2026年8月1週目。第15話 賽は投げられた。管理人さんに電話をした。SNSの配信で告知を出した
デモと懇親会へ参加してから、数日が過ぎた。
会社へ行く。
帰宅して、小説を書く。
YouTubeでライブ配信をする。
表面上は、それまでと何も変わらない日常だった。
それでも博之の頭の片隅には、春日の横丁にある六席の空きスナックが、ずっと居座り続けていた。
築五十年。
古い雑居ビルの三階。
土日だけなら、家賃は月三万円。
管理人から教えられた電話番号は、すでにスマートフォンへ登録してある。
電話を一本かけるだけだった。
「まだ空いてるか聞くだけや」
博之は、自分にそう言い聞かせた。
だが、発信ボタンを押すところまで指が進まない。
もし、すでに別の借り手が決まっていたら。
残念ではあるが、それで終わる。
自分には縁がなかった。
そう納得して、いつもの生活へ戻ればいい。
怖いのは、まだ空いていた場合だった。
店が空いていれば、次に決めなければならない。
もう一度見に行く。
保健所へ相談する。
設備を測る。
契約条件を詰める。
そして最後には、本当に金を出すかどうかを選ぶことになる。
「空いてなかったら、諦めつくんやけどな」
何度もスマートフォンを手に取った。
管理人の連絡先を開く。
画面を閉じる。
冷蔵庫の値段を調べる。
また連絡先を開く。
いつもの癖だった。
妄想は速い。
Excelも速い。
だが、相手のいる現実へ足を踏み入れる瞬間だけ、急に動きが遅くなる。
それでも、今回は不動産投資とは違う。
大きな融資を受けるわけではない。
信用取引のように、損失が際限なく広がる話でもない。
初期費用の上限は二十万円。
追加の借金はしない。
赤字が続けば撤退する。
そこまで決めた。
「結局、やってみな分からんねんな」
管理人のおっちゃんにも言われた。
コンセプトカフェのオーナーにも言われた。
偶然入ったバーの店主にも言われた。
そして、自分自身も、何度も同じ結論へ戻ってきた。
店を借りるかは、まだ決めなくてもいい。
だが、電話をかけなければ、店が空いているかどうかすら分からない。
「電話ぐらいせえよ、俺」
博之は一度深く息を吸い、発信ボタンを押した。
一回。
二回。
三回。
呼び出し音が鳴るたびに、切りたくなった。
「もしもし」
管理人の声がした。
「あ、すみません。この前、三階の店を見せてもらったものです」
「おお。兄ちゃんか」
名前を名乗り終える前に分かってもらえた。
「どうした?」
「あの店なんですけど」
「うん」
「まだ、空いてます?」
短い沈黙があった。
博之はスマートフォンを握り直した。
「兄ちゃん、まだ考えてたんか」
管理人が笑った。
「ずっと考えてましたよ」
「ずっとExcel触ってたんちゃうか」
「何で分かるんですか」
「兄ちゃん、そういう顔しとったからな」
電話の向こうで、管理人がまた笑う。
「安心せえ。まだ空いとる」
「そうですか」
「こんな時期に、あんな三階の店が急に決まるかいな。表からも見えへんのやぞ」
その言葉を聞いた瞬間、博之は安心した。
同時に、逃げ道が一つ消えた。
店は、まだ空いている。
「それで、どうするんや?」
「そこなんですけど」
「やるんか、やらんのか」
「やる方向で、もう一回ちゃんと見たいです」
口に出したあと、自分の言葉が少しだけ重く感じられた。
管理人は、しばらく何も言わなかった。
「ほんなら、段取り進めよか」
返ってきた声は、驚くほど普通だった。
「はい」
「やるんやったらやる。やらんのやったらやらん。それは兄ちゃんが決めたらええ。
ただ、中途半端に設備だけ買うのはやめとけよ」
「それは、まだ何も買ってません」
「それでええ。まず、もう一回来い」
博之は机の上に置いていたルーズリーフを引き寄せた。
「店の中、測らなあかんやろ」
「はい。冷蔵庫を置ける幅とか、流し台の寸法とか」
「入口と階段の幅も測っとけ。冷蔵庫買うても、三階まで上がらんかったら笑い話やぞ」
「ああ、それは見てなかったです」
「あと、保健所やな。カレー出すなら、どこを直せ言われるか分からん」
「営業許可が取れるか、先に相談します」
「店の名義や契約の条件も、オーナーと話さなあかん。土日だけいうても、好き勝手使ってええわけちゃうからな」
博之は、言われたことを一つずつ書いていった。
店内の採寸。
階段と入口の幅。
水道と流し台。
電気容量。
保健所への相談。
契約条件。
ゴミの処理。
設備を置く場所。
頭の中だけにあった店へ、急に細かな寸法と規則が入り込んできた。
「一応、自分でも必要なもののリストは作ってます」
「ほう」
「冷蔵庫、電子レンジ、IH、ホットクック。あと皿とか、掃除道具とか」
「最初から全部買うなよ」
「客が来る見込みと、保健所の話を聞いてからにします」
「だいぶ賢なったやん」
「最初がアホみたいな言い方せんといてください」
「カレー五百円で二十食言うてた兄ちゃんやろ」
「それは、もう七百円に上げました」
「まだ安い気もするけどな」
管理人の声には、少し笑いが混じっていた。
「それで、客は来そうなんか?」
「そこが一番不安なんですわ」
「ユーチューブに四千何百人おるんやろ?」
「登録してるだけで、店まで来るとは限らないですから」
「そらそうや」
「来たいって言う人が何人おるか、一回SNSで聞いてみようと思ってます」
「聞いたらええやん」
「誰も反応なかったら、結構へこみますよ」
「不安がなかったら、おもろないぞ」
「おっちゃんは、簡単に言いますね」
「簡単ちゃうわ。怖いからワクワクするんやろ」
管理人は、少し間を置いて続けた。
「絶対に儲かる。絶対に客が来る。そんな答えが分かってる商売があったら、みんなやっとる」
「まあ、そうですね」
「失敗するかもしれん。誰も来んかもしれん。それでも、ちょっとやってみたいと思うから始めるんや」
博之は、ルーズリーフに書いた項目を見た。
保健所。
採寸。
契約。
告知。
一つ一つは、地味な作業である。
それでも、数日前までの妄想とは違っていた。
「ただな、前にも言うたけど」
管理人の声が少し強くなった。
「安売りだけはすんなよ」
「またそれですか」
「兄ちゃん、自信ないから、すぐ値段下げるやろ」
「否定できません」
「安うしたら客が喜ぶと思ってる。でも、兄ちゃんがしんどなって店閉めたら、誰も喜ばんぞ」
「分かりました」
「まあ、また来る日を連絡して。オーナーにも話しとくわ」
「お願いします」
電話は十分ほどで終わった。
契約したわけではない。
家賃を払ったわけでもない。
保健所の許可が取れるとも決まっていない。
それでも電話を切った瞬間、胸の中にあった重さが少しだけ軽くなった。
一人で考えている間は、問題の大きさが分からない。
頭の中で何倍にも膨らむ。
だが、人と話してみれば、次にやるべきことは案外単純だった。
測る。
聞く。
確認する。
それから決める。
「次は、客やな」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その夜、博之はYouTubeのライブ配信を始めた。
いつものように、少しずつ視聴者が入ってくる。
同時接続の数字が一人、三人、五人と増えていった。
普段なら、ニュースや会社の愚痴、小説の進捗を話すところだった。
今日は違う。
「ちょっと報告があります」
コメント欄の動きが、わずかに止まった。
「前に、カレー屋をやるかもしれへんって話したと思うんですけど」
『あの空きスナック?』
『まだ考えてたんですか』
『本当にやるの?』
すぐに何件か反応が返ってきた。
「まだ契約はしてません。保健所の話もこれからです」
先に逃げ道を作るような言い方になった。
だが、今日はそれだけで終わらせなかった。
「ただ、やる方向で、もう一回店を見に行くことになりました」
口にした瞬間、自分の言葉が画面の向こうへ流れていく。
もう、頭の中だけの話ではない。
「名前は仮ですけど、『メンヘラオジサンの隠れ家』みたいな形で考えてます」
博之は、紙に書いておいた構想を読み上げた。
「仕事は辞めません。会社員は続けます」
「営業するとしたら、基本は土曜日の昼と夜、それから日曜日の昼です」
「日曜日の夜は、次の日の仕事もあるんで、予約が入った時だけにしようと思ってます」
昼はカレー。
コーヒー。
食べて帰るだけなら、食事代だけ。
残ってゆっくり話す場合は、時間に応じてチャージをもらう。
夜は、少人数で酒を飲みながら話せる場所にする。
酒をたくさん飲ませる店ではない。
豪華な料理を出す店でもない。
YouTubeや小説を見ている人が、現実で顔を合わせられる、小さな隠れ家。
「六席しかないです」
『本当に隠れ家やん』
『場所は茨木?』
『カレー食べたい』
『土曜なら行けるかも』
コメントが少しずつ増えた。
博之は、そこで一度息を吸った。
ここからが本題だった。
「実際に、来てみたい人っています?」
自分の声が、少しだけ硬くなる。
「今すぐ予約してくださいって話ではないです」
「ただ、興味あるとか、一回行ってみたいとか」
「コメントでも、いいねでも、DMでもいいんで、反応もらえたらありがたいです」
言い終えたあと、コメント欄を見た。
数秒、何も流れなかった。
実際には短い時間だった。
博之には、ずいぶん長く感じられた。
『近かったら行きたいです』
『大阪なので日が合えば』
『本当に開くなら一回行く』
『値段次第かな』
『行きたいけど遠い』
反応はあった。
だが、「必ず行きます」と断言する人ばかりではない。
場所が遠い。
予定が分からない。
値段を見て決めたい。
どれも、現実的な反応だった。
「まあ、そうよな」
博之は笑った。
「登録者四千八百人が、全員来るわけないですからね」
『来たら店に入らんやろ』
「六席しかないからな」
少し笑いが起き、博之の緊張も和らいだ。
配信を終えた時点で、明確に「行きたい」と書いた人は数人だった。
それは予約ではない。
売上でもない。
その日の勢いで書いただけかもしれない。
実際に営業日を告知すれば、誰も来ない可能性もある。
それでも、ゼロではなかった。
配信を終了し、博之はスマートフォンを机の上へ置いた。
管理人へ電話をした。
店をもう一度見る約束をした。
そして、YouTubeで構想を公にした。
契約書には、まだ署名していない。
金も一円も払っていない。
それなのに、もう数日前と同じ場所には戻れないような気がした。
これまでは、やるか、やらないかを考えていた。
これからは、やれる条件を一つずつ確認していく。
保健所へ聞く。
店を測る。
来たい人の反応を見る。
それらを終えたうえで、本当に始めるかを決める。
「賽は投げられた、か」
博之は独り言をつぶやいた。
少し大げさな表現かもしれない。
まだ賽を持った手を、卓上から離しただけとも言える。
それでも、少なくとも一つだけは確かだった。
もう、頭の中だけで転がしている賽ではない。
その時、机の上のスマートフォンが短く震えた。
ライブ配信を見ていた視聴者から、初めてのDMが届いていた。




