↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
10/14

第10話 私を主役に

 朝、携帯電話を確かめることが増えた。


 尚弥から送る日も、澪から届く日もあった。

 挨拶だけで終わる朝もある。昼休みに返事が来て、話が続くこともあった。


 文化祭から数日が経ち、廊下の飾りはほとんどなくなっていた。

 壁に残ったテープの跡だけが、斜めから光を受けると白く見えた。


 その日の放課後、尚弥は美術室で鉛筆を削っていた。

 隣の机では、椎名が絵の具の蓋と格闘している。


「これ、開く?」


 差し出されたチューブを受け取り、蓋をひねった。

 少し力を入れると、固まった絵の具が剥がれる感触がした。


「開いた」

「助かった。買い直すところだった」

「そこまでじゃないと思う」


 返そうとしたところで、机の上の携帯電話が震えた。


『今日はヴァイオリンの練習をしてから帰るよ』


 澪からだった。

 尚弥は蓋を開けたチューブを椎名に渡し、画面を見直した。


 初めて駅で話した日にも、弾くと言っていた。

 けれど、ケースを持っているところさえ、まだ見たことがなかった。


『聴いてみたい』


 送ったあとで、練習の邪魔になるかもしれないと思った。

 断ってもいい、と付け足そうとしたとき、返事が来た。


『今から?』

『よければ』


 少し間が空いた。


『音楽室にいるよ。先生にも、一人聴きに来るって伝えておく』


 尚弥は削りかけの鉛筆を片づけた。

 刃物を戻し、机に落ちた削りかすを集める。


「もう帰るの?」


 椎名が尋ねた。


「音楽室、行ってくる」

「そっか。先生には言っておきなよ」


 尚弥はうなずいた。

 教室の奥にいた顧問へ声をかけ、鞄を持って廊下に出た。


     *


 音楽室の前まで来ると、短い音が二つ聞こえた。


 尚弥は扉を軽く叩いた。

 中で椅子が動き、澪が顔を出した。


「早かったね」

「まだ、準備中だった?」

「ううん。大丈夫」


 澪は扉を開け、尚弥を中へ入れた。


 窓際の机にケースが置かれていた。

 そのすぐ横に譜面台が立っている。並んだ椅子は普段の授業のままで、黒板には消し残された音符があった。


「今日は部活で使わないから、借りられたの。十七時まで」


 澪は壁の時計を見た。

 まだ三十分以上あった。


 尚弥は譜面台に近い椅子へ鞄を置こうとした。


「そこに座るの?」


 振り返ると、澪が弓を持ったまま立っていた。


「だめ?」

「だめじゃないけど……近くない?」

「じゃあ、後ろ?」

「そこまで離れなくても」


 尚弥は二列後ろへ移った。


「ここ?」

「うん」


 腰を下ろすと、澪は譜面台を少し動かした。

 また動かす。それから、尚弥を見た。


「やっぱり、顔が見えるね」

「見えないほうがいいんだ」

「見てると、気になるから」


 尚弥は視線を黒板へ向けた。

 澪が小さく笑う。


「そこまでしなくていいよ」

「難しいな」


 自分の絵を覗かれたときも、こんなふうに落ち着かなかった。

 いつも自然に絵の前へ立つ澪が、今は楽器を持つ手を何度も確かめている。

 その様子を見ていると、少しだけ緊張がほどけた。


「昔から弾いてる曲でいい?」

「うん」

「新しいのは、まだ途中だから」


 譜面には鉛筆の書き込みがあった。

 尚弥には読めなかったが、消した跡や、何度もなぞられた丸が見えた。


「小さい頃に習ったの。これは、今も弾けるから」


 澪はそう言って、ヴァイオリンを構えた。


     *


 最初の音が出たとき、尚弥は椅子の背から身体を離した。


 思っていたより、近くに響いた。

 二列離れていても、弓が弦に触れるかすかな音まで聞こえた。


 澪の目は、もう尚弥を見ていなかった。

 譜面へ向けられた横顔が、さっきまでと違って見えた。唇を軽く結び、左手の指を細かく動かしている。


 尚弥は膝に手を置いた。

 曲の名前は知らなかった。

 聞き覚えがあるのかどうかも、すぐには判断できなかった。


 高く伸びた音が、ゆっくり下りてくる。

 一つの音が終わる前に、次の音へ繋がった。

 澪は息を吐き、弓を返した。


 その動きを、尚弥は目で追った。

 髪を押さえる手や、ノートを持つ指とは違う動きだった。

 まだ知らない彼女の姿が、こんなに近くにあった。


 途中で、一つだけ音が揺れた。

 澪の眉が寄る。

 けれど、弓は止まらなかった。


 少し強く響いた音のあとに、静かな旋律が続いた。

 尚弥は、さっきの失敗がどこだったか考えるのをやめた。

 次にどんな音が来るのか、聴いていたかった。


 終わりが近づいたのは、澪の動きでわかった。

 弓がゆっくり進み、最後の音が細くなった。


 澪はしばらく構えを解かなかった。

 尚弥も動かなかった。


 楽器が肩から下ろされて、ようやく手を叩いた。

 誰もいない音楽室で、一人分の拍手がやけに大きく聞こえた。


「……ありがとう」


 澪は照れたように譜面へ目を落とした。


「今の、失敗したのわかった?」


 尚弥は手を止めた。


「一か所だけ」

「そこは、わからなかったって言ってよ」

「聞かれたから」


 澪は困ったように笑った。

 尚弥は少し考えてから続けた。


「でも、そのあとの音、好きだった」

「あと?」

「静かになったところ。終わるのかと思ったら、また続いて……そこ」


 澪は譜面を見た。

 指で一段辿り、楽器をもう一度構える。


「ここ?」


 短い旋律が流れた。

 尚弥はうなずいた。


「うん。それ」


 澪は弓を下ろした。


「私も、そこ好き」


 その返事が嬉しかった。

 上手く説明できなかったのに、どこを聴いていたのかは伝わったらしかった。


「最初から、もう一回弾いてもいい?」

「聴いてていいの?」

「うん。今度は、さっきのところ失敗しないように」


 尚弥は鞄を足元へ寄せた。

 澪が譜面の位置を直す間、窓の外を見た。

 校庭を走る生徒たちの声は、ここからだと小さかった。


 もう一度、最初の音が鳴った。

 今度は、顔を向けるのをためらわなかった。


     *


 片づけを始めた頃には、窓際の床が夕日の色になっていた。


 尚弥は借りた椅子を元の位置に戻した。

 澪は柔らかい布で楽器を拭き、ケースに収めている。


「聴くほう、疲れなかった?」

「座ってただけだし」

「そういう意味じゃなくて」


 尚弥は鞄を持ち上げた。


「また聴きたい」


 澪の手が止まった。


「……そっか」


 彼女は楽譜を揃えた。

 角を合わせてから、もう一度机に軽く当てる。


「あのね、雨宮くん」

「うん」


 澪は楽譜を鞄へ入れた。

 それでも、こちらを見なかった。


「尚弥くんって、呼んでもいい?」


 尚弥は鞄の持ち手を握り直した。


「……俺?」


 聞き返してから、ほかに誰がいるのだと思った。

 澪がようやく顔を上げた。


「うん。ほかに尚弥くん、いないし」

「そうだけど」


 自分の名前が、いつもと違って聞こえた。

 返事をしなければと思うほど、うまく声が出なかった。


「嫌だった?」

「嫌じゃない」


 そこだけは、すぐに答えられた。


「じゃあ……俺も、澪って呼んでいい?」


 今度は澪が黙った。

 尚弥は、急に部屋が暑くなった気がした。


「うん」


 小さな返事があった。


「呼んで」


 尚弥は口を開きかけて、閉じた。

 用もないのに名前だけ呼ぶのは、思っていたより難しかった。


 澪がケースの蓋を閉めた。


「……尚弥くん、そこの楽譜、取ってもらっていい?」


 机の端に、一枚残っていた。

 尚弥はそれを取り、差し出した。


「これ?」

「うん。ありがとう」


 名前を呼ばれて振り向くだけのことが、こんなに落ち着かないとは知らなかった。

 澪は楽譜をしまい、ケースを持ち上げた。


「行こうか」


 尚弥はうなずき、扉を開けた。


     *


 職員室に鍵を返し、昇降口へ向かった。

 廊下にはもう、帰り支度をする生徒が少ししかいなかった。


 澪は楽器のケースを身体に寄せ、すれ違う人を避けて歩いた。

 尚弥もその横で歩幅を緩めた。


「雨宮……」


 呼びかけた澪が口を止めた。


「……尚弥くん」


 言い直された名前に、尚弥は顔を向けた。


「まだ、慣れないね」

「俺も」

「一回も呼んでないけど」


 尚弥は前を向いた。

 澪が少し笑った。


「急がなくていいよ」


 階段を下り、靴を履き替えた。

 外に出ると、空気がひんやりしていた。


 校門へ向かう途中で、澪が歩く速さを落とした。


「また今度、私の絵を描いてもらってもいい?」


 尚弥は隣を見た。


「この前、描いたけど」

「うん。でも、今度は私を主役にしてほしい」


 言ってから、澪は少し目を逸らした。


「駅の絵の中にいる私じゃなくて。……私の絵」


 尚弥は足を止めた。

 澪も半歩先で止まり、振り返った。


 人物だけの絵を描いたことがないわけではなかった。

 部活で互いにモデルになったこともある。

 けれど、澪を一枚の絵の主役にすると考えた途端、ただ似せて描けばいいとは思えなくなった。


 さっき楽器を構えていた顔も、名前を呼ぶ前に目を逸らした顔も、もう一度よく見たいと思った。


「だめ?」


 尚弥は首を振った。


「だめじゃない。ただ……時間、かかると思う」

「うん」

「一回で描き終わらないかもしれないし」

「うん」


 澪はケースの持ち手を握り直した。


「描いてほしい。尚弥くんに」


 尚弥は、その顔を見た。

 冗談ではなかった。何かに気を遣って言っているようにも見えなかった。


「……描きたい」


 答えると、澪の表情がほどけた。


「じゃあ、お願い」


 尚弥はうなずいた。

 どんな紙に描くか、どこで描くか。考えることはいくつもあった。

 けれど、今すぐ決めるより先に伝えたいことがあった。


「澪」


 彼女が顔を上げた。

 呼んだ自分のほうが驚いて、尚弥は少し言葉に詰まった。


「今日は、聴かせてくれてありがとう」


 澪は目を伏せ、口元を緩めた。


「どういたしまして」


 それから二人で、また歩き始めた。


     *


 帰宅して鞄を下ろすと、尚弥はスケッチブックを机に置いた。


 駅の絵が、壁際に立てかけてある。

 あの中の澪を大きく描くだけでは、違う気がした。


 白いページを開く。

 紙の端に小さな枠を描き、その中に顔の位置だけ丸で置いた。

 正面か、少し横を向いているほうがいいか。

 考えていると、ヴァイオリンを構えた横顔が浮かんだ。


 携帯電話が震えた。


『今日は聴いてくれてありがとう、尚弥くん』


 尚弥は画面を見た。

 音楽室でも呼ばれた名前なのに、文字になっていると、また違って感じられた。


 返事を打つ前に、もう一度読んだ。


『こちらこそ。絵のこと、少し考えてる』


 送ると、ほどなく返事が来た。


『楽しみにしてるね』


 尚弥は携帯電話を机の隅へ置いた。

 鉛筆を持ち直し、さっき描いた枠の隣に、もう一つ枠を描いた。


 今度は、澪を描くための絵だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。