第9話 昨日の話を聞かせて
目が覚めたとき、枕元のノートから紙の角が出ていた。
澪は布団の中から手を伸ばした。
挟まれていたのは、文化祭のパンフレットだった。表紙に見覚えがあるような気もしたが、それがいつ見たものなのかはわからなかった。
携帯電話で日付を確かめる。
文化祭は、昨日だった。
今日は学校が休みだと、予定表にも書いてある。
澪は身体を起こし、パンフレットの挟まっていたページを開いた。
雨宮尚弥くん。二年二組、美術部。
その名前を見て、指が止まった。
続く文章を、一行ずつ読んでいく。
怒られた。怖かった。泣いて部屋を出た。
澪はノートを持ち直した。
自分の字だった。それでも、怒っていた顔も、声も浮かんではこなかった。
追いかけてきて、謝ってくれた。
今度は、最後まで話を聞いてくれた。
言葉が出るまで待ってくれた。
最後の一文だけ、行の間隔が少し狭かった。
あとから書き足したのだろう。昨日の自分は、これを伝えておきたかったらしい。
澪は先を読んだ。
駅の絵。ベンチに座る自分。一緒に回った、二年二組の出し物。
連絡先を交換したことまで書かれていた。
一緒に笑えた。
また会いたい。
読み終えて、膝の上にノートを置いた。
昨日、一日を過ごしたはずなのに、朝から順番に思い返すことができなかった。
絵の中にいる自分を、見てみたかった。そう思ってから、昨日は二度も見に行ったのだと気づいた。
パンフレットを広げる。
校内図に、小さな丸がついていた。そのそばの矢印は、先だけ少し曲がっている。
日記によれば、彼が描いたものだった。
澪は線を指先で辿った。
それから、携帯電話を取った。
会話の一覧に、雨宮尚弥という名前があった。
『雨宮です』
『日向です』
それだけだった。
澪は少し笑った。連絡先を交換したばかりなら、互いに誰だかわかっていただろうに。
どんな顔で、この挨拶を送ったのだろう。
昨日の自分のことより先に、相手の顔が気になった。
画面を閉じずに、しばらく眺めた。
会いたいと書かれているから、会わなければいけないわけではない。
けれど今、何も送らずに携帯電話を置くのは、少し寂しかった。
澪は文字を打ち始めた。
*
尚弥は、机の前で同じ文章を三度書き直していた。
『昨日はありがとう』
何に対しての礼なのか、これではわからないかもしれない。
絵を見に来てくれたことだと付け足すと、また昨日の話を押しつけている気がした。
消して、今度は『おはよう』だけにする。
それなら、何も困らせない。
けれど、それだけ送ってどうするのだろう。
携帯電話を机に伏せた。
横には、昨日持ち帰った額が立てかけてあった。
包装に使った紙を半分だけ外してある。絵の中の澪は、机の脚のほうを向いていた。
尚弥は額を持ち上げ、壁に沿わせて置き直した。
去年のように、裏返しにはしなかった。
携帯電話が震えた。
すぐに取るつもりはなかったのに、手が伸びた。
『おはよう。今日、少し話せる?』
尚弥は差出人を確かめ、もう一度文章を読んだ。
『話せる。今日は予定ないから』
今度は、消さずに送れた。
何通かやり取りをして、午後、風交駅で会うことになった。
場所を提案したのは尚弥だった。澪からは、道はわかるという返事が来た。
画面を閉じてから、尚弥は自分がまだ寝間着のままだと気づいた。
約束までは、ずいぶん時間があった。
*
駅へ続く坂を上りきる前に、尚弥は一度立ち止まった。
ベンチに人がいた。
澪だった。
制服ではなく、薄い色のカーディガンを着ている。膝の上に置いた鞄へ、ちょうど何かをしまうところだった。
尚弥が近づくと、顔を上げた。
「日向さん」
澪は一瞬、こちらを確かめるように見た。
「……雨宮くん」
名前を呼ぶまでの間は、ほんの少しだった。
それでも尚弥には、昨日の別れ際より長く感じられた。
わかっていたはずだった。
澪は昨日、何度も説明してくれた。
けれど、実際にその顔を見ると、胸の奥が少し痛んだ。
「待った?」
「ううん。少し早く着いただけ」
澪は鞄を持ち上げた。
尚弥は空いた場所を見た。
「ここ、いい?」
「うん」
端に寄りすぎないよう、腰を下ろす。
木が小さく軋んだ。
「休みの日に、ごめんね」
澪が言った。
「俺も、連絡しようと思ってたから」
「そうなの?」
「何て送ろうか、考えてて」
澪は携帯電話を鞄にしまいながら、こちらを見た。
「おはよう、でよかったのに」
「……うん。そうだよね」
尚弥は膝に両手を置いた。
会いたかった。連絡が来て、嬉しかった。
それなのに、会ってしまうと話題を一つ選ぶことさえ難しかった。
「今日は、いい天気だね」
澪が空を見上げた。
「うん」
「ちょっと風、冷たいけど」
「寒い?」
「まだ平気」
また黙った。
屋根の向こうで、鳥が短く鳴いた。
昨日の話なら、いくつもあった。
片づけのとき、看板を剥がした壁にテープが残って困ったこと。美術部の感想用紙に、ベンチの木目まで丁寧だと書いてあったこと。
けれど、どこから説明すればいいのか考えるうちに、口を開けなくなった。
「雨宮くん」
澪が鞄の持ち手から手を離した。
「昨日の話、してもいいよ」
尚弥は顔を向けた。
「でも、覚えてないことを言われたら、困るかなって」
「わからなかったら、聞くから」
澪は少し迷ってから続けた。
「何も話してもらえないほうが、ちょっと寂しい」
尚弥は口を閉じた。
「私が覚えてないから、話せることなくなっちゃったのかなって思うし」
「そんなことない」
慌てて答えると、澪は小さくうなずいた。
「だったら、聞きたい」
尚弥は息を吐いた。
間違えないようにと考えて、黙ってばかりいた。その沈黙で、澪をまた困らせていた。
「昨日の続きなんだけど」
澪がこちらを見る。
「あの二人、オムライス食べたんだって」
彼女は瞬きをした。
「……何の二人?」
尚弥は一度、言葉に詰まった。
それから、ベンチの上で座り直した。
「ごめん。そこからじゃ、わからないよね。昨日、俺のクラスで物語を読んで」
「あ、日記にあった。最後、ごはんを食べに行く話?」
「そう。それで、日向さんが何を食べたのか気になるって言ってたから。片づけのあと、書いた人に聞いた」
澪は少し身を乗り出した。
「本当に聞いてくれたんだ」
「うん。最初は、決めてないって言われた」
「え、じゃあ、オムライスは?」
「その人が、そのとき食べたかったもの」
澪が笑った。
「そこで決まったんだ」
「あと、スープもつくらしい」
「急に詳しい」
尚弥も笑った。
作者は看板を丸めながら、夕飯まで待てないとぼやいていた。その様子まで話すと、澪は膝の上で鞄を抱え直した。
「なんか、お腹空いてきた」
「昼、食べてない?」
「食べたよ。でも、その話聞いたら」
風で彼女の髪が頬にかかった。
澪は片手で押さえ、そのまま尚弥を見た。
「昨日の私、そこを気にしてたんだね」
「うん」
「でも、今聞いても気になる。ケチャップのほうかな。デミグラスかな」
尚弥は少し考えた。
「そこまで聞いてない」
「じゃあ、次の質問だね」
「増えてく……」
澪は笑ったあとで、首を振った。
「今のは、私が気になっただけ」
尚弥は彼女を見た。
昨日の話をしていたはずなのに、もう違う話になっていた。
*
遠くで犬が吠えた。
尚弥は顔を上げかけたが、澪の声に視線を戻した。
「今日ね、朝ごはんのパン、焦がしたの」
「パン?」
「焼いてる間に、携帯見てて」
尚弥は自分の携帯電話を思い浮かべた。
「……俺とやり取りしてたとき?」
「そのあと。何時に出ればいいかなって、調べてたら」
澪は指で四角を作った。
「端っこだけ、こんなふうに黒くなって」
「食べた?」
「焦げたところ、取った。すごく小さくなった」
尚弥が笑うと、澪は少し不満そうな顔をした。
「笑うところじゃないよ。足りなかったんだから」
「ごめん」
「でも、二枚目はちゃんと焼けた」
そこまで聞いて、尚弥はまた笑った。
澪もつられたように笑い、鞄から水筒を取り出した。
日記には載っていない、今朝の話だった。
澪は話す途中でノートを開かなかった。焦げたパンの大きさも、台所に残った匂いも、自分の言葉で話した。
尚弥は、彼女が話し終えるまで聞いていた。
「雨宮くんは、朝、何してた?」
水筒の蓋を閉めながら、澪が尋ねた。
「絵を置き直してた」
「昨日の?」
「うん。持って帰ったから。部屋の壁のところに」
「飾ったんだ」
「まだ、置いただけ。掛ける場所なくて」
澪はうなずいた。
「見えるところにある?」
「机から見える」
「そっか」
彼女は少し口元を緩めた。
尚弥は、自分の部屋にある絵を急に意識した。
毎日あの絵を見るのだと、本人に言ってしまった気がした。
「ほかにも、置いてるから。絵」
「うん」
澪はそれ以上聞かなかった。
その返事の仕方が、かえって気になった。
風が強くなり、澪がカーディガンの袖を引いた。
尚弥は携帯電話で時間を確かめた。
思っていたより、長く座っていた。
「そろそろ、帰ろうか」
「うん」
二人で立ち上がった。
澪が鞄の中を確かめている間に、尚弥はベンチに落ちた葉を手で払った。
「明日も、連絡していい?」
尋ねると、澪が顔を上げた。
「うん。……私からも、したい」
尚弥はうなずいた。
続けて、何時ならいいか聞こうとしてやめた。今すぐ次の約束まで決めなくてもよかった。
駅を出て、坂を下りる。
澪が先に、さっきのオムライスの話を始めた。
「私は、ケチャップのが好き」
「卵が薄いやつ?」
「そう。ちゃんと包んであるの」
「わかる。食べやすいし」
澪はこちらを見て、笑った。
尚弥はその隣を歩いた。
明日の彼女が今日を覚えていないことは、やっぱり寂しかった。
けれど今は、彼女が薄い卵に包まれたオムライスを好きだと知れたことが嬉しかった。




