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2026年7月4週目。第11話 この店は、なぜ潰れないのか。虫のでるスナックでの経験をかみしめるwww

 扉を開けた以上、今さら帰るわけにもいかなかった。

 博之と友人は、五十代後半ぐらいの女性に促されるまま、カウンター席へ座った。

「初めてやね?」

「はい。上から順番に見てきて、ここなら入れそうかなと思って」

「何それ。店を品定めしてたん?」

 女性は笑いながら、二人の前におしぼりを置いた。

「うちは三千五百円やで」

「一人ですか?」

「そら一人や。ちょっとしたつき出しと、お酒一杯。うちはそれ以外のチャージ取らへんから、

 良心的やで」

 三千五百円。

 先ほどのバーよりは安い。

 しかし、一杯だけと考えれば、決して安いとも言えない。

「ほかの店やったら、氷にも金取るし、割り物にも金取るからな。知らんと入ったら、

 結構取られる店もあるで」

「そうなんですか」

「このビルも、店によるわ。うちは分かりやすいやろ?」

 そう言いながら、女性は小鉢と酒を用意し始めた。

 カウンターの奥には、使い込まれたグラスや酒瓶が並んでいる。

 先ほどのバーとは、まるで違った。

 あちらは、酒瓶の向きまでそろっていた。

 グラスは光を反射し、氷の音さえ演出の一部に見えた。

 こちらは、生活の延長というか、長い間使われてきた台所のような空気がある。

 博之がその違いを眺めていると、カウンターの上を小さな黒いものが走った。

「あ」

「何?」

「虫おるで」

 ゴキブリにも見えたが、少し形が違う。

 何の虫かは分からない。

 友人が無言で椅子を少し後ろへ引いた。

「夏やからな」

 女性は驚く様子もなく言った。

「いやいや、結構普通に歩いてましたよ」

「古いビルやから、しゃあないねん」

「しゃあないで済ませるんですか」

「ここ、何階やと思ってんの。どっかから入ってくるねん」

 女性はそう言いながら、虫を紙で追い払った。

 その直後には、何事もなかったように別の小鉢を作り始めている。

 博之は友人と顔を見合わせた。

 友人の顔には、すでに帰りたいと書いてあった。

「お兄ちゃんら、何の仕事してんの?」

 女性が尋ねてきた。

 博之が会社員をしながら、YouTubeや小説をやっていると話すと、女性の反応が急に良くなった。

「私も昔、営業やっててん」

「何の営業ですか?」

「補整下着。女の人の体型を整えるやつな。あれ売るの、結構大変やで」

「対面営業ですか?」

「そうそう。家に行ったり、紹介もろたり。あと金融関係の営業も、ちょっとやってた」

「金融もですか。僕もなんで、近いですね」

「ほんなら、営業のしんどさ分かるやろ」

 そこから、二人の話は急に盛り上がった。

 数字を追うしんどさ。

 客に断られる話。

 紹介を頼んでも、なかなか次につながらないこと。

 人間関係で契約が決まること。

 会社の看板がなくなった途端、誰も話を聞いてくれなくなること。

 女性は、誰かの悪口も交えながら、次々に昔話をした。

「あの上司がほんまにあかんかってん」

「それはしんどいですね」

「あと、客でもな、金持ってるくせに細かいやつおるやろ」

「おるんでしょうね」

「一番嫌いなんが、偉そうにする男や」

 博之は、相手に合わせること自体は得意だった。

 話題が営業なら営業。

 金融なら金融。

 仕事の愚痴なら仕事の愚痴。

 目の前の相手が話したい方向へ、自然に会話を寄せることができる。

 だが、隣に座る友人は完全に置き去りになっていた。

 時折、酒を飲むだけで、ほとんど話に入ってこない。

 博之が何度か話を振っても、

「まあ、そうやな」

 と短く答えるだけだった。

 女性の話は、次第に悪口の比率が増えていった。

 昔の上司。

 同僚。

 客。

 姉。

 このビルの別の店。

 誰の話をしても、最後には何かしらの文句がついてくる。

 博之は話を合わせられたが、友人にはかなりきつかったらしい。

 時計を確認すると、入店してから一時間ほどたっていた。

 友人が博之の腕を軽くたたいた。

「もう出よ」

「もう?」

「もう無理」

 かなり小さな声だったが、はっきりしていた。

 博之は会計を頼んだ。

「また来てな」

 女性は笑顔で送り出してくれた。

「お姉ちゃんが前から店やっててな。その関係で、お姉ちゃんの昔のお客さんも時々来るねん」

「そうなんですね」

「長い付き合いの人がおるから、何とかやってるわ」

 最後のその言葉だけが、博之の耳に残った。

 店を出て、エレベーターへ乗った瞬間、友人が口を開いた。

「何やねん、あの店」

「そんな怒る?」

「怒るわ。三千五百円払って、虫出て、悪口ずっと聞かされて、一杯だけやで」

「まあ、虫はあかんな」

「普段行ってるコンカフェの女の子ら、めちゃくちゃちゃんとしてるやん」

「それは思った」

「梅田で千五百円とか千六百円で、飲み放題で、若い子が気ぃ使って喋ってくれるんやろ?」

「店によるけど、まあそうやな」

「もう二度と行かへん」

 友人は完全に腹を立てていた。

 博之も、また行きたいとは思わなかった。

 色気で売っている店ではない。

 酒に特別なこだわりがあるようにも見えない。

 店内が清潔とも言いがたい。

 接客も、客の好みを探るというより、店主自身が話したいことを話している印象だった。

 それで一人三千五百円。

 茨木で、この内容なら高い。

 それが率直な感想だった。

「でも、何で続いてんねやろな」

 ビルを出たところで、博之はつぶやいた。

「知らん。姉ちゃんの客が来る言うてたやん」

「それだけかな」

 客は、博之たち以外には一人も来なかった。

 それでも女性は、長く店を続けているらしい。

 家賃が安いのか。

 姉の代からの常連がいるのか。

 酒やつき出しに、それほど原価をかけていないのか。

 一晩に二人、三人来れば成り立つ店なのかもしれない。

 あるいは、博之たちには合わなかっただけで、あの女性の悪口を聞きながら

 飲むのが好きな客もいるのかもしれない。

 誰にでも好かれる必要はない。

 十人に嫌われても、一人の常連が毎週来れば、小さな店は残る。

「俺らにとってはハズレでも、誰かにとっては落ち着く店なんかもしれんな」

「俺には絶対合わへん」

「それは分かった」

 博之は笑った。

 先ほどのバーは、内装、技術、所作、空間に値段を付けていた。

 今のスナックは、おそらく長い人間関係に値段を付けている。

 洗練されていなくてもいい。

 若くなくてもいい。

 万人に好かれなくてもいい。

 昔から知っているママと、いつもの悪口を言いながら一杯飲む。

 それを求めて来る客がいるなら、商売は成立する。

 ただし。

「衛生状態だけは、絶対ちゃんとしよ」

 博之は心の中で決めた。

 客が少なくても。

 古い店でも。

 安い設備しかなくても。

 カウンターの上を虫が歩く店にはしない。

 そして、自分ばかりが話すのではなく、来た客が何を求めているのかを見る。

 友人のように、置き去りになる人を作らない。

 その夜、博之が学んだのは、良い店の作り方だけではなかった。

 自分なら、どんな店にはしたくないのか。

 それもまた、店を始める前に知っておくべき、立派な経営の勉強だった。

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