第11話 君の好きな花
椅子を窓から少し離したところで、尚弥は手を止めた。
近すぎると眩しいだろうか。
けれど、離すと顔の片側が暗くなる。
自分で座って窓のほうを向いてみたが、ここからでは、描くときにどう見えるのかわからなかった。
「モデル、来てからでいいんじゃない?」
向かいの机で筆を洗っていた椎名が言った。
尚弥は立ち上がり、椅子の位置をもう少しだけ直した。
「そうする」
「今、動かしたけど」
聞こえなかったふりをして、机の上に紙を並べた。
昨日の夜に考えた構図は、どれもまだ小さな枠の中にあった。
鉛筆と、消しゴム。下敷きにする画板。
顧問には、今日も一年生にモデルを頼んでいると伝えてある。
扉の向こうで足音が止まった。
「こんにちは」
尚弥は顔を上げた。
澪が入口に立っていた。
椎名が軽く手を上げる。
澪は会釈を返してから、尚弥の机へ歩いてきた。
「……尚弥くん」
呼び終えると、少し困ったように笑った。
「日記に書いてあっても、呼ぶのはちょっと恥ずかしいね」
尚弥は持っていた鉛筆を置いた。
昨日の音楽室で言われた名前を思い出す。あのときと、少し違う声だった。
「俺も、まだ慣れない」
澪は机の上を見た。
「今日、ここに座ればいい?」
「うん。澪は、眩しくない?」
名前を挟んだところで、妙に口が乾いた。
澪は椅子へ腰を下ろし、窓に顔を向けた。
「平気。ちょうどいいよ」
尚弥はうなずいた。
自分の椅子へ戻ると、椎名が筆洗いの水を替えに立った。
視線が合いそうになり、尚弥は手元へ目を落とした。
*
「今日は、どんな絵になるの?」
澪が鞄を足元に置きながら尋ねた。
「まだ、決めてない。まず、何枚か描いてみようと思って」
「練習?」
「そう。顔とか、手とか。どんなふうに座ってもらうかも、試したい」
澪は自分の手を見下ろした。
膝に揃え、それから片方をもう片方に重ねる。
「手って、気にすると変になるね」
「楽な置き方でいいよ」
「それがわからなくなってる」
尚弥は笑いかけて、鉛筆を持ち直した。
「途中で変えてもいいから」
澪は重ねていた手を離し、膝に置いた。
尚弥は紙の端に、頭と肩の位置を薄く取った。
顔を上げる。
澪と目が合った。
紙へ戻し、顎の線を一本引く。
もう一度顔を上げると、やはりこちらを見ていた。
「私、どこ見てればいい?」
「好きなところでいいよ」
「じゃあ、尚弥くん」
鉛筆が止まった。
「……それは、描きにくい」
「好きなところって言ったのに」
澪は少し口を尖らせ、それから窓辺の石膏像へ目を向けた。
「あの人ならいい?」
「うん」
「あの人、ずっと同じ顔できて、えらいね」
尚弥は下を向いたまま笑った。
力が入りすぎていた鉛筆を、少し短く持ち直した。
前髪の下の額。頬から顎へ続く線。
駅の絵では、ほんの数本で描いていたところだった。
少し角度が変わるだけで、澪の顔は違って見えた。
一本ずつ確かめながら描いていると、いつの間にか会話がなくなった。
教室の奥で、水を捨てる音がした。
別の机では、紙を切る音が続いている。
尚弥は顔を上げた。
澪はまだ石膏像を見ていたが、肩が少し上がっていた。
「一回、休もうか」
彼女はゆっくりこちらを向いた。
「もう動いていい?」
「動いてよかったのに」
「すごく真剣だったから」
澪が肩を回した。
尚弥は壁の時計を見た。思っていたより時間が経っていた。
「ごめん。次は、もう少し早く声かける」
澪は腕を下ろし、机のほうへ身を寄せた。
「見てもいい?」
尚弥は紙を外し、彼女のほうへ向けた。
まだ、顔と肩の線しかなかった。
澪はしばらく眺めてから、自分の頬に指を添えた。
「自分の横顔って、あんまり見ないね」
「鏡だと、見ようとすると動くから」
「そう。こっちを見ちゃう」
澪は紙から顔を上げた。
「私、こんな顔して座ってたんだ」
尚弥は彼女の見ていたところを確かめた。
少しだけ緊張した口元が、紙に残っていた。
*
「完成した絵は、どんなのがいい?」
尚弥は昨日の構図を描いたページを開いた。
並んだ枠を見せると、澪は椅子を近づけた。
「きれいに描いてほしい」
「……頑張る」
「そんなに困らなくても」
尚弥が顔を上げると、澪は笑っていた。
「冗談。ちゃんと私ってわかればいいよ」
彼女は、小さな枠の一つを指した。
「これは、何を持ってるの?」
「ヴァイオリン。昨日、聴かせてもらったから」
澪は紙へ目を近づけた。
「言われると、そう見える」
「自分でわかればいいと思って描いたから」
「これは?」
「椅子の背」
「あ、人の腕かと思った」
尚弥は鉛筆で線を足した。
澪が隣で、その先を目で追った。
「好きなものが入ってるの、いいね」
彼女が言った。
「顔だけじゃなくて、私が何を好きなのかも、見たらわかるような絵」
尚弥は鉛筆を止めた。
絵の中に何を置くか、自分だけで考えていた。
「ほかには、何が好き?」
「食べ物でもいい?」
「描けるけど」
澪は少し考え、首を振った。
「お腹空く絵になりそう」
尚弥が笑うと、彼女も笑った。
「あとは……花かな。勿忘草が好き」
「青い、小さい花?」
「うん。一つずつ見ると小さいんだけど、集まって咲いてると、そこだけ青くなってて。しゃがんで見るの、好きだった」
話しながら、澪は机に目を落とした。
そこに花があるような目の向け方だった。
「小さい頃、家で育ててたの」
尚弥は、紙の端に花の名前を書いた。
どんな花かは知っていたが、正確な形を描けるほどではなかった。
「今度、写真とか見せてもらえる?」
「探してみる」
澪はスケッチブックを見た。
「尚弥くんも、花、描く?」
「少し。夏に描いたのがある」
尚弥は前のページをめくった。
ハマユウの習作があった。
花の全体を描いたものと、細い花びらを近くから見たもの。横からの形を確かめた線も、同じページに残っている。
初めて駅で会った日、風でこのページが開いた。
そのときのことを思い出したが、尚弥はまず、花を指した。
「ハマユウっていう花」
澪は紙を覗いた。
「白いの?」
「うん」
「花びら、細いね」
尚弥はうなずいた。
「風が吹くと、先のほうが揺れるんだ。それを描きたかったんだけど、見てる間にも向きが変わるから」
「だから、何個も描いてあるんだ」
「うん。結局、どれもちょっと違った」
澪はページの隅まで見た。
「好きなんだね、この花」
尚弥は少し照れて、鉛筆の先へ目を落とした。
「……好きだよ」
澪はもう一度、花の絵を見た。
それから、紙に触れないように指を止めた。
「じゃあ、その花と一緒に描いてほしい」
尚弥は顔を上げた。
「勿忘草じゃなくて?」
「勿忘草も好きだけど……尚弥くんの好きなものも、入ってたら嬉しい」
澪は言い終えると、指を引っ込めた。
「私ばっかりじゃなくて。二人で考えたって、わかるから」
尚弥は花のページを見た。
一人で描いていたときには、澪を隣に描くことになるなんて思っていなかった。
「花、今は季節的に持ってこられないけど」
「そうなんだ」
「うん。今日は、この絵で形を考えるだけでもいい?」
澪はうなずいた。
「どこに入れたらいいかな」
尚弥は新しい紙を二人の間に置いた。
大きめの枠を描き、顔の位置を取る。
その横へ、花を細い線で置いてみた。
「こっちだと、顔にかかるね」
澪が首を傾けた。
「少し下げる?」
「うん。そのくらい」
尚弥は位置を変え、もう一つ、小さな枠に別の配置を試した。
人物も花も、今はまだ丸と線だけだった。
けれど澪は、どちらの絵も長いこと見比べていた。
*
もう少し描かせてもらうことにして、澪に元の椅子へ戻ってもらった。
「今度は、少しだけこっち向いて」
「これくらい?」
「うん。あ、肩はそのままで」
尚弥は新しい紙に向かった。
描き始める前に消しゴムを取ろうとして、指の先で押してしまった。
机の端から落ちた消しゴムが、椅子の脚に当たって跳ねた。
「あ」
慌てて手を伸ばしたが、もうそこにはなかった。
床を探すと、自分の靴の先に乗っていた。
「止めた」
澪が言った。
尚弥は消しゴムを拾い、机へ戻した。
「偶然」
「ちょっと上手だった」
顔を上げると、澪が笑っていた。
さっきまで気にしていた肩も、手の位置も、そのときは自然だった。
尚弥は鉛筆を動かした。
口元の線を、短く引く。目の形を確かめようとして、澪と視線が合った。
「まだ、笑ってる?」
「……少し」
澪は唇を結ぼうとして、また笑った。
尚弥もつられて下を向いた。
鉛筆の先が、紙から一度離れた。
静かな顔も描いておきたくて、そのあともう一枚頼んだ。
途中で澪が窓の外の鳥に気を取られ、尚弥も顔を上げた。
枝にはもう何もいなかった。
時計を確かめたところで、その日の作業を終えることにした。
椎名は先に帰っていた。
教室に残った部員たちも、道具をしまい始めている。
尚弥は紙を机へ並べ、澪と一緒に見た。
「どれも、まだ途中だけど」
髪の影も、服の細かいところも入っていない。
描き直した線が、そのまま残っているものもあった。
澪は端から順に見て、三枚目で止まった。
「この顔がいい」
消しゴムを落としたあとに描いたものだった。
尚弥は紙を手前へ寄せた。
「こっちのほうが、形は取れてると思うけど」
最初の一枚を示すと、澪は見比べた。
「そうなのかもしれないけど。こっちの私、楽しそう」
尚弥は三枚目を見た。
笑ったときの頬と、少し細くなった目。
あの表情を、全部は描き取れていなかった。それでも、澪はそこに自分を見つけていた。
「消しゴム落としたときの顔だけど」
「じゃあ、笑ってる理由は内緒にしておこう」
澪は口元へ指を当てた。
尚弥は笑って、紙の裏に日付を書いた。
その一枚を、花の配置を試した紙と並べる。
まだ、そのまま一つの絵にはできなかった。
顔の向きも、花の大きさも、もう少し考えたかった。
「また、描かせてもらっていい?」
尚弥が尋ねると、澪は鞄を持ち上げた。
「うん。次は、消しゴム落とさなくても笑うよ」
「落とすつもりで落としたんじゃないから」
澪は笑いながら、椅子を元の場所へ運んだ。
尚弥は紙を重ねかけて、三枚目だけもう一度見た。
少し乱れた線は、今日は消さずにおいた。
まっすぐに揃え、折れないように画板へ挟む。
いちばん上には、二人で花の位置を考えた紙を重ねた。




