2026年8月3週目。第19話 やることが決まれば、人は動ける。一つずつ用事を積み上げる
やることが決まると、不思議なほど身体は動いた。
店を借りるかどうか迷っていた時は、管理人へ電話一本かけるだけで何日もかかった。
ところが、契約する方向が決まり、保健所へ相談し、必要な手続きが箇条書きになった途端、
博之の迷いは少し薄くなった。
「次は清掃やな」
ルーズリーフに書いた予定表を見ながら、博之はつぶやいた。
食品衛生責任者の講習は、八月第四週。
それまで何もせず待つ必要はない。
店の清掃業者を探し、三社ほどに連絡した。
伝える内容は、毎回ほとんど同じだった。
古い雑居ビルの三階。
元スナック。
六席程度の小さな店。
飲食店として使う予定なので、カウンター内、流し、床、トイレを念入りに掃除してほしい。
さらに、ゴキブリや小型害虫の調査と防除も頼みたい。
「広さは小さいんですけど、長い間使ってないみたいなんです」
『厨房の油汚れはありますか?』
「そこまでひどくはないです。ただ、前に近所のスナックへ入った時、カウンターの上を
変な虫が走ってまして」
『こちらの店舗で確認されたわけではないんですね?』
「この店では見てません。でも、出てからでは遅いんで」
電話口の相手が、わずかに笑った。
博之は本気だった。
古い店でもいい。
壁紙が多少黄ばんでいてもいい。
高級な内装でなくても構わない。
だが、客がカレーを食べている横を虫が歩く店にはしたくなかった。
届いた見積もりは、おおむね五万円から七万円。
簡単な清掃だけなら安くなる。
換気扇や流しの奥まで重点的に掃除し、害虫防除まで加えると高くなる。
「六万円ぐらいで考えとくか」
当初の初期費用二十万円から考えれば、清掃だけで三割を使うことになる。
冷蔵庫より高い。
電子レンジとIHを合わせた金額にも近い。
「掃除に六万か」
高いとは思う。
だが、見えない部分をきれいにするための金だった。
内装のように写真映えはしない。
客から「この店は六万円かけて害虫対策をしました」と褒められることもない。
それでも、何も起きない状態を買うための金である。
「ここはケチらん方がええな」
博之は、中間ぐらいの六万円台の業者へ現地見積もりを頼むことにした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
予定表の項目が、少しずつ埋まっていった。
保健所への事前相談。
清掃業者の相見積もり。
食品衛生責任者の講習。
設備の購入。
営業許可の申請。
現地確認。
警察への営業形態の相談。
消防への確認。
一つ終われば、次へ進む。
決して華やかな仕事ではなかった。
電話をする。
日程を合わせる。
見積書を読む。
必要な書類を確認する。
それでも、何をすればいいか分からずExcelを開いたり閉じたりしていた頃より、
ずっと気持ちは楽だった。
「人間、やることが決まったら動けるもんやな」
博之は、その過程も少しずつ動画へ残した。
保健所の内部や担当者を勝手に撮影することはできない。
契約書や正確な住所も見せられない。
それでも、自宅へ戻ってから、自分の経験として話すことはできた。
「小さい店でも、物件借りてすぐ営業できるわけではありません」
「僕の場合は、まず保健所へ相談しました」
「食品衛生責任者の講習が必要で、予約が取れたのが二週間後でした」
「清掃は三社見積もりを取って、五万から七万ぐらいでした」
動画は、派手には伸びなかった。
それでも、
『実際の費用が分かって参考になる』
『自分も間借り営業を考えている』
『許可関係は面倒なんですね』
といったコメントが付いた。
博之自身も、動画で説明することで頭の中が整理された。
誰かへ話すためには、曖昧なままではいられない。
保健所で聞いたこと。
まだ確認できていないこと。
自分が推測しているだけのこと。
それらを分けて話す必要がある。
「僕のケースでは、こうでした」
その言い方だけは忘れないようにした。
店の広さも、建物も、出す料理も、人によって違う。
自分の経験を、誰にでも当てはまる正解のように語るつもりはなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
店づくりだけをしていればいいわけでもない。
平日は会社へ行く。
体調が悪い日は休む。
帰宅後には、小説の続きを書く。
音声で大枠を吹き込み、AIを使って文章を整え、自分で読み直す。
一話。
もう一話。
店の準備をしている間にも、物語は止めたくなかった。
小説を読んでいる人が、いつか店へ来てくれるかもしれない。
逆に、店で博之と話した人が、帰宅して小説を読んでくれるかもしれない。
YouTube。
小説。
六席の店。
これまでは別々に積み上げてきたものが、少しずつ一つにつながり始めていた。
「全部、メンヘラオジサンやもんな」
会社では、自分が何をしても、誰の役に立っているのか分からない時があった。
資料を作る。
数字を整理する。
会議へ出る。
だが、完成したものが誰に届き、何を変えたのかは見えにくい。
一方、店の準備は違った。
自分が電話をしなければ、見積もりは来ない。
自分が申し込まなければ、講習は受けられない。
小説を書かなければ、次の一話は公開されない。
やったことが、そのまま前進になる。
「仕事で、こういう感じあんまりなかったな」
久しぶりに、手応えがあった。
忙しい。
金も減る。
体調との調整も必要だった。
それでも、自分で決めたことを、自分の順番で進めている。
その感覚が楽しかった。
ただし、楽しいのは準備をしている今だけかもしれない。
清掃業者へ六万円を払い。
冷蔵庫や電子レンジを買い。
家賃三万円が引き落とされ。
営業を始めた日に、客が一人も来なかったら。
「結局、銭がどう動くかは、開けてみな分からんからな」
動画にコメントが付くことと、カレーが売れることは違う。
DMをくれた二人が、本当に同じ日に来られるとも限らない。
小説の読者が、わざわざ茨木まで足を運ぶ保証もない。
期待はあった。
不安もあった。
どちらか一方ではなかった。
うまくいく気もする。
誰も来ない気もする。
その二つが、日によって交互に顔を出した。
博之は予定表の「清掃業者」の横に、仮の日付を書き込んだ。
次に、「食品衛生責任者講習」の欄へ丸を付ける。
まだ店は開いていない。
売上は一円もない。
それでも、今日も一つ、準備は進んだ。
会社では得られなかった充実感と、会社員の給料があるから挑戦できる安心。
その両方を抱えながら、博之は小説の次の一話を開いた。
店が開くまで、書く。
店が開いてからも、書く。
客が来ても、来なくても。
少なくとも今は、やることが決まっていた。




