2006年8月1週目。第13話 数字では分からないもの。試算はしてみる。街宣で人が集まる様子を観察してくる。
前日の酒がようやく抜け始めた午後。
博之は、またノートパソコンの前に座っていた。
新しいバーと、虫の出たスナック。
二軒を見比べた結果、自分が作ろうとしている店の目的は、少しだけ見えてきた。
生活のすべてを背負う本格的な飲食店ではない。
かといって、赤字でも構わない暇つぶしの店でもない。
会社員を続けながら、小さく利益を出す。
発信を見てくれている人と、現実で会える場所を作る。
そして、自分の時間にも、わずかでも値段を付ける。
「目的は分かった。ほんなら、次は数字やな」
結局、またExcelだった。
博之は「週末カレー屋試算」のファイルを開き、新しいシートを追加した。
シート名は「強気シナリオ」。
「弱気ばっかり考えてても、しゃあないからな」
まずは昼営業から入力する。
土曜日と日曜日。
一か月に八回。
カレーは一日十食。
一食七百円。
十食掛ける七百円で、一日七千円。
月八回なら、五万六千円。
コーヒーを一日に五杯。
一杯二百円で、一日千円。
月八千円。
さらに、カレーを食べたあとも残り、博之と話す客が一日三人。
一時間千円のチャージを払ってくれると仮定する。
三千円掛ける八日で、二万四千円。
昼営業の月間売上は、八万八千円になった。
「昼だけで九万円弱か」
次は、土曜日の夜である。
基本料金は一人三千円。
一晩に八人が来る。
店の椅子は六脚しかないため、最初の客と遅い時間の客が入れ替わる想定だった。
一万八千円ではない。
八人掛ける三千円で、一晩二万四千円。
月四回なら、九万六千円。
さらに、そのうち六人が一時間延長する。
延長料金は二千円。
一晩一万二千円。
月四回で、四万八千円。
最後に、チップ。
「ここは、だいぶ読まれへんな」
五百円のチップを一枚だけ置く人もいる。
二千円、三千円と積んでくれる人もいるかもしれない。
逆に、チップが一枚も出ない日もある
それでも強気シナリオなので、月六万円と入力した
「一晩一万五千円のチップか。さすがに強気すぎるか?
セルを見ながら少し迷ったが、ひとまず残した
昼営業、八万八千円。
夜の基本料金、九万六千円。
延長料金、四万八千円。
チップ、六万円。
合計。
二十九万二千円。
「おお」
博之は思わず声を出した。
「売上だけなら、三十万円近いやん」
家賃三万円の六席の店で、月の売上が約三十万円。
数字だけを見ると、悪くない。
むしろ、会社員の週末副業としては、かなり立派に見えた。
だが、管理人のおっちゃんから言われたことを忘れてはいけない。
売上は答えではない。
最後に残る金が答えである。
カレーの材料費。
米。
肉。
野菜。
ルー。
コーヒー。
酒。
氷。
おしぼり。
紙ナプキン。
洗剤。
水道光熱費。
共益費。
細かな備品の買い替え。
予備費。
さらに、博之自身の給料として八万円を計上した。
経費と人件費を合わせて、十八万五千円。
二十九万二千円から十八万五千円を引く。
残る利益は、十万七千円。
「利益十万円か」
自分の給料八万円を取ったうえで、店にも十万七千円が残る。
これなら、冷蔵庫が壊れても買い替えられる。
少しずつ設備を増やすこともできる。
数か月続けば、最初に使った二十万円も回収できる。
「数字だけ見たら、めちゃくちゃええやん」
博之は椅子の背にもたれ、腕を組んだ。
しばらく画面を眺めたあと、声に出して尋ねた。
「ほんまか?」
誰も答えない。
Excelの数字も、何も答えなかった。
土曜日の昼に、カレーが十食売れる。
日曜日の昼にも、十食売れる。
毎回三人が店に残り、チャージを払ってくれる。
土曜日の夜には八人来る。
そのうち六人が延長する。
さらに、一晩一万五千円分のチップが積まれる。
「それ、誰が来るん?」
博之は画面に向かってつぶやいた。
Excelは、入力された数字を疑わない。
客数のセルへ十と入力すれば、十人来る。
八と入れれば、八人が三千円を払う。
延長率を七十五パーセントにすれば、六人が都合よく残ってくれる。
チップの欄へ六万円と入力すれば、何の疑問もなく売上へ加算される。
だが、現実の客はセルではない。
雨が降れば来ない。
体調が悪ければキャンセルする。
ライブ配信で「行きます」と書いたことすら忘れる。
最初の一回だけ来て、二度と戻らない人もいる。
「昼に十食も出るんかな」
強気シナリオの根本は、そこだった。
六席の店で十食売るには、一度だけではなく、客が入れ替わる必要がある。
しかも、古い雑居ビルの三階。
表通りから店内は見えない。
通りすがりの客は期待できない。
YouTubeや小説を知っている人が、わざわざ予定を空けて来なければならない。
「夜に八人も、毎週来るか?」
一回目は、物珍しさで来るかもしれない。
開店祝いのような気分で、チップも多く積まれるかもしれない。
だが、二回目は。
三か月後は。
半年後も、毎週八人が来るのか。
それはExcelでは分からなかった。
「結局、一番大事なところだけ計算でけへんねんな」
原価率は計算できる。
損益分岐点も出せる。
必要な客単価も分かる。
だが、何人が本当に店へ来るのかだけは、数字を入れる人間の願望になってしまう。
博之は強気シナリオを保存した。
消すことはしなかった。
うまくいった場合の形として、残しておく意味はある。
その代わり、シート名の後ろに一言加えた。
「強気シナリオ・根拠なし」
「これでええやろ」
パソコンを閉じる。
どこまで考えても、最後には客が来るかどうかへ戻ってくる。
考えれば考えるほど、現実の店から遠ざかっているような気さえした。
「ちょっと外出るか」
スマートフォンを見ると、大阪駅前で政治色の強いデモと演説が行われるという投稿が流れてきた。
何人かの有名人も参加するらしい。
博之は、その主張を熱心に支持しているわけではなかった。
反対側に立っているわけでもない。
ただ、有名な人を近くで見られるかもしれない。
そして何より、インターネットで呼びかけられた人間が、現実にどれほど集まるのかには興味があった。
「見に行くだけ行ってみるか」
また、いつもの言葉だった。
大阪駅前へ着くと、遠くからでも何かが行われていると分かった。
演説用の車。
大きなスピーカー。
何本もの旗。
歩道に並ぶ警察官。
スマートフォンを掲げる人。
足を止めて遠巻きに眺める人。
通り過ぎようとして、人混みに巻き込まれる人。
さまざまな人間が、一つの場所へ集まっていた。
「思ったより多いな」
正確に数えたわけではない。
だが、全体では千人近くいるように見えた。
もちろん、その千人全員が応援に来たわけではない。
熱心な支持者。
有名人を見に来た人。
配信をする人。
反対する人。
報道関係者。
博之のような野次馬。
同じ場所に立っていても、目的も熱量も違う。
人混みを避けながら横から見ようと思っていた博之だったが、少しずつ前へ進むうちに、
演説者の顔が見える位置まで来ていた。
「だいぶ前まで来てもうたな」
前方の二百人ほどは、明らかに熱量が違った。
演説が始まる前から旗を掲げている。
名前が呼ばれれば拍手をする。
登壇者が手を振ると、何人ものスマートフォンが一斉に上がる。
その中へ、博之は何食わぬ顔で紛れ込んだ。
「特等席やん」
演説者の表情まで見える。
テレビや動画で見る有名人が、実際に数十メートル先で話している。
やがて演説が始まった。
ほぼ同時に、少し離れた場所から、耳を突き刺すような大音量が響いてきた。
反対側の拡声器だった。
「うわっ」
演説をかき消そうとするほどの音量。
動画越しに聞いたことはあったが、現場の音はまるで違った。
声というより、空気の塊が身体へぶつかってくる。
胸の奥まで振動する。
何を言っているのかは、ほとんど聞き取れなかった。
演説側のスピーカーも音量を上げる。
双方の声が重なり、言葉より先に音だけが押し寄せてきた。
警察官が間に入り、人の流れを整理している。
それでも、前方にいる人たちは帰らなかった。
耳を押さえる人はいても、その場を離れない。
演説の言葉を聞き取ろうと、さらに前へ身体を傾ける。
「こういう感じなんやな」
博之は、話の内容よりも周囲の人間を見ていた。
どの言葉で拍手が起こるのか。
誰が最初に声を上げるのか。
一人が旗を振ると、周囲の旗も動き始める。
一人が拍手をすれば、少し遅れて後ろへ広がっていく。
最初から千人全員が、同じ熱量を持っているわけではない。
前方の二百人ほどが、場の空気を作っている。
その周りに、興味のある人が集まる。
さらに外側に、何をしているのか確かめたい人が立ち止まる。
そして、集まっている人を見て、別の人間がまた足を止める。
「千人いうても、千人が同じ客ちゃうんやな」
博之は、ふとExcelの客数を思い出した。
YouTubeの登録者四千八百人。
Xのフォロワー二千人。
小説の閲覧数四百五十万。
それらを見ている人間も、同じ熱量ではない。
毎回の配信へ来る人。
たまに見る人。
一度だけ動画を開いた人。
名前だけ知っている人。
応援している人。
面白半分で見ている人。
四千八百人が、そのまま四千八百人の客になるわけではない。
だが、その中に、前方の二百人に当たる人がいるかもしれない。
毎回ライブ配信へ来る十人。
コメントをくれる人。
スーパーチャットを送ってくれた人。
小説を何百話も追いかけている読者。
最初に店へ来るとすれば、その人たちだった。
「十人を四千八百人から集めるんやなくて、いつもの十人に来てもらうんか」
それなら、少し考え方が変わる。
広く宣伝して、見知らぬ客を何十人も呼ぶ必要はない。
まずは、すでに自分を知っている人へ声をかける。
そのうち三人が、本当に古いビルの三階まで来てくれる。
三人が楽しそうに座っていれば、四人目も入りやすい。
六席しかない店なら、最初から千人を集める必要などなかった。
必要なのは、最初の空気を作ってくれる数人だった。
「最初の一人というより、最初の三人ぐらいかもしれんな」
一人だけなら、博之と向かい合うだけになる。
二人なら、まだ少し緊張する。
三人いれば、客同士でも会話が生まれる。
店らしい空気ができる。
その三人が楽しそうなら、次に来た人も安心して椅子へ座れる。
演説は続いていた。
大きな拍手。
反対側からぶつけられる音。
何本も掲げられるスマートフォン。
その真ん中に立ちながら、博之は政治とは別のことを考えていた。
人は、数字だけでは動かない。
誰がそこにいるのか。
どんな空気が流れているのか。
自分も、その中へ入ってよいと思えるのか。
それを見て動く。
Excelでは、客数は一つのセルに入る。
十人は、ただの十という数字である。
だが現実の十人には、最初に来る人がいる。
その人に誘われて来る人がいる。
店の様子を見て、後から入る人がいる。
同じ十人でも、集まり方には順番がある。
「数字を入れる前に、誰に来てもらうか考えなあかんのやな」
強気シナリオでは、土曜日の昼に十人と入力した。
だが、本当に必要なのは、根拠のない十人ではない。
最初の空気を作ってくれる三人の名前だった。
博之は大音量の中でスマートフォンを取り出し、メモを開いた。
新しい行へ、短く入力する。
最初の三人は誰か。
答えは、まだ浮かばなかった。
それでも、十人という根拠のない数字を眺めている時より、現実へ一歩近づいた気がした。




