2026年10月1週目土曜晩。集客はまずまず。初めて出た獺祭2割3分。空気よく満足な夜が終わる。
土曜日の昼営業が終わると、博之は客の使った皿とグラスを洗い始めた。
カレーは一食だけ残った。
夜に自分で食べてもいいし、遅い時間に腹を空かせた客が来れば出してもいい。
残りをよけて夜の分を仕込む。
洗い物を終えた頃には、急に眠気がやってきた。
「今日はもう、ここで寝よ」
博之は家から持ってきていたCPAPを取り出した。
店の奥に枕を置き、上着を丸めて足元へ置く。
六席しかない小さな店だったが、営業していない時間は、完全に博之の秘密基地だった。
CPAPのマスクを付け、機械の電源を入れる。
一定の音を聞きながら目を閉じると、すぐに眠りへ落ちた。
客が座っていたカウンターのすぐ近くで、博之は自宅とほとんど変わらない格好で眠っていた。
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夕方。
博之は、むくりと起き上がった。
「よう寝たな」
時計を見る。
夜営業の開始まで、それほど時間はなかった。
洗面所で顔を洗い、髪を整える。
冷蔵庫の中を確認し、グラスを並べ直す。
「さて、やるか」
不思議なことに、会社へ向かう朝にはまるで出てこないやる気が、店では自然と湧いてきた。
「なんで会社の仕事はあんなにやる気ないのに、こっちはやる気あんねやろな」
誰もいない店内で、博之は一人つぶやいた。
「必要とされてるからやな」
会社では、自分が休んでも仕事は回る。
代わりはいくらでもいるように感じる。
だが、この店では違った。
博之がカレーを作り、酒を仕入れ、入口を開けなければ、何も始まらない。
客は博之に会うために、この古いビルの三階まで上がってくる。
それが、うれしかった。
営業中の札を出してしばらくすると、一人目の客が来た。
「こんばんは」
「どうも。お疲れさまです」
「とりあえず、一杯ください」
「駆けつけ一杯ですね。芋焼酎のソーダ割りでええですか」
「それで」
博之は氷を入れ、焼酎と炭酸水を注いだ。
「はい、セット料金込々です」
「安いなあ」
「芋焼酎普及価格です」
少しして、二人目の客が来た。
客同士も顔を合わせたことがあり、すぐに会話が始まる。
仕事の話。
最近見たニュース。
博之の小説。
店を半年後にどうするか。
話題は次々に変わっていった。
「こういう感じで、ずっとゴロゴロやれたらええんですけどね」
博之が言うと、一人の客が冷蔵庫の方を見た。
「おじさん、あれ、獺祭?」
「そうです。二割三分」
「一番ええやつやん」
「小瓶ですけどね。十月の第四日曜日に女の子が一日店長するんで、その時用に置いてます」
「女の子入るんや」
「元キャバ嬢です。付き合い五年ぐらいある子」
イベントに向けて、カフェ・ド・パリと獺祭二割三分を、それぞれ三本ほど仕入れるつもりだった。
ララが客を呼び、博之が料理と会計を手伝う。
その形で店が回るのかを試す。
「俺がおらんでも、店として成立するか見たいんですよ」
「半年後に平日も借りるかもしれんって話?」
「そうです。今は土日だけやけど、この契約は半年ですからね」
半年後に一週間丸ごと借りるなら、平日の営業をどうするか考えなければならない。
博之が毎日立つことはできない。
誰かに任せる日を作る必要がある。
「この店、半年で終わるのも寂しいですしね」
「確かにな。せっかく馴染んできたのに」
「だから、長居してもらうなり、チップを入れてもらうなり、限定の酒を注文してもらうなりせんと、
続かへんのですよ」
隠れ家のような雰囲気は、何もしなくても維持できるわけではない。
家賃がかかる。
酒を仕入れる。
掃除も必要になる。
防犯カメラも付けなければならない。
静かな時間を守るためにも、金と人が必要だった。
すると、獺祭を見ていた客が言った。
「ほな、一本ぐらい開けよか」
「え、いいんですか?」
「皆で飲んだらええやん」
「八千円しますよ。自分で値段付けといて言うのもなんですけど」
「それで仲良う飲めたらええやん」
博之は少し迷ったあと、冷蔵庫から一本取り出した。
「ありがとうございます。記念すべき一本目です」
小さなグラスを三つ並べる。
獺祭二割三分を少しずつ注ぐと、甘い香りが広がった。
「乾杯」
「この店が半年以上続くことに」
「まだ一か月やけどな」
三人で笑いながら、グラスを合わせた。
「うまいな」
「そら二割三分ですから」
「八千円の価値ある?」
「店を続ける寄付込みです」
「正直やなあ」
そこへ、もう一人客が入ってきた。
「こんばんは」
「ちょうどええところに来ましたね。駆けつけ獺祭どうぞ」
「そんな店なん?」
「今日だけです」
グラスを一つ追加し、四人で酒を回す。
高級な日本酒を静かに味わうつもりだったが、話は相変わらずまとまりがなかった。
会社員のしんどさ。
四十代からの友人関係。
この路地裏感をどう残すか。
かわいい店員を入れたら客が増えるのか。
「女の子おったら、やっぱり楽しいんちゃいます?」
「そら楽しいと思いますよ」
「じゃあ募集したらええやん」
「一人ぐらい募集してもいいかもしれませんね」
ただし、普通のアルバイトを雇うだけでは意味がない。
この場所は、店を開けて待っていれば客が入る立地ではなかった。
「自分でも客を呼べる子がええんですよ」
「インフルエンサー?」
「そこまでじゃなくてもええです。友達が来てくれるとか、前の客が会いに来るとか」
そして、一人で店を回せなければならない。
酒を作る。
会計をする。
客同士の会話をつなぐ。
酔った客がいれば、やんわり止める。
ただカウンターの中に立っているだけでは務まらない。
「気の利く子じゃないとあかんな」
「元キャバ嬢ならおるんちゃう?」
「キャバクラで働けることと、一人で店を回せることは別ですからね」
「年齢は?」
「二十代か三十代ぐらい」
「おじさんの好みやん」
「好みも入ってます」
「素直やな」
「でも、責任感があって、人当たりがよくて、金の管理ができる子ですよ」
「嫁探しみたいになってきたな」
「条件厳しくせんといてや」
「それ、おじさんに言うてるんやで」
店内に笑いが広がった。
八時を過ぎる頃、さらに一人が顔を出した。
入れ替わりながらも、常に三人か四人が店にいる。
満席ではない。
だが、寂しくもない。
「このぐらい来てくれるのが、ほんまありがたいっすわ」
博之は空いたグラスを洗いながら言った。
獺祭は一本空いた。
焼酎も何杯か出た。
客は長い時間しゃべり、時々笑った。
未来の店員について話していたはずが、最後まで具体的な募集条件は決まらなかった。
それでもよかった。
今すぐ答えを出す必要はない。
まずは目の前の土日を続ける。
十月第四日曜日には、ララの一日店長を試す。
そこで見えるものもあるはずだった。
夜が深くなるにつれ、路地裏の音は静かになっていった。
古い雑居ビルの三階だけに、まだ笑い声が残っている。
博之はカウンターの中から、その光景を眺めた。
会社では得られない、必要とされている感覚。
それを酒と一緒にゆっくり味わいながら、十月最初の土曜日の夜は更けていった。




