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2026年8月4週目。第20話 まずくないカレーと、千円札一枚。試作して今カフェで食べてもらいアドバイスもらう

 食品衛生責任者の講習を終えた日の夜。

 博之は、新しく買ったホットクックを自宅の台所へ置いた。

 清掃は終わった。

 資格も一つ取った。

 だが、店で出す肝心の商品は、まだ一度も作っていない。

「とりあえず、カレーやな」

 袋から玉ねぎを取り出し、皮をむく。

 みじん切りにする必要はない。形もそろえず、包丁で大きめに切った。

 人参はへたを落とす。

 皮はむかなかった。

 じゃがいもは芽を取り、煮崩れしすぎないよう、ごろごろとした大きさに切る。

 スプーンですくった時、肉だけではなく、野菜も一緒に乗る。

 そんな家庭的なカレーにしたかった。

「家で食うカレーの、ちょっと具が豪華なやつでええねん」

 玉ねぎ。

 人参。

 じゃがいも。

 肉。

 材料を内鍋へ放り込んでいく。

 食材へ一度火を通してから、複数の市販ルーを混ぜるつもりだった。

 博之は、辛すぎるカレーが好きではない。

 汗を流しながら食べる激辛も、舌が痛くなるような香辛料も求めていなかった。

 中辛を中心に、甘口を少し混ぜる。

 子ども向けほど甘くなく、辛いものが苦手な人でも食べられる程度。

 万人受けを緻密に計算した味ではない。

 単純に、博之自身が食べたい味だった。

「俺が食いたくないもんを、客に出してもしゃあないからな」

 ふたを閉め、調理ボタンを押す。

 ホットクックが静かに動き始めた。

 しばらくすると、部屋の中へ少しずつカレーの匂いが広がっていく。

 契約書でもない。

 見積書でもない。

 Excelの売上予測でもない。

 自分の店で出すかもしれない商品が、ようやく鍋の中に生まれようとしていた。

 完成を待ちながら、博之は説明書を読み返した。

「これ、五人分までなん?」

 一度に作れる量は、せいぜい五食程度だった。

 Excelの強気シナリオでは、土曜日の昼に十食、日曜日の昼にも十食売る前提で計算していた。

 十食を出すなら、二回作らなければならない。

 調理時間も倍になる。

 完成したカレーを保管する場所も必要になる。

 そもそも、開店前に十食作って、客が一人も来なければどうするのか。

「どうせ最初、十人も来おへんやろ」

 口にすると、少し寂しかった。

 だが、冷静に考えれば、その通りだった。

 登録者が四千八百人いても、店まで来る人は分からない。

 昼に十人来るという数字は、博之がExcelへ入力した願望にすぎない。

「ほんなら、最初は五食でええか」

 昼は限定五食。

 土曜日の夜用には、もう一度五食分を作る。

 昼に残れば夜へ回す。

 夜にも残れば、タッパーへ入れて自宅へ持ち帰る。

 五食なら、売り切れても困らない。

 残っても、博之が数日かけて食べ切れる。

 十食を売るために無理をするより、まずは五食をきちんと出す。

 強気シナリオの客数が、また一つ小さくなった。

 だが、不思議と後退した気はしなかった。

 数字が、自分の体力と店の大きさへ近づいただけだった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 完成したカレーは、見た目だけなら悪くなかった。

 人参もじゃがいもも大きい。

 玉ねぎは煮込まれ、ほとんど形がなくなっている。

 博之は炊いた米へカレーをかけ、一口食べた。

「普通にうまいやん」

 飛び上がるほどではない。

 専門店のように、何種類もの香辛料が鼻へ抜けるわけでもない。

 珍しい隠し味が入っているわけでもない。

 それでも、自宅で食べるカレーとしては十分にうまかった。

 大きめの野菜も、自分の好みには合っている。

 少なくとも、まずくはない。

「自分で作って、自分で食うても分からんな」

 博之は残ったカレーを保存容器へ入れた。

 翌日、なじみのコンセプトカフェへ持っていくことにした。

 何度も通っている店なら、遠慮なく感想を言ってくれるはずだった。

・・・・・・・・・・・・

「何ですか、それ」

 保存容器を見たスタッフの女の子が尋ねた。

「俺の店で出そうと思ってるカレー」

「もう作ったんですか?」

「試作品や。ちょっと食べてみて」

 営業の邪魔にならない時間を選び、少量ずつ皿へ分けてもらう。

 スタッフの女の子たちとオーナーが、順番にカレーを口へ運んだ。

 博之は腕を組み、反応を待った。

「どう?」

 最初に食べた女の子が、少し考えた。

「普通ですね」

「普通?」

「食べられへん味ではないです」

「褒めてんのか、それ」

「まずくはないっすよ」

 別の女の子も一口食べる。

「家のカレーって感じですね」

「それを狙ってんねん」

「ほんなら、いいんちゃいます?」

 誰も絶賛はしなかった。

 お金を払って毎週食べたいとも言わない。

 しかし、顔をしかめる者も、スプーンを止める者もいなかった。

 少なくとも、商品として出せない味ではないらしい。

 オーナーが皿を見ながら尋ねた。

「これ、いくらで出すつもりです?」

「七百円」

「飲み物は?」

「コーヒーかウーロン茶を二百円」

「カレー八百円にして、飲み物と合わせて千円にした方がよくないですか?」

「八百円にしたら、人来んやろ」

「七百円なら来るんですか?」

「……来えへんかもしれんな」

「じゃあ、客が来ない前提で値段を下げるの、やめた方がいいですよ」

 前にも同じようなことを言われていた。

 管理人からも、コンカフェのオーナーからも、自分を安く売りすぎるなと言われている。

「でも、八百円のカレーって高ない?」

「今どき、そこまで高くないでしょう。それに、七百円と飲み物二百円で九百円ですよね」

「うん」

「千円札をもらって、百円返すんですよ」

「ああ」

「それを毎回やるんです」

 博之は、狭いカウンターの中を想像した。

 カレーを出す。

 コーヒーを作る。

 話しかけられる。

 千円札を受け取る。

 釣り銭箱から百円玉を探す。

 客が五千円札を出せば、千円札と硬貨を組み合わせて返す。

「確かに面倒やな」

「カレーと飲み物で千円なら、千円札一枚で終わります」

「キャッシュレスも入れたいけどな」

「現金の人も絶対いますよ」

「そらおるわな」

「一人で店を回すなら、小さい手間ほど減らした方がいいです」

 味の感想を聞きに来たはずだった。

 だが、話はいつの間にか、釣り銭とオペレーションへ変わっていた。

 店は、料理を作って出すだけではない。

 注文を聞く。

 盛り付ける。

 飲み物を作る。

 金を受け取る。

 皿を下げる。

 洗う。

 客と話す。

 次の客を迎える。

 それらを、博之一人でこなさなければならない。

「最初だけオープン価格で七百円にして、あとで八百円にするのは?」

「値上げしたら、絶対何か言う人いますよ」

「七百円やったやん、って?」

「言いますね」

「最初から八百円の方がええんか」

「私は、その方がいいと思います」

 オーナーが、もう一口カレーを食べた。

「トッピングは考えてます?」

「考えてへん」

「卵とか、チーズとか、唐揚げとか」

「面倒くさいやろ」

「正解です」

「強いて言えば、福神漬けを横にちょっと置くぐらい」

「それでいいです。それでいいです」

 スタッフの一人が、強くうなずいた。

「一人でやるなら、選択肢を増やさん方がいいですよ」

「でも、トッピングがあった方が客単価上がるやん」

「仕込みが増える。在庫が増える。賞味期限を見るものも増える。注文を間違える可能性もある。

 皿や小鉢も増える」

「聞いてるだけで嫌になってきた」

「でしょう?」

 カレーは一種類。

 辛さも一種類。

 トッピングはなし。

 添えるのは福神漬けだけ。

 飲み物も、まずはコーヒーとウーロン茶。

 土曜日の夜だけ、種類を絞って酒を出す。

 華やかさはない。

 選ぶ楽しさも少ない。

 だが、一人で続けるなら、それぐらいがちょうどいい。

「営業終わったら、掃除もありますからね」

「清掃業者を入れたから、しばらく大丈夫やろ」

「最初にきれいにしただけでしょう。毎日の掃除は博之さんですよ」

「分かってるよ」

「皿を洗って、カウンター拭いて、床掃除して、ゴミをまとめて、トイレも確認して」

「全部、客が帰ってから?」

「当たり前じゃないですか」

 博之は営業終了後の店を思い浮かべた。

 土曜日の夜。

 客が帰るのは、十一時半頃。

 そこからグラスと皿を洗い、流し台を拭く。

 床を掃除し、生ゴミをまとめ、トイレを確認する。

 自宅へ帰る頃には、日付が変わっているかもしれない。

「掃除機もいるな」

「小さい店やから、安いので十分やと思いますけど」

「クイックルワイパーだけじゃあかん?」

「埃と食べかすは、掃除機の方が楽じゃないですか。両方あった方がいいと思います」

「また金かかるやん」

「オーナーって、そういうもんですよ」

 オーナーが笑った。

「客から見えへんものを、全部見なあかんのがオーナーです」

 食材。

 在庫。

 釣り銭。

 ゴミ袋。

 洗剤。

 掃除機。

 トイレットペーパー。

 客が楽しく過ごしている間、誰かが裏側のすべてを管理している。

 客としてコンカフェへ通っているだけでは、考えたことのない仕事ばかりだった。

「オーナーって大変やな」

「大変っすよ」

「俺も、いつかコンカフェのオーナーになって、女の子を採用したいのに」

 博之が言うと、スタッフたちが一斉に冷たい目を向けた。

「そんな横しまな動機で始めたら、絶対潰れますよ」

「いや、ちゃんと経営もするで」

「まずは、自分の六席の店を開けてください」

「それはそうやけど」

「まだカレーの値段すら決まってないでしょう」

「厳しいな」

 女の子が、空になった皿を博之へ返した。

「でも、カレーはまずくないです」

「最後まで、その褒め方なん?」

 店内に笑いが起きた。

 博之は、保存容器に残ったカレーを見た。

 七百円で売るつもりだったカレーは、八百円になりそうだった。

 昼に十食売るつもりだった計画は、限定五食になった。

 トッピングは増やさない。

 会計は、できるだけ千円札一枚で終わる形にする。

 夢が小さくなったわけではない。

 博之一人でも続けられる大きさへ、余計なものを削っているだけだった。

 豪華なメニューを考えるよりも。

 いつか若い女の子を雇う妄想をするよりも。

 まずは五皿のカレーを出す。

 そして、営業が終わったら、その五枚の皿を自分で洗う。

 メンヘラオジサンの店は、そこから始まるのだった。

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