2026年9月2週目。第22話。いよいよ開店。最初の4人。昼のカレーが減るごとに店をやっている実感がわく
開店前日。
博之は、近所の友人に教えてもらった酒屋を訪れた。
夜営業で出す酒は、最初から種類を増やさないと決めていた。
芋焼酎。
麦焼酎。
瓶ビール。
あとは、水と炭酸水。
一人で管理できる範囲だけにする。
「芋は好きなんで、ここだけはちょっとこだわりたいんです」
店員に伝えると、棚に並んだ一升瓶を何本か紹介された。
その中から選んだのは、千本桜だった。
酒に詳しいわけではない。
銘柄を聞かれて、香りや製法について立派に説明できるわけでもない。
それでも、自分が飲みたいと思える酒ぐらいは置きたかった。
「麦は、飲みやすいやつあります?」
「最初に出すなら、癖が強すぎない方がいいでしょうね」
勧められた一本を、それも一升瓶で購入した。
その足で、茨木駅近くの酒の量販店へ向かう。
炭酸水。
ウーロン茶
ミネラルウォーター。
袋入りの氷。
ハートランドの小瓶。
必要最低限のものを買い、店へ運んだ。
一升瓶を棚に並べる。
ハートランドを冷蔵庫へ入れる。
炭酸水をその隣へ置く。
空きスナックに残されていた古い棚へ酒が並ぶと、それだけで夜の店らしく見えた。
「誰も飲まんかったら、俺が少しずつ飲んだらええか」
売れ残ることを考えているのか、自分が飲む理由を作っているのか。
博之にも、よく分からなかった。
・・・・・・・・・・・・・・
九月第二週の土曜日。
初営業の日が来た。
博之は朝から、春日の横丁にある店へ入った。
何度も上り下りした狭い階段だった。
それなのに今日だけは、一段上がるたびに足が重く感じられた。
三階の扉を開け、照明をつける。
冷蔵庫の低い音が響く。
清掃されたカウンター。
六脚の赤い椅子。
棚に置かれた二本の焼酎。
冷蔵庫の中のハートランド。
物はそろっている。
あとは、客が来るかどうかだけだった。
「ほんまに開けるんやな」
誰もいない店内で、博之は一人つぶやいた。
ホットクックへ材料を入れる。
玉ねぎ。
人参。
じゃがいも。
肉。
中辛と甘口を混ぜたルー。
炊飯器には無洗米を入れ、水の量を慎重に確認した。
米が硬すぎても困る。
柔らかすぎても困る。
自宅で食べるだけなら適当で済むことが、客へ出すとなると急に怖くなる。
カレーは限定五食。
炊く米も五人分だけだった。
以前は、昼に十食売る計算をしていた。
だが、現実の店内に五枚の皿を並べてみると、その五食でさえ多く感じられた。
「一人でも来たらええか」
ホットクックと炊飯器のスイッチを入れる。
準備が終わると、博之はカウンターの内側へ座った。
ノートパソコンを開き、小説の続きを書こうとする。
客が来るまでは、普段どおり作業をしていればいい。
そう考えていた。
だが、文章は一行も進まなかった。
階段から音がするたびに顔を上げる。
ビルの入口で誰かが話しているだけでも、手が止まる。
足音が近づいてくる。
止まる。
また遠ざかる。
別の階の客だった。
配達員だった。
外を歩く人の靴音が、建物の中へ響いただけだった。
「落ち着かんな」
店内には、少しずつカレーの匂いが広がっていた。
客がいなければ、ただの匂いである。
一人でも座れば、店の匂いになる。
十一時を少し過ぎた頃。
また階段を上がる音が聞こえた。
今度の足音には、聞き覚えがあった。
扉が開く。
「おう」
近所に住む友人だった。
「来たで」
「一号やん」
博之の口から、自然に笑いがこぼれた。
「開店一号、ありがとう」
「別に一号を狙って来たわけちゃうけどな」
「お土産は?」
「ないで」
「なくてええわ。まだ、すぐ閉めるかもしれん店やし」
「初日の一言目がそれか。縁起悪いな」
友人は笑いながら、カウンターの端へ座った。
六席のうち、一席が埋まった。
それだけで、店内の景色が変わった。
博之は炊飯器を開けた。
白い湯気が立ち上る。
米を皿へよそう。
ホットクックから、ごろごろした具のカレーをかける。
最後に福神漬けを少し添え、ウーロン茶と一緒に出した。
「はい、千円」
「ほんまに金取るんやな」
「店やからな」
「二十年来の友達価格は?」
「最初の客から値引きしてたら、管理人のおっちゃんに怒られるわ」
「商売人になったな」
友人は財布から千円札を一枚出し、カウンターへ置いた。
博之は、その紙幣をすぐには取れなかった。
何度もExcelへ入力した千円。
カレー八百円。
飲み物二百円。
ただの計算式だった数字が、初めて目の前の千円札になっている。
「何してんの?」
「いや、初売上やなと思って」
「はよ取れよ」
「はいはい」
博之は千円札を受け取った。
釣り銭はいらない。
千円札一枚で会計が終わる。
コンカフェの女の子に言われた通りだった。
友人がカレーを一口食べる。
「どう?」
「俺は辛口の方が好きやけどな」
「それは知ってる」
「まあ、これはこれで食える」
「また、まずくない評価か」
「普通に家のカレーやな」
「それでええねん」
飛び上がるほどうまいとは言われなかった。
だが、友人は文句を言いながらも、スプーンを止めなかった。
二人で、だらだらと話した。
清掃に六万円かかったこと。
冷蔵庫が階段の踊り場をぎりぎり通ったこと。
営業許可や講習に、想像以上に金がかかったこと。
半年後には閉めているかもしれないという話。
「一人おるだけで、全然違うな」
博之が店内を見回した。
「何が?」
「店っぽくなる」
「そら、俺が客やからな」
さっきまで博之が一人で座っていた時には、設備のそろった空き店舗だった。
今は、カレーを食べる人がいる。
皿とスプーンの音がする。
会話がある。
それだけで、営業中の店になっていた。
友人が半分ほど食べた頃、また階段を上がる音が聞こえた。
今度は、扉の前で足音が止まった。
店名を確認しているのか。
入るかどうか迷っているのか。
数秒後、扉がゆっくり開いた。
「こんにちは」
若い男性が顔をのぞかせた。
以前、イベントで一度だけ会ったことがある人だった。
「おお。来てくれたん?」
「来ましたよ」
「わざわざありがとう。場所、分かりにくくなかった?」
「めちゃくちゃ分かりにくかったっす」
「やっぱり?」
「二回ぐらい前を通り過ぎました」
「隠れ家すぎるな」
「でも、おじさんと会えるから来たんっすよ」
博之は、一瞬だけ言葉に詰まった。
登録者四千八百人。
小説の数百万PV。
数字として見れば大きい。
しかし、その中の誰かが電車へ乗り、茨木まで来て、分かりにくい階段を三階まで上がる。
その一人の方が、ずっと重かった。
「ほんなら、どうぞ。カレーでええ?」
「お願いします」
二皿目を盛り付ける。
若い男性はカレーを食べ始めると、最近の仕事について話した。
職場でうまくいかない。
周囲との距離感が分からない。
このまま働き続けてよいのか、迷っている。
博之はカウンター越しに話を聞いた。
簡単に「頑張れ」とは言えなかった。
自分も休職を何度も繰り返している。
会社で居場所をなくし、自分の価値が分からなくなった経験もある。
「辞めるにしても、勢いだけでは辞めん方がええで」
「やっぱりそうですか」
「俺、動かん時には全然動かんのに、動いたらあかん時に限って動くからな」
友人が横から口を挟んだ。
「それは、ほんまやで」
「お前は黙っとけ」
三人で笑った。
若い男性の表情が、少しだけ緩んだ。
博之だけが一方的に相談へ答えるのではない。
友人が別の角度から話へ入り、若者も言葉を返す。
デモ後の飲み会で見たような、小さな会話の輪ができていた。
さらに三十分ほどすると、三人目の客が来た。
吹田に住む顔見知りだった。
以前、一度だけ麻雀を打ったことがある。
「開店、おめでとうございます」
「いや、おめでたいかはまだ分からへんで」
「でも、本当に開けたんでしょう」
「半年後には消えてるかもしれん」
「それでも、今日開けたことは変わらないですよ」
何か開店祝いを持ってくるつもりだったらしいが、博之は事前に断っていた。
「ほんまに何もいらんから。カレー食べてくれたら、それでええよ」
「分かりました。でも、僕はチャージも払いますからね」
「昼やで?」
「話しに来たんで」
「無理せんでええって」
「無理ちゃいます」
その言葉が、博之の胸へ静かに残った。
カレーだけではない。
自分と話す時間に、金を払うと言ってくれる人がいる。
管理人やコンカフェのオーナーから何度も言われた。
自分を安売りするな。
その言葉が、初めて現実の金へ変わろうとしていた。
六席のうち、三席が埋まった。
博之はカウンターの内側にいる。
小さな店では、それだけでも十分ににぎやかだった。
「土曜日の昼に三人来たら、ええ方ちゃう?」
友人が言った。
「初日だけかもしれんけどな」
「初日からゼロよりええやろ」
「何でお前、今日はそんな前向きなん?」
「昼から酒飲める店を残してほしいから」
「結局、自分のためやん」
時計が十三時を回った頃。
また扉が開いた。
今度も、博之の顔見知りだった。
「まだカレーあります?」
「あります。あと二食」
「ほんなら、一つお願いします」
四皿目。
限定五食のうち、残りは一つになった。
博之は炊飯器を開け、米をよそった。
手がわずかに震えていた。
忙しいわけではない。
満席でもない。
行列もない。
ただ、朝に炊いた米が、本当に減っている。
ホットクックで作ったカレーが、誰かの皿へ移っていく。
空いていた椅子に、人が座っている。
千円札が、一枚ずつ手元へ積み重なっている。
「幸せやな」
誰にも聞こえないよう、小さくつぶやいた。
売上は、まだ数千円だった。
初日だから来てくれただけかもしれない。
来週には、一人も来ないかもしれない。
それでも今日は、六席のうち四席に人が座った。
コメントではない。
DMでもない。
アクセス数でもない。
実際に階段を上がり、扉を開け、カレーを食べてくれた四人だった。
数百万回見られた男が、現実に作った六席の店。
その最初の昼は、四人の客と、残り一皿のカレーで、静かに満たされていった。




