「確かに」

 博之はカウンターの内側に立ってみた。

 目の前に六脚の椅子が並んでいる。

 狭いが、その狭さが妙に落ち着いた。

「それで、兄ちゃんは何をするつもりなんや?」

「土日の昼に、飯を出そうかなと思ってます」

「何の飯?」

「カレーです」

「カレー屋か」

「ホットクックで作って、野菜も蒸して、一食五百円ぐらいで。とりあえず昼に二十食用意して」

「二十食?」

 管理人は店内を見回した。

「椅子、六つやで」

「入れ替わりで来てもらって」

「最初から二十人来る計算なんか?」

「YouTubeとかで告知したら、何人かは来てくれるかなと」

「ほう」

「夜は土曜日だけ、ファン向けの飲み屋みたいにして。カレーは十食ぐらい用意します」

「夜はいくら取る?」

「一時間二千五百円です。瓶ビールとか、焼酎を二杯ぐらい付けて。

 次の一時間は二千円。僕と話しながら飲んでもらう感じです」

 博之としては、そこまで悪い案ではないつもりだった。

 昼のカレーが二十食売れれば、一万円。

 土日で二万円。

 夜に五人来れば、一万二千五百円。

 延長する客がいれば、もう少し増える。

 何より、ネットの視聴者や小説の読者と会える。店の様子を動画にすれば、YouTubeの企画にもなる。

 六席のファンミーティング兼カレー屋。

 大きく儲からなくても、赤字さえ出なければ面白い。

 そう考えていた。

 管理人はしばらく黙ったまま、博之の顔を見ていた。

「兄ちゃん」

「はい」

「その見積もり、だいぶ甘いんちゃうか」

「そうですか?」

「それやったら、何も残らへんで」

 博之の頭の中で立ち上っていたカレーの湯気が、少しだけ薄くなった。

「五百円のカレーを二十食売って、一万円やろ」

「はい」

「米、肉、野菜、ルーでいくらや。二十食全部売れる保証もない。余ったら誰が食うんや」

「僕ですかね」

「毎週カレーばっかり食うことになるぞ」

 博之は少し笑ったが、管理人の顔は真面目だった。

「水道、電気、消耗品。皿を洗う洗剤もいる。布巾も、ゴミ袋も、掃除道具もいる。

 夜は酒と氷とおしぼりや。グラスが割れたら買い足す。冷蔵庫も入れなあかん」

 管理人は、太い指を一本ずつ折っていった。

「保健所に見てもらって、ここ直せ言われたら、その金もいる。家賃三万だけ払ったら

 店が開くと思ったらあかんで」

「まあ、そこは初期費用で二十万円ぐらい見ようかなとは」

「二十万使って、毎週土日つぶして、兄ちゃんにはいくら残るんや?」

「そこは、まだちゃんと計算してないです」

「それが一番大事やろ」

 管理人は、カウンターを挟んで博之の正面に立った。

「朝から買い出しして、仕込みして、店を開けて、客としゃべって、終わったら皿洗って掃除する。

 十時間働いて、最後に二千円残りましたでは商売ちゃう。金のかかる趣味や」

「自分でやるんで、人件費は要らんかなと思ってました」

「自分でやるから人件費が要らん、いうのが一番危ないねん」

 その一言だけは、少し強かった。

「兄ちゃんの時間も、ただやないやろ」

 博之は返事をせず、薄汚れたカウンターに目を落とした。

 会社では、自分の時間に価値があると思えなくなっていた。

 YouTubeは何年も続けてきた。

 小説も五百万回以上読まれた。

 それでも生活は大きく変わらない。

 だからカレーも五百円にしようとした。

 高いと言われるのが怖かった。

 自分に会うために金を払ってもらうことが、どこか申し訳なかった。

「兄ちゃん、安かったら客が来ると思ってるやろ」

「最初は来てもらわんと始まらないですから」

「安いから来る客は、値上げしたら来んようになるで」

 管理人は鍵束を持ち直した。

「それに、あんたの場合、客はカレーだけを食いに来るんか?」

「どうでしょうね」

「カレーだけなら、もっと便利でうまい店がなんぼでもある」

 それは、否定できなかった。

「ファン向けにやるんやったら、兄ちゃんに会いに来るんやろ。ほんなら売るのは

 カレーだけやない。場所と、兄ちゃんとしゃべる時間も込みや」

 博之は六脚の椅子を見た。

 自分と話す時間。

 そんなものに値段を付けていいのだろうか。

 それが分からないから、動画も文章も、ずっと安いままだったのかもしれない。

「まあ、借りるかどうかは別としてな」

 管理人は扉を開けた。

「一回、家帰って計算してみ。何人来て、いくら売って、材料費引いて、最後に何が残るんか」

「売上より、残る金ですか」

「当たり前や。売上なんか、右から左に流れて終わることもある。最後に残った金が答えや」

 博之は、もう一度だけ店内を見回した。

 築五十年。

 三階。

 六席。

 土日だけなら、月三万円。

 小汚い。

 設備もほとんどない。

 それでも、自分には手が届かないほど遠い場所ではなかった。

「少し考えます」

「考えるのは、ただやからな」

「それは安いですね」

「そこだけは、兄ちゃんの見積もりでも合ってるわ」

 管理人が笑った。

 博之も、つられて少し笑った。

 階段を下りながら、頭の中ではすでにExcelの表が開き始めていた。

 家賃。

 材料費。

 水道光熱費。

 冷蔵庫。

 酒。

 そして、自分の人件費。

 数十分前まで、博之の頭にあったのは、六席の店に立ち上るカレーの湯気だけだった。

 今は、その湯気の向こう側に、細かな数字が浮かんでいる。

 立ち直りの物語は、夢を思いついた瞬間に始まるのではない。

 自分に都合のいい計算を、現実に一つずつ壊されたところから始まるのかもしれなかった。

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