2026年10月1週目。博之の給料。五万円の使い道
九月分の数字を締めて数日。
博之は、Excelの画面に残った五万円を眺めていた。
売上は十五万円ほど。
家賃、材料費、酒、光熱費、消耗品。
店を回すための費用として十万円を差し引き、残った五万円を博之の給料と考えた。
「五万円か」
本業以外から、自分の働きによって生まれた金だった。
土曜日は朝からカレーを仕込み、昼営業をする。
いったん片付けてから、夜の準備。
酒を出し、話を聞き、客が帰ったあとに皿とグラスを洗う。
日曜日も昼まで営業し、予約が入れば夜も店を開ける。
かけた時間だけを考えれば、五万円を受け取るのは当然だった。
むしろ、時給に直せば安いぐらいかもしれない。
それでも博之にとっては、ありがたい金だった。
「会社以外から五万入るのは、でかいよな」
給料として使うなら、生活費へ回せばいい。
少しうまいものを食べてもいい。
小説や動画を作るための道具を買うこともできる。
だが、博之はすぐに自分の口座へ移す気にはなれなかった。
「当面は、店の雑用費かな」
ゴミ袋。
洗剤。
キッチンペーパー。
割り材。
氷。
せんべいと柿の種。
一つ一つは数百円でも、店を開けるたびに何かが減っていく。
毎週のように買い足していれば、それなりの金額になる。
冷蔵庫やエアコンが突然壊れる可能性もある。
まずは店の中に残しておく方がよい。
そう考えながら酒屋のサイトを見ていた博之は、ある日本酒の前で手を止めた。
「獺祭の二割三分、置いとくか」
今の店には、芋焼酎と麦焼酎、ハートランドがある。
だが、日本酒はまだ置いていなかった。
保存や銘柄管理が面倒で、最初は扱わないことにしていた。
とはいえ、一本か二本だけなら管理できる。
毎日出す酒ではない。
祝い事や、誰かが少し奮発したい時に開ける酒である。
博之は、冷蔵庫へ入れやすい小瓶を二本仕入れることにした。
「一本六千円ぐらいで出したらええかな」
普通に一人で飲む酒というより、店に集まった者で分けて飲む。
誰かが、
「今日は楽しかったから」
「相談に乗ってもらったから」
「この場に一杯入れたいから」
と思った時に注文してもらう。
五百円のチップを何枚も入れるより、酒を一本開けて、皆で飲む方が分かりやすい。
「チップ代わりやな」
チップ制度は置いているものの、実際に使う客は多くなかった。
おじさんに現金だけ渡すのは、少し気恥ずかしいのかもしれない。
だが、日本酒なら形が残る。
注文した本人だけではなく、その場にいる客も一杯飲める。
店主である博之も、味見という名目で加われる。
「俺が飲みたいだけという説もあるけどな」
自分で言って、少し笑った。
ララとの話も、頭の片隅にあった。
ララは、客にシャンパンを入れてもらうような営業も考えていた。
冷蔵庫は小さい。
大きな瓶を何種類も冷やしておく余裕はない。
それでも、注文によって売上を上積みできる酒は、一つぐらいあってもよい。
「シャンパンまで入れ始めたら、ほんまに夜の店になるけどな」
獺祭二割三分なら、今の店の雰囲気にも合う。
派手なコールをする必要もない。
皆で静かにグラスへ分け、味を確かめながら飲めばいい。
博之は注文画面まで進んだところで、いったん手を止めた。
「いやいや、酒増やすことばっかり考えたらあかん」
五食完売。
雨の日にも客が来た。
月の売上十五万円。
少し数字が出た途端、設備や酒を増やしたくなる。
店を始める前にも、似たようなことがあった。
冷蔵庫。
電子レンジ。
ホットクック。
掃除機。
必要なものを買うたびに、最初は二十万円だった予算が二十五万円へ膨らんだ。
「まずは、安定して席が埋まることやな」
無理に満席を目指す必要はない。
先週のように、二人か三人がだらだら酒を飲み、時間差でもう一人が来る。
それぐらいが、博之にも客にも居心地がよかった。
全員の話を聞ける。
客同士の会話も生まれる。
酒を作る手も追いつく。
六席全部を埋めることより、来てくれた一人が、
「また来てもええな」
と思って帰ることの方が大切だった。
「今んところ、嫌な客が一人も来てへんのもでかいな」
博之は、椅子へ背中を預けた。
来てくれたのは、昔からの友人。
動画の視聴者。
小説の読者。
仕事や人生について相談したい人。
皆、博之のことをある程度知ったうえで、三階まで上がってきている。
だから、初対面でも話が早かった。
酒に酔って暴れる者もいない。
他の客へしつこく絡む者もいない。
支払いで揉める者もいない。
だが、店を続けていれば、いつかは面倒な客も来るだろう。
酔いすぎる人。
他人の相談を遮る人。
博之を独占しようとする人。
料金に文句を言う人。
動画で見ていた印象と違うと怒る人。
「そこは、今のうちに考えとかなあかんな」
問題が起きてから慌てるより、最低限の線を決めておく。
泥酔するまで酒を出さない。
他の客へ迷惑をかけたら帰ってもらう。
無理な相談を一人で抱え込まない。
店の外まで関係を持ち込まない。
隠れ家だからこそ、安心して過ごせる場所にしなければならない。
そのためには、優しいだけでは足りなかった。
「今度、コンカフェの店長に聞いてみるか」
長く店を続けていれば、客との距離で悩むこともあるだろう。
出入りを断る判断。
常連への注意。
料金を払っている客へ、どこまで強く言うか。
そのあたりは、実際に店を回している人へ聞く方が早い。
博之は、やることをメモへ書き出した。
獺祭二割三分を小瓶で二本。
乾き物の補充。
炭酸水と氷。
客とのルールを考える。
コンカフェの店長へ相談する。
書き終えると、会社の資料へ画面を切り替えた。
平日は、平日の仕事がある。
メールを返し、数字を確認し、求められた資料を仕上げる。
以前なら、会社の仕事だけで一日が埋まり、そのまま気持ちまで沈んでいた。
今は違う。
仕事をしながらも、週末の六席が頭の隅にある。
次は誰が来るのか。
獺祭を注文する客はいるのか。
ララのイベントは、本当に実現するのか。
面倒なことも増えていくだろう。
それでも、不思議と苦しくはなかった。
自分で選んだ面倒だった。
「まあ、今週も粛々とやるか」
会社の仕事を終える。
小説を書く。
店へ行き、掃除をする。
減ったものを補充する。
そして、土曜日になれば五食分のカレーを作る。
五万円を得たからといって、店の形を急に変える必要はない。
少しだけ酒を増やし、少しだけ備えを厚くする。
今は、それぐらいでよかった。




