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2026年9月2週目。第23話 人数では測れない夜。一日目を終えて一息つく。感慨深い一日。

 夕方になると、博之は店内の照明を少し落とした。

 昼のカレー屋と、夜の酒場。

 同じ六席でも、少しぐらい空気を変えたかった。

 とはいえ、本格的な間接照明を入れたわけではない。

 天井の蛍光灯を一つ消し、カウンターの奥に置いた小さな照明をつけただけだった。

 白っぽかった店内に、わずかに影ができる。

 棚に並べた一升瓶も、昼間より酒らしく見えた。

「まあ、こんなもんやろ」

「それっぽくはなったな」

 昼営業から残っている友人が、カウンターの端で答えた。

 友人というより、初日の付き添いに近かった。

 客が来なければ飲み相手になり、来れば会話へ混ざる。

 博之にとっては、かなり心強い存在だった。

「もう酒飲んでええ?」

「一応、夜営業始まったからな」

 博之は棚から千本桜を取り出した。

 夜に出す酒の中で、唯一、自分なりにこだわって選んだ芋焼酎だった。

 氷を入れたグラスへ、少し濃いめに注ぐ。

 水を足し、友人の前へ置く。

 自分の分も作った。

「乾杯するか」

「何に?」

「開店初日」

「まだ半分しか終わってへんで」

「ほんなら、昼に四人来てくれたことに」

 二つのグラスが、軽い音を立てた。

 博之は一口飲んだ。

 芋の香りが鼻へ抜ける。

 朝からずっと身体に入っていた力が、ようやく少し抜けた。

 昼営業では、限定五食のうち四食が出た。

 顔見知りが中心だった。

 それでも、誰も来ない可能性を考えていた博之にとっては、十分すぎる結果だった。

 その報告を、短い動画にしてYouTubeへ上げていた。

『初日の昼、四人来てくれました』

『一人も来んかったら、それはそれで動画にしようと思ってたんですけど、ゼロではありませんでした』

『夜も十一時まで、一応やります』

 客の顔や、店の正確な場所は映していない。

 カウンターの端と、食べ終わった皿。

 冷蔵庫に入ったハートランド。

 それだけを撮影した。

『無理なら無理でええと思って始めたんですけど、やっぱり人が来てくれるとうれしいですね』

 動画を投稿したあとは、待つしかない。

 昼はカレーと飲み物で千円。

 夜は一時間三千円。

 酒とカレーが付くとはいえ、気軽に様子を見に来る金額ではなかった。

 古い雑居ビルの三階まで上がり、正体のよく分からない中年男と一時間話す。

 よほど興味がなければ、来ないだろう。

「夜、誰も来んかったら、二人で飲んで終わりやな」

「それはそれでええやん」

「お前はええやろ。俺は店主やぞ」

「俺が三千円払った時点で、もう夜の売上あるやん」

「ほんまに優秀な初期客やな」

 二人は芋焼酎を飲みながら、昼の営業を振り返った。

 米が少し柔らかかった。

 カレーは五食でちょうどよかった。

 千円札一枚で会計が終わるのは楽だった。

 客が三人同時に話し始めると、誰に返事をすればいいのか少し迷った。

 たった半日の営業でも、改善したいところはいくつも出てくる。

「次は米の水、ちょっと減らすわ」

「普通に食えたけどな」

「金もろて出すとなると、気になるねん」

「急に店主みたいなこと言うな」

「店主や」

 笑っていると、階段を上がる足音が聞こえた。

 二人とも会話を止め、扉を見る。

 足音が三階で止まった。

 少し間を置いて、扉が開く。

 昼にも来ていた若い男性だった。

「また来たん?」

「夜も気になったんで」

「昼もカレー食ったやろ」

「一回帰ったんですけど、やっぱり来ようかなと思って」

 博之は笑いながら、席を勧めた。

「ほんなら、どうぞ。芋、麦、ハートランドがあるで」

「芋でお願いします」

 新しいグラスへ氷を入れる。

 昼間は仕事の悩みを話していた若者も、夜になると少し表情が柔らかかった。

「昼より、夜の方が話しやすいっすね」

「酒入ってるからやろ」

「おじさんも飲んでますし」

「客来る前から飲んでる店主やからな」

「経営者としてどうなん?」

 友人が口を挟む。

「俺が飲んで味を確かめてんねん」

「昼から同じ芋ばっかり確認してるやん」

 三人で笑った。

 博之と若者の二人だけなら、また仕事の相談を深く掘り下げていたかもしれない。

 だが、友人がどうでもいい話を間へ入れてくれる。

 博之の昔の失敗。

 学生時代の話。

 最近値上がりしたもの。

 ネットで見たくだらない動画。

 少し重い話をしても、そこから笑える話題へ戻ってこられる。

「お前、おってくれて助かるわ」

「二十年たって、やっと価値に気づいたん?」

「俺一人やったら、ずっと相談聞いてしまうからな」

「デモの飲み会で、全員を相手せんでもええって学んだんちゃうの」

「学んだことと、できることは別や」

 午後八時を過ぎた頃。

 再び、階段を上がる足音がした。

 入ってきたのは、関西圏に住んでいる視聴者だった。

 博之とは、ほとんど初対面だった。

「動画見て、今日やってるって知ったんで」

「ほんまに来てくれたんですか」

「一回、どんな店か見てみたくて」

 店を見つけるまで、かなり迷ったらしい。

 ビルの前を何度も通り過ぎ、SNSに載せた外観の一部と見比べながら、ようやく三階まで

 上がってきたという。

「ほんまに隠れ家でした」

「隠れ家というか、隠れすぎなんですよ」

「でも、中に入ったら落ち着きますね」

 その一言に、博之は少し救われた。

 狭い。

 古い。

 壁紙も天井も、完全に新しくしたわけではない。

 高級な酒もない。

 洒落たカクテルも作れない。

 それでも、落ち着くと言ってもらえた。

「何飲みます?」

「ハートランドで」

 冷蔵庫から小瓶を取り出し、グラスと一緒に出す。

 友人が初対面の客へ話を振った。

「いつ頃から、おっさんの動画見てるんですか?」

「結構前からです」

「何でこんなん見ようと思ったん?」

「こんなん言うな」

 昼から来ていた若者も笑いながら会話へ入った。

 全員が友達ではない。

 年齢も、仕事も、住んでいる場所も違う。

 ただ、博之の動画を見たことがある。

 その細い共通点だけで、最初の会話は成立した。

 仕事のこと。

 会社での居場所。

 YouTubeの裏話。

 四十代の孤独。

 若い頃にやりたかったこと。

 これから先の生活。

 話題は次々に変わった。

 博之は酒を出し、カレーを盛り、時々会話へ入った。

 自分がずっと話し続けなくても、客同士で言葉が続いていく。

 誰かの話を別の誰かが拾う。

 友人が笑いへ変える。

 博之が自分の経験を少し加える。

 それだけで、六席の空気は回っていた。

「この感じやったら、続けられるかもしれんな」

 博之はグラスを洗いながら思った。

 午後九時頃。

 また扉が開いた。

 入ってきた男性が、少し遠慮がちに店内を見渡す。

「こんばんは」

「こんばんは。どうぞ。初めましてですかね」

「初めましてです。でも、小説はずっと読んでます」

 博之は、思わず身体を前へ乗り出した。

「どの作品です?」

「戦国で飯屋をやるやつです」

「そこから来てくれたん?」

「はい。書いてる人が、どんな人なのか気になって」

 YouTubeの視聴者ではなく、小説の読者だった。

 博之が自宅で音声を吹き込み、AIを使いながら何百話も書いてきた作品。

 その読者が、現実の店まで来てくれた。

「それは、ほんまにうれしいな」

 照れ隠しではなく、本音だった。

「どこまで読んでくれてるんです?」

「今出てるところまで全部です」

「全部?」

「更新されたら、だいたいその日に読んでます」

 そこから、話は尽きなかった。

 好きな登場人物。

 印象に残っている場面。

 今後の展開。

 戦国時代の食事。

 博之がどうやって大量の話を書いているのか。

 AIを使うことへの批判。

 それでも作品を出し続ける理由。

 読者は、博之自身がすぐには思い出せない細かな場面まで覚えていた。

「そこ、そんなに印象残ってるんですか」

「好きな回なんです」

「俺、どんな話やったか今ちょっと曖昧やわ」

「作者が忘れたらあかんでしょう」

 店内に笑いが起こった。

 一人で部屋に座り、誰が読んでいるのか分からないまま公開していた文章が、

 目の前の人間の中に残っている。

 数百万というPVでは、実感できなかったことだった。

 売上とは別の場所で、胸の奥が満たされていく。

 時計を見ると、午後十一時が近づいていた。

「そろそろ閉めます」

「ほんまに十一時で終わるんやな」

 友人が言った。

「警察で言うたからな。十一時になったらテレビみたいに終わります」

「客を締め出す店」

「追い出す言うな」

 客たちは笑いながら会計を済ませた。

 昼にも来てくれた若者。

 関西圏から足を運んだ視聴者。

 博之の小説を読み続けていた読者。

 そして、開店からずっと残ってくれた二十年来の友人。

 六席すべてが埋まった時間はなかった。

 行列もできなかった。

 Excelへ入力していた強気シナリオほど、売上が上がったわけでもない。

 それでも、博之には不足している感覚がなかった。

 誰かが話す。

 別の誰かが笑う。

 話題が途切れそうになれば、また誰かが言葉を足す。

 芋焼酎と瓶ビールを飲みながら、十一時まで時間が流れた。

 最後の客が階段を下り、店内に静けさが戻る。

 博之は、カウンターに残ったグラスを集めた。

「人数は、そんな来んかったな」

 友人が椅子に座ったまま言った。

「でも、十分やったわ」

「楽しかった?」

「めちゃくちゃ楽しかった」

 人数だけを見れば、小さな夜だった。

 だが、その数字からこぼれ落ちるものが、確かにあった。

 昼に来た人が、もう一度戻ってきてくれた。

 初対面の視聴者が、落ち着くと言ってくれた。

 小説の読者と、初めて直接話すことができた。

 知らない客同士が、一つのカウンターで自然に笑っていた。

 そして、友人がずっと店の空気を支えてくれた。

 博之は空になった六席を眺めた。

 売上がいくらだったのか。

 原価を引けば、いくら残るのか。

 家賃三万円を回収できるのか。

 それは明日、Excelへ入力すればいい。

 少なくとも今夜だけは、数字を見なくてもよかった。

 昼も夜も、大成功ではない。

 来週も同じように客が来る保証はない。

 店を始めたことが正解だったのかも、まだ分からない。

 それでも、この一日だけは。

 六席の店を作ってよかったと、博之は素直に思えた。

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