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2026年8月1週目。第16話 ゼロではなかった。各種コメントと共に店ができたら来たい旨の連絡が2件くる。

 スマートフォンに届いたDMを、博之はしばらく開けずに眺めていた。

 通知欄には、見覚えのない名前が表示されている。

 先ほどのライブ配信を見て送ってきたのだろう。

「何やろな」

 店の場所を聞かれるのか。

 無理に決まっていると忠告されるのか。

 あるいは、会社へ通報するとでも書かれているのか。

 博之は少し身構えながら、画面を開いた。

『近くに住んでいます。もし本当にお店ができたら、教えてください。

 メンヘラオジサンと一度お話ししてみたいです』

 続けて、

『料金などは、これから決められると思いますが、よろしくお願いします』

 と書かれていた。

 博之は、思わず文章をもう一度読み返した。

 店へ行きたい。

 話をしてみたい。

 ただの「いいね」ではない。

 実際に近くに住んでいる人が、わざわざDMを送ってくれた。

『ありがとうございます。まだ準備段階ですが、決まりましたら必ずお知らせします。

 ぜひよろしくお願いします』

 文章を打ち、送信した。

 短いやり取りだった。

 予約ではない。

 営業日も決まっていない。

 それでも、自分の頭の中にしかなかった六席の店に、初めて一人分の輪郭が生まれた気がした。

「一人はおるかもしれんな」

 そう思っただけで、少し呼吸が楽になった。

 しばらくすると、もう一件DMが届いた。

『お酒を飲みに行くのは難しいですが、カレーを食べに行くぐらいなら大丈夫です』

 ただし、そのあとに遠慮がちな一文が続いていた。

『あまり高いお店には行けないので、料金によりますが』

 博之は、少し考えてから返信を打った。

『そんなに高くするつもりはありません。今のところカレーが七百円、コーヒーか

 ウーロン茶が二百円ぐらいです』

 ここまでは書きやすい。

 問題は、その先だった。

 食べてすぐ帰る人からは、食事代だけをもらう。

 しかし、長く座って博之と話したい人からは、時間に対する料金をもらう。

 その仕組みを、どう説明すれば嫌な印象を与えないのか。

『長くお話しされる場合は、一時間千円ぐらいのチャージを考えています。ただ、

 たぶん最初は暇だと思うので、急かしたりするつもりはないです。

 のんびりしてもらえればと思っています』

 打ち終えてから、少し迷った。

「どうせ暇やと思うんで、だらだらしてもらったらええです」

 普段の自分なら、そう書きたかった。

 だが、客から料金をもらう話である。

 あまり雑に書くのも違う気がして、少しだけ表現を整えた。

 返信を送ると、相手から、

『それぐらいなら行けそうです。楽しみにしています』

 と返ってきた。

「二人目や」

 博之は小さくつぶやいた。

 一晩で二人。

 四千八百人の登録者がいて、明確にDMをくれたのは二人だけだった。

 数字だけ見れば、少ない。

 強気シナリオでは、昼に十人、夜に八人と入力していた。

 その数字から見れば、まったく足りない。

 それでも、ゼロとは違った。

 二人は、自分からメッセージを送るという一歩まで踏み込んでくれた。

 動画のコメント欄に「行きたい」と書くよりも、少しだけ重い行動である。

 だから、実際に店ができれば、本当に来てくれる可能性は高いように思えた。

 ただし、それもまだ想像でしかない。

 営業日が合わないかもしれない。

 体調を崩すかもしれない。

 場所を見て、入りにくいと思うかもしれない。

 料金を正式に告知した途端、考え直すかもしれない。

「店できたら行きますと、実際に来るは別やからな」

 博之は、浮かれすぎないように自分へ言い聞かせた。

 その後も、何件かメッセージが届いた。

『会社との両立は大丈夫なんですか』

『副業は問題ないんでしょうか』

『会社の人にバレませんか』

『アンチが店まで来る可能性もありますよね』

 来店希望ではなく、心配する内容が多かった。

 どれも、博之自身が考えていることだった。

 仕事を辞めるつもりはない。

 会社の規則も確認しなければならない。

 ネット上で顔を出している以上、好意的な人だけが来るとも限らない。

 嫌がらせ目的で来る人。

 勝手に撮影する人。

 酒に酔って絡む人。

 住所が知られること自体に、危険がないとは言えない。

 それでも、その心配をしてくれる人がいることも、悪い気はしなかった。

『無理のない範囲でやります』

『会社のことや安全面も確認してから決めます』

 博之は、一件ずつ返信した。

 すべてのメッセージへ、長文で答えたわけではない。

 だが、無視はしなかった。

 店を開く前から、すでに客とのやり取りは始まっている。

 そんな感覚があった。

 スマートフォンを置き、Excelの「強気シナリオ」を開く。

 昼十人。

 夜八人。

 延長六人。

 チップ六万円。

 昨日まで少し現実味を持って見えていた数字が、また遠く感じられた。

 今、具体的に顔の見えない相手として存在しているのは、二人だけである。

 それも、いつ来るのかは分からない。

 土曜日なのか、日曜日なのか。

 一度だけなのか。

 継続して来てくれるのか。

「毎週一人ずつ来てくれたら、それでもええんかな」

 週に一人。

 月に四人。

 商売としては、まったく足りない。

 だが、最初から利益十万円を目指す必要はない。

 六席を毎回埋めることよりも、まず一人が本当に階段を上がってくるかどうか。

 その確認の方が先だった。

 初回に一人。

 次に二人。

 同じ人がもう一回来る。

 少しずつ増えていけばいい。

「最悪、一人か二人来てくれたらええか」

 口に出すと、少し気持ちが楽になった。

 もちろん、ずっと一人や二人では家賃も払えない。

 赤字を続けるつもりもない。

 ただ、開店初日から十食売れなければ失敗という考え方は、違う気がした。

 最初の目的は、需要が本当にあるのかを確かめること。

 ネット上の数字が、現実の一人へ変わるのかを見ること。

 その一人が、払った金額に見合う時間だったと思って帰ってくれること。

 そこから先は、その後に考えればいい。

 博之はExcelを閉じた。

 数字を小さくしたからといって、不安が消えたわけではない。

 管理人との約束もまだこれから。

 保健所にも行っていない。

 料金も確定していない。

 店名すら仮のままである。

 DMを送ってくれた二人が、どこまで本気なのかも分からない。

 それでも、昨夜までとは少し違った。

 六席すべてが空いた店内しか想像できなかったところに、二人分の影が生まれていた。

 一人は、カレーを食べながら話をしたいと言った。

 もう一人は、酒は飲めないが、店には行ってみたいと言った。

 まだ名前も顔も知らない。

 それでも、その二人は数字ではなかった。

「ゼロやなくて、よかったな」

 博之は誰もいない部屋で、静かに笑った。

 二十九万二千円の売上よりも。

 四千八百人の登録者よりも。

 その夜は、二通のDMの方が、ずっと現実に近く感じられた。

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