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2026年7月3週目。空きスナックから始めませんか。メンヘラオジサンのある日の散髪屋にて。

 二〇二六年七月。

 大阪府茨木市春日。

 メンヘラおじさんこと博之は、今日も窓際であった。

 正確に言えば、会社から「あなたは窓際社員です」と宣告されたわけではない。

 机はある。パソコンも支給されている。社員証をかざせば、会社の立派なビルにも入れる。

 ただし、会社へ行くのは週に二日ほど。

 出社しても、周囲とほとんど言葉を交わさない。与えられた仕事を静かにこなし、

 誰にも迷惑をかけないように一日をやり過ごして帰ってくる。

 四十一歳。

 これまでに休職した回数は、両手の指では足りなかった。

 それを窓際と呼ばずして、何と呼べばいいのか。

 会社員としての自分には、もう先が見えている。

 少なくとも、博之自身はそう思っていた。

 一方で、会社の外では少し違う顔を持っていた。

「メンヘラオジサン」という名前で、顔を出してYouTubeを続けている。

チャンネル登録者は約四千八百人。

 X、昔のTwitterのフォロワーは約二千人。

 TikTokは約八百人。

 さらに、小説投稿サイト「小説家になろう」では、いくつかの作品を合わせて

 五百万回ほど読まれていた。

 数字だけを並べれば、何者かのようにも見える。

 五百万回も読まれた人間。

 何百人、何千人もの人が、わざわざ話を聞きに来る人間。

 けれども、パソコンの画面を閉じれば、現実の博之は家賃の安い部屋で一人暮らしをし、

 会社から切られないよう息を潜めている中年男でしかなかった。

 発信で得た数字は増えても、自信や収入には、うまく変わらない。

「さすがに、伸びすぎたな」

 洗面所の鏡を見ながら、博之は髪をかき上げた。

 横髪は耳にかかり、こめかみには白いものが増えている。少し後退した生え際も、

 髪が伸びるとかえって目立った。

 会社へ行くだけなら、別にどうでもいい。

 だが、YouTubeでは顔を出している。

 このままライブ配信をすれば、ただでさえ疲れて見える顔が、さらにみすぼらしく映りそうだった。

「四千円か……」

 散髪代を思うと少し迷ったが、博之は昼過ぎに家を出た。

 向かったのは、春日の住宅街にある小さな理髪店だった。

 もう十年以上通っている。

 赤、青、白のサインポールが店先で回っている。扉を開けると、シャンプーと整髪料、

 それに少し古い店特有の匂いが混ざっていた。

「お久しぶりですね」

 店主が笑った。

「そんなに空いてました?」

「だいぶ伸びてますよ」

「会社も週二回ぐらいしか行ってないんで。散髪する必要も、あんまりないんですよ」

「また、そんなこと言うて」

 いつもの椅子に座り、首に白い布を巻かれる。

 店主が霧吹きをかけ、ハサミを動かし始めた。

 博之は鏡の中の自分を見る。

 丸くなった顔。

 疲れの残る目。

 少し後退した生え際。

 どう見ても、人生を順調に歩いている男の顔ではなかった。

 かといって、完全な失敗者とも言い切れない。

 その中途半端さが、いちばん居心地を悪くしていた。

「YouTube、まだやってるんですか?」

「やってますよ。登録者は四千八百人ぐらいですけど」

「十分すごいじゃないですか」

「いやいや。四千八百人では食えませんからね」

「小説も書いてるんでしたっけ?」

「書いてます。全部合わせたら、五百万回ぐらい読まれてます」

「四百五十万?」

 店主のハサミが一瞬止まった。

「そんなに読まれてるんですか?」

「何作品も合わせてですけどね。閲覧数だけは妙にあるんですよ」

「それ、だいぶすごいんちゃいます?」

「でも、生活は何も変わってないでしょう」

 博之は鏡越しに笑った。

「数字を金に変えるのが下手なんですわ」

「へえ。もったいないですねえ」

 もったいない。

 ここ数年、何度も言われてきた言葉だった。

 資格がもったいない。

 経験がもったいない。

 発信力がもったいない。

 文章を書けるのにもったいない。

 もったいないものばかりを抱えたまま、博之の生活は何ひとつ変わっていなかった。

「ファンの人と、実際に会ったりはしないんですか?」

 店主が髪を切りながら尋ねた。

「一時積極的にあったりオフ会していましたけど、今は会わないですね。ファンミーティングとか

 言うても、会場を借りるのも面倒ですし」

「来る人、おるんちゃいます?」

「何十人も来るようなもんじゃないですよ。五人来たら成功ちゃいますか」

「五人ぐらいやったら、ちょうどええ場所ありますよ」

 店主が、鏡越しに外の方へ目を向けた。

「この先の横丁、知ってます?」

「スナックが並んでるところですか?」

「そうそう。あそこの古いビルの三階に、空いてる店があるんですよ」

「空き店舗?」

「前はスナックやったところです。カウンターがあって、椅子が五つか六つぐらい。

 オーナーさん、使ってくれる人を探してるらしくて」

 博之は少しだけ身体を起こした。

 店主がすぐに肩を押さえる。

「危ないですよ。まだ切ってますから」

「家賃、高いんちゃいます?」

「ずっと空いてるみたいですし、そんなに高くはないと思いますよ。毎日借りるんやなくて、

 ファンミーティングで週一回とか、土日だけ使えへんか聞いてみたらどうです?」

「土日だけ……」

 鏡の中で、博之の目がわずかに動いた。

 六席。

 大きすぎない。

 何十人も集める必要はない。

 五人来れば、ほとんど満席になる。

 飲食店を始めるつもりなど、今日の朝までは一切なかった。

 会社を辞めるつもりもない。

 そもそも、今の博之には大きな金を動かす余裕がなかった。

 自己破産の手続き中である。

 新しい借金など、できるはずもない。してはいけない。

 しかし、週に一度。

 六席だけ。

 その程度なら。

 頭の中で、まだ見てもいない店の形が勝手に作られていく。

 カウンターの向こうに自分が立つ。

 YouTubeを見ている人や、小説を読んでいる人が椅子に座る。

 酒をたくさんそろえる必要はない。

 市販のルーを使ったカレーでもいい。

 大きな鍋で作って、五人に食べてもらう。

 一人千円なら五千円。

 材料費を引けば、ほとんど残らない。

 商売としては、たぶん甘い。

 それでも、自分が書いてきた物語や、何年も話してきた言葉が、現実の客を一人だけ

 連れてくるかもしれない。

 ネットの向こうにいた人間が、自分の目の前に座るかもしれない。

「カレーぐらいやったら、出せますかね」

 博之がつぶやいた。

「店として使ってた場所なら、設備は残ってるかもしれませんね。もちろん保健所とか、

 その辺は確認せなあかんでしょうけど」

「六席か……」

 六席の店を、一日だけ借りる。

 一日だけカレーを作る。

 それで客が来れば、次は月に一度。

 月に一度が続けば、週に一度。

 カレーがうまくいけば、唐揚げを足してもいい。

 昼は飯屋。

 夜は、少人数でだらだら話せる飲み屋。

 博之の頭の中では、話が恐ろしい速さで先へ進んでいた。

 妄想だけは、いつも早い。

「はい、終わりましたよ」

 店主が首筋の細かな毛を払い、椅子を鏡の正面へ戻した。

「どうですか?」

 鏡の中には、来た時より少しだけましになった中年男がいた。

「ええ感じです」

 博之は財布から千円札を四枚出した。

「その空いてる店、帰りに見てみたらどうです?」

「見るだけ、見てみますわ」

 見るだけ。

 博之は、これまでにも何度もその言葉を使ってきた。

 不動産屋を回った時も。

 投資の資料を取り寄せた時も。

 何かを始めようとして、結局始めなかった時も。

 いつも最初は、見るだけだった。

 理髪店を出ると、七月の湿った空気が、切ったばかりの首筋にまとわりついた。

 教えられた道を歩き、表通りから細い横丁へ入る。

 古い居酒屋やスナックの看板が、昼間の静かな路地に並んでいた。

 その奥に、築年数など聞かなくても古いと分かる、小さな雑居ビルがあった。

 狭い階段。

 壁に並ぶ、色あせた店名プレート。

 三階の一番端だけ、店の名前が外され、四角い跡が残っている。

「ここか」

 博之は階段の下から、三階を見上げた。

 店の中は、まだ見えない。

 扉が開くかどうかさえ分からない。

 それなのに頭の中では、六席のカウンターに人が座り、鍋からカレーの湯気が立ち上っていた。

 散髪に来ただけだった。

 四千円を払って、髪を切るだけの日だった。

 この時点ではまだ、本当に見るだけのつもりだった。

 ただ、後になって振り返れば、メンヘラオジサンの立ち直りは、

 立派な事業計画書から始まったのではない。

 十年来の散髪屋で聞いた、空きスナックの話から始まったのである。

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