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2026年8月1週目。第17話 半年だけ、借りる。メンヘラオジサンの隠れ家。9月活動予定。一瞬だけ腹をくくる。

 管理人と約束した日、博之は百円ショップで買ったメジャーと、印刷したチェックリストを

 鞄に入れて、春日の横丁へ向かった。

 空きスナックを見るのは、これで二度目だった。

 最初に来た時は、古びたカウンターと六脚の丸椅子を見ながら、カレーを何食売れるかばかり

 考えていた。

 今回は違う。

 冷蔵庫は置けるのか。

 コンセントは足りるのか。

 買った家電は、そもそも階段を通るのか。

 妄想ではなく、センチメートルを測りに来た。

「兄ちゃん、ちゃんとメジャー持ってきたんか」

 ビルの前で待っていた管理人が、博之の鞄を見て笑った。

「そら持ってきますよ。冷蔵庫買ってから入らんかったら、ほんまに笑い話ですから」

「よう覚えとったな」

「おっちゃんに言われたんでしょうが」

 二人で狭い階段を上がる。

 途中、博之は踊り場の幅も測った。

「八十……ちょっとか」

「そこ曲がらなあかんからな」

「大型冷蔵庫は無理ですね」

「六席の店に大型はいらんやろ」

 三階の扉を開けると、前回と同じ、古いスナックの匂いがした。

 閉め切った空気。

 薄く残る煙草と油。

 変色した壁紙。

 天井の染み。

 それでも前回より、店内が少し狭く見えた。

 具体的な物を置こうと考えた瞬間、空間は急に現実の大きさになる。

 博之はカウンターの内側へ入り、チェックリストを取り出した。

「まず冷蔵庫」

 流し台の横を測る。

 横幅。

 奥行き。

 扉を開けた時に、人が通れるか。

「このサイズなら、家電屋で見た三万五千円のやつ置けそうです」

「上に電子レンジ置いたらええんちゃうか」

「重量、大丈夫ですかね」

「そこは説明書見い」

 冷蔵庫の候補欄へ丸を付ける。

 次は電子レンジ。

 IHヒーター。

 炊飯ジャー。

 ホットクック。

 全部を同時に使う場合、カウンターの内側はかなり窮屈になる。

「ホットクック、ここかな」

「それ何や」

「自動で煮込んでくれる鍋です」

「カレーぐらい、自分で混ぜたらええやん」

「ずっと立って混ぜる体力ないんですよ」

「商売始める前から省エネやな」

「続けるための工夫です」

 管理人は笑ったが、否定はしなかった。

 コンセントの数も確認する。

 古い建物なので、いくつもの家電を一度に動かして大丈夫かは分からない。

「電子レンジとIHと炊飯器を一緒に使ったら、落ちませんかね」

「それは電気屋に一回見てもろた方がええな」

「やっぱりそうですよね」

 チェックリストへ「電気容量確認」と書き足す。

 流し台の大きさ。

 水道の位置。

 手洗い場として使える設備。

 トイレ。

 換気扇。

 エアコン。

 ゴミを一時的に置く場所。

 保健所に何を指摘されるかは、まだ分からない。

 ただ、少なくとも家電を置く空間はありそうだった。

「一通りは、何とかなりそうやな」

 採寸を終えた博之が言うと、管理人はカウンターの向こうで腕を組んだ。

「ほんなら兄ちゃん、契約の話しよか」

「もうですか」

「何しに二回来たんや」

「いや、そうですけど」

 管理人は、古い椅子を一脚引いて座った。

「九月から半年。まず、それでどうや」

「半年ですか」

「土日だけで月三万円。平日は使わん。せやけど、条件がある」

 新しく通常賃料で借りたい人が現れた場合は、そちらを優先する。

 その場合、博之の契約は終了。

 最初から約束していた通りだった。

「急に来月出ていけ、みたいになるんですか」

「そこまで無茶は言わん。新しい人と話が進んだら、ちゃんと前もって言う」

「分かりました」

「まあ、正直、こんな三階まで新しい借り手がすぐ来るとは思わんけどな」

「それ、貸す側が言ってええんですか」

「事実や」

 管理人は悪びれずに笑った。

「半年やってみて、うまくいきそうやったら、その時また考えたらええ」

「更新するかどうかを」

「そう。客も来て、もう少し本格的にやりたいとなったら、月六万円で普通に借りる話もできる」

 土日だけではなく、平日も使う。

 博之自身が店に立てない時間は、アルバイトを雇ってもいい。

 昼だけ別の人に任せてもいい。

 オーナーとしては、月六万円で継続して借りてもらえるなら、その方がありがたい。

「まあ、そこまで行くかは分かりませんけどね」

「今から一年後の心配すんな。まず半年や」

「そうですね」

 半年。

 長いようで短い。

 失敗しても、一生続くわけではない。

 逆に、何もせずに半年過ごせば、またExcelの中だけで店を経営していたかもしれない。

「やります」

 博之は言った。

 大声でもなかった。

 覚悟を決めた英雄のような響きもない。

 ただ、管理人へ聞こえる程度の普通の声だった。

「ほんなら、九月からな」

「はい」

「それまでに保健所行って、使える状態にしときや」

 九月までは、およそ一か月。

 営業許可の確認。

 清掃。

 設備の購入。

 搬入。

 試作。

 告知。

 やることはいくらでもある。

「内装は大がかりに触らへんのやろ?」

「はい。壁紙とかも、そのままでいいかなと思ってます」

「そら助かる」

「ただ、掃除は一回、業者を入れようかなと」

「業者?」

「この前、近所のスナック入ったら、カウンターの上から変な虫が出てきたんですよ」

「ゴキブリか」

「ゴキブリより小さかったですけど、何かよう分からん虫です。店のおばちゃんは

 夏やからしゃあない言うてましたけど」

「しゃあないで済ますなよ」

「ですよね」

 博之はカウンターの隅や、冷蔵庫のあった場所を見た。

 目立つ虫はいない。

 だが、長期間使われていない古い店である。

 素人が表面を拭いただけでは、どこまできれいになるか分からない。

「最初に害虫駆除と清掃を一回、プロに頼もうかなと思ってます」

「多少金かかるぞ」

「分かってます。でも、衛生面で変な評判ついたら終わりですから」

「それはそうやな」

「保健所も、最初はちゃんと見るでしょうし」

「最初ぐらいは、こっちもきれいにしとかんとな」

「最初だけやなく、ずっとしてくださいよ」

「それは兄ちゃんの仕事や」

 二人で笑った。

 採寸表には、冷蔵庫の幅やコンセントの位置が書かれている。

 その下へ、博之は新しく項目を追加した。

 害虫駆除。

 専門清掃。

 保健所相談。

 九月契約開始。

 今日までは、空きスナックだった。

 契約書への正式な署名は、まだこれからである。

 それでも、この日を境に、博之の中では呼び方が変わった。

「あの店」ではない。

「自分の店」だった。

 ただし、半年だけ。

 新しい借り手が現れれば、返さなければならない借り物である。

 それでよかった。

 永遠に続ける覚悟など、今の博之には持てない。

 半年だけなら、試せる。

 六席だけなら、向き合える。

 月三万円なら、失敗しても立ち直れる。

 階段を下りながら、博之は採寸表を握り直した。

 頭の中で何度も作ってきた店が、初めて寸法を持った。

 そして博之自身も、初めて期限を持った。

 九月。

 あと一か月で、この古い三階に客を迎える準備をする。

 賽が転がった先にあったのは、華々しい開店ではなかった。

 保健所と、掃除と、コンセントの確認だった。

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