2026年7月4週目。第10話 九階建てのスナックビル
一杯目の柑橘系のカクテルを飲み終える頃には、博之の肩から少し力が抜けていた。
「バーに来るの、めちゃくちゃ久しぶりなんですよ」
空になったグラスを眺めながら言った。
「正直、酒のことも全然分からんくて」
「普段は何を飲まれるんですか?」
「焼酎とか日本酒ですね。ウイスキーは、あの煙たい感じがちょっと苦手で」
「スモーキーなものですね」
「そう、それです。あれがあんまり得意やない」
「それなら、ラムはどうですか?」
「ラム?」
店主は背後の棚から、丸みのある瓶を一本取り出した。
「この銘柄なら、ロックでも飲みやすいですよ。甘い香りがありますし、ウイスキーほど
煙たくないです」
「ほんなら、それでお願いします」
大きめの氷がグラスに入れられ、その上から琥珀色の酒が注がれた。
店主がグラスを差し出す。
「まず、香りを見てみてください」
博之は言われた通り、鼻を近づけた。
ほのかに甘い。
黒糖か、バニラのような香りがする。
一口含むと、カクテルよりも酒の輪郭は強かったが、嫌な煙たさはなかった。
「なるほどな」
「どうですか?」
「これは飲みやすいですね」
「ラムにも色々あります。甘いものもあれば、かなり癖の強いものもありますよ」
「酒も奥深いな」
「店も同じでしょうね」
店主が静かに言った。
「やってみないと、自分に何が合うか分からない」
話は再び、六席の空きスナックへ戻った。
「儲かるかどうかで言ったら、正直、全然分からへんのですよ」
博之はグラスの氷を揺らした。
「でも、やること自体が経験になるんかなとは思ってます」
「私は、なると思いますよ」
店主はカウンターを布で拭きながら答えた。
「うまくいけば、もちろん面白い。うまくいかなくても、なぜ駄目だったかは分かります」
「二十万円で、それを買うと」
「安いとは言いませんけどね」
「今の俺には大金ですわ」
「それでも、失敗の上限を決められているなら、挑戦としては悪くないと思います」
店主は少し考えてから続けた。
「それに、年齢が上がってくると、やらなかったことの方が残りませんか?」
「やらなかったこと?」
「若い時なら、また次があります。でも年齢を重ねると、あの時やっておけばよかったと
思うことが増えてくる」
博之は返事をせず、ラムをもう一口飲んだ。
「棺桶に入る時に、あれやっとけばよかったって思うのは、虚しいですよね」
「そうですね」
「失敗したことは、失敗したなって笑えるかもしれへんけど」
「やらなかったことは、結果が分からないままですから」
「それが一番残るんかもしれんな」
信用取引で失敗したこと。
自己破産したこと。
それらは、決して笑い話だけでは済まない。
だが、結果は出ている。
失敗した。
それ以上でも、それ以下でもない。
一方、不動産投資は違った。
築古戸建てを一軒買っていれば、どうなっていたのか。
家賃収入を得ていたのか。
修繕費で苦しんでいたのか。
今となっては、永遠に分からない。
「やらんかった後悔より、やった後悔か」
「そこまでは言いませんよ」
店主が笑った。
「何でもやればいいわけではないです。ただ、取り返しのつく範囲なら、
やってみるのもありじゃないですか」
「取り返しのつく範囲、か」
二十万円。
土日だけ。
六席。
追加の借金はしない。
赤字が続けば撤退する。
確かに、取り返しのつかない賭けではなかった。
酒が深くなるにつれ、話も少しずつ柔らかくなった。
気がつけば、博之はもう一杯頼んでいた。
何を飲んだのか、後から正確には思い出せなかった。
友人も別の酒を頼み、二人で店主のホテル時代の話を聞いた。
やがて、カウンターの入口側に、五十代ぐらいの男性客が二人入ってきた。
一人はウイスキーらしい酒を頼み、もう一人は普通にビールを注文していた。
「バーでビール飲むんやな」
博之は友人に小声で言った。
「別にええやろ」
「せっかくやったら、何かしゃれたもん飲んだらええのに」
「お前も二杯目まで酒分からん言うてたやん」
「それとこれは別や」
二人でこそこそ笑った。
そろそろ出ようかという話になり、会計を頼んだ。
伝票を見た博之は、一瞬だけ目を止めた。
二人合わせて、一万円を少し超えていた。
「なるほどな」
表情には出さずに支払い、店を出た。
外へ出てから、友人が小声で言った。
「茨木にしては、まあまあしたな」
「思った」
「一杯一杯がちゃんとしてたからな」
「でも、大丈夫なんかな。この値段で」
「茨木って、住宅街やけど、高所得の人も結構おるやろ」
「まあ、そうか」
「さっき入ってきたおっちゃんらも、普通に飲んでたやん」
「一人、ビールやったけどな」
「まだ言うんか」
値段が高いと感じた自分たちとは違い、あの店を普段使いする客もいるのだろう。
店の値段は、原価だけでは決まらない。
その値段を払う客がいるかどうかで決まる。
そんな話をしながら歩いていると、普段なら近づかない建物の前に出た。
九階建ての古い雑居ビルだった。
入口には、店名の入った看板が縦に並んでいる。
スナック。
ラウンジ。
ガールズバー。
意味の分からない横文字の店。
「ここ、こんな店ばっかり入ってたんやな」
「JR茨木の夜の店、ほとんどここに集まってるんちゃう?」
入口の奥は暗かった。
明るい商店街の中にありながら、そこだけ別の世界につながっているように見える。
「めちゃくちゃ入りにくいな」
「入ったらあかんオーラ出てるな」
「でも、今ぐらい酔ってたら行けるんちゃう?」
「いやいや、怖すぎるやろ」
二人は入口の看板を見上げた。
「とりあえず、名前で決めようぜ」
「何を?」
「店の名前見て、よさそうなところだけ様子見る」
「情報、それだけ?」
「他にないやろ」
エレベーターに乗り、まずは上から見ることにした。
九階へ行ったが、どの店も扉が重く、中の様子はまったく分からない。
八階。
六階。
店名を見ては、これは怖い、これは料金が高そうだと、勝手な評価を続ける。
「完全に不審者やで、俺ら」
「勉強や、勉強」
「何の勉強やねん」
結局、二階まで下りた。
その中に、まだ入りやすそうな名前の店があった。
「ここ、ちょっと開けてみる?」
「開けたら入らなあかんやろ」
「見るだけや」
「お前の見るだけ、信用できへんわ」
博之は、酒の勢いに任せて扉を少し開いた。
すぐに、中から声が飛んできた。
「あら、いらっしゃい」
現れたのは、五十代後半ぐらいの女性だった。
笑顔ではある。
だが、二人が頭の中で想像していた若い女の子のいる店では、どうやらなかった。
博之は一瞬、友人の顔を見た。
友人も、わずかに顔を引きつらせている。
「二人?」
「あ、はい」
「どうぞ、入って入って」
扉を開けた以上、今さら閉めるわけにもいかない。
「ちょっと失敗したかもしれんな」
博之は友人に小声で言った。
「お前が開けたんやろ」
「まあ、これも勉強や」
「何でも勉強で済ませるなよ」
二人は苦笑しながら、店の中へ入った。
高級なバーで空間の値段を学んだ夜。
次に博之が足を踏み入れたのは、九階建てのスナックビルにある、正体のよく分からない店だった。




