2026年9月3週目。土曜夜。ダラダラ呑める場所。
九月三週目の土曜日、夜の営業が始まった。
博之は照明を少し落とし、冷蔵庫から炭酸水を取り出した。
ホットクックには、夜用に作った五食分のカレーが入っている。
昼は五食がすべて売れた。
六人目に来てくれた客にはカレーを出せず、ウーロン茶だけで話をしてもらった。
昼営業を終える時、博之は客たちへ言っていた。
「夜もやりますんで、まだ喋り足りんかったら戻ってきてください」
近くのネットカフェでも、喫茶店でも、適当に時間を潰してくれればいい。
半分は社交辞令のつもりだった。
本当に戻ってくるかどうかは分からない。
博之自身も、夕方の仕込みをしながら少し気にしていた。
「あの人ら、結局どうしたんやろな」
だが、開店時刻を迎えてしばらくすると、階段から足音が聞こえた。
扉が開く。
「戻ってきました」
昼に来ていた客だった。
その後ろから、もう一人が顔を出す。
「俺も、ちょっとその辺で時間潰してました」
「ほんまに来てくれたん?」
「夜も気になったんで」
二人は昼営業が終わったあと、一緒に喫茶店へ行ったらしい。
そこでしばらく話し、いったん別れたものの、それぞれ夕方まで時間を潰してから再び店へ
来てくれたという。
さらに少し遅れて、もう一人が入ってきた。
開店して間もないのに、カウンターには三人の客が並んだ。
「昼にカレー出せんかった人、ほんますいませんでしたね」
博之は、六人目だった男性へ改めて頭を下げた。
「いやいや、全然大丈夫ですよ」
「せっかく来てもろたのに、ウーロン茶だけやったからな」
「僕、おじさん目当てで来てるんで。カレーは別に」
「そう言われたら、うれしいような怖いような」
「怖がらんでくださいよ」
「ほんなら、今日はちゃんとカレー出します」
博之は炊飯器を開け、最初の一皿を用意した。
「車では来てないですよね?」
「電車です」
「それやったら、ゆっくり飲んでいってください」
千本桜をグラスへ注ぎ、炭酸水で割る。
氷が小さな音を立てた。
「芋のソーダ割りです」
「いただきます」
「多分、今日はそんな客来んと思うんで、ゆっくりしてください」
「でも、もう三人いますよ」
「先週は友達入れて四人ぐらいやったんですよ」
「じゃあ、結構いいペースじゃないですか」
「どうやろな。まだ三週目やから、何が普通かも分からへん」
友人は今日は来ていなかった。
初日の夜は、二十年来の友人が会話をつないでくれた。
だが今夜は、博之が一人で店に立っている。
最初は少し不安だった。
客同士が黙ってしまったらどうするか。
一人の話だけが長くなったら、どう切り替えるか。
全員の相手をし続けて、自分が疲れ切らないか。
しかし、実際に始まってみると、思ったより自然に会話は流れた。
「普段、動画ってどうやって撮ってるんですか?」
「スマホ置いて、喋って終わりやで」
「編集とかしないんですか?」
「ほとんどせえへん。八千本も編集してたら死ぬわ」
「小説も毎日更新してますよね」
「音声で大枠を喋って、AIに文章を整えてもらってる」
動画の話。
小説の話。
店を始めるまでにかかった金。
会社での働き方。
最近しんどかったこと。
これからどうしたいのか。
一つの話題を掘り下げていると、別の客が自分の経験を重ねる。
博之が答える。
また別の人が笑う。
誰か一人だけが話し続けるのではなく、少しずつ順番が回っていた。
「酒、結構進みますね」
一人が空になりかけたグラスを持ち上げた。
「延長してくれてる分は、多少出しますよ」
「追加料金いらないんですか?」
「細かく何杯って数えるのも面倒やしな。度を超えんかったらええよ」
「良心的ですね」
「めちゃくちゃ儲けようとしてる店ではないから」
「それで大丈夫なんですか?」
「大丈夫かどうか、今やって確かめてるところや」
二時間ほど経った頃、一人が会計を済ませて帰った。
その席が空いてからしばらくすると、また階段を上がる足音がした。
「こんばんは」
新しい客が一人、店へ入ってくる。
「どうぞ。ちょうど一席空きました」
満席にはならない。
だが、誰かが帰る頃に、別の誰かが来る。
時間が少しずれているおかげで、会話は途切れなかった。
先に来た客が、後から来た客へ話題を説明する。
「今、おじさんが会社でどんな扱い受けてるかって話してたんですよ」
「初対面の人に、そこまで説明せんでええねん」
「動画でだいたい知ってますよ」
「俺の個人情報、筒抜けやな」
店内に笑い声が広がる。
三時間近く残る人もいた。
二時間ほどで帰る人もいた。
新しい客が加われば、また違う話題が始まる。
時計を何度も確認する必要もなかった。
酒を作り、カレーを出し、話を聞いているだけで、時間が流れていった。
「ここ、ええですね」
一人がカウンターへ肘をつきながら言った。
「何が?」
「だらだら飲める感じが」
「褒めてる?」
「褒めてますよ。普通の店やと、次の注文せなあかんかなとか、帰った方がええかなって気になるんで」
「うちは六席しかないけど、今のところ追い出すほど客来てへんからな」
「これぐらいが、ちょうどいいんちゃいます?」
博之も店内を見回した。
満席ではない。
空席もある。
全員の声が聞こえる。
話したい人は話し、少し黙りたい人は酒を飲む。
確かに、このぐらいがちょうどよいのかもしれない。
「あと一人来てくれたら、夜のカレーも完食なんですけどね」
「まだ残ってるんですか?」
「一食だけ」
「来なかったらどうするんです?」
「俺が食べる」
「毎週カレー食べてますやん」
「店主の責任や」
午後十時頃。
最後まで残っていた客が時計を見た。
「そろそろ帰ります」
「ありがとうございます」
「十一時までじゃないんですか?」
「もう誰も来なさそうやし、俺も閉めようかな」
「自由ですね」
「一応、俺の店やからな」
客たちは順番に階段を下りていった。
最後の一人を見送る。
扉が閉まると、急に店内が静かになった。
友人は来なかった。
それでも、夜は四人の客が来てくれた。
二時間、三時間と滞在し、酒を飲みながら話してくれた。
博之は照明を明るく戻し、空いたグラスを流しへ運んだ。
夜用に作った五食のうち、残ったのは一食。
炊飯器から米をよそい、ホットクックに残ったカレーをかける。
福神漬けも少し添えた。
カウンターの外側へ回り、客が座っていた椅子に腰を下ろす。
「今日一日、結構よかったな」
昼は五食が売れ、一人分足りなかった。
夜は満席にはならなかったが、四人が長く滞在してくれた。
カレーも、自分が食べればきれいになくなる。
焼酎や炭酸水、氷はまた買い足さなければならない。
売上のすべてが利益になるわけでもない。
それでも、材料を仕入れ、料理を作り、客へ出し、減った酒をまた買う。
店が少しずつ回っている。
そのことが、ありがたかった。
博之はカレーを一口食べた。
「まあまあ、いけるな」
客へ出す時には自信がないのに、自分で食べると少しうまく感じる。
「やっぱり中辛と甘口、このぐらいでええんちゃうか」
誰もいない店で、一人ぶつぶつと味を確かめる。
昼から夜まで、人の声が絶えなかった土曜日。
最後に残った一皿を食べながら、博之はその日の時間をゆっくりとかみしめていた。




