第12話 用事がなくても
ハマユウの花びらに色をつけようとして、尚弥は筆を止めた。
机には、小さな紙が何枚か並んでいた。
白いところを残して周りに薄く色を塗ったものと、鉛筆だけで影をつけたもの。どちらも、思っていた花にはならなかった。
水を含んだ紙の端が、少し反っている。
もっと違う紙なら、試せることがあるかもしれない。
尚弥は筆を洗い、携帯電話を取った。
『今度、画材を見に行くんだけど』
そこまで打って、止まった。
澪の絵に使うものを選びたい。だから、一緒に来てもらいたい。
理由としては、それでいいはずだった。
けれど、紙を選ぶだけなら、一人でもできた。
尚弥は画面から目を上げた。
壁際の駅の絵が見える。
澪と美術室で過ごした時間を思い出すと、画材店の棚を見て何と言うだろう、と考えてしまった。
『一緒に行かない?』
続けて打ち、送った。
返事を待つ間に机を片づけたが、紙を重ねたところでまた画面を見た。
『行きたい。いつ?』
尚弥は椅子へ座り直した。
次の土曜日に予定を合わせ、学校の最寄り駅で待ち合わせることになった。
時間を決め終えてから、尚弥は部屋のハンガーを見た。
制服の隣に、普段着の上着が掛かっている。
何を着ていけばいいのか考え始めたところで、今日はまだ水曜日だと思い直した。
*
土曜日、尚弥は待ち合わせの十五分前に駅へ着いた。
画材店へは、ここから二駅先で降りる。
電車の時刻は調べてあった。店までの道も知っている。
それなのに、改札の横で携帯電話を何度も確かめた。
「尚弥くん」
声のしたほうへ顔を上げた。
澪が片手を上げていた。淡い色のニットに、長めのスカートを合わせている。
髪は片側だけ耳にかけ、小さな留め具で留めてあった。
「おはよう」
「おはよう。待った?」
「今、来たところ」
そう答えてから、尚弥は時計を見ないようにした。
澪は彼の上着に目を向けた。
「その色、似合うね」
尚弥は自分の袖を見た。
結局、何度か着たことのある紺色の上着にしていた。
「……ありがとう」
澪にも何か言おうとした。
髪も、服も、いつもと違う。それが嬉しくて見ていたのに、どこから口にすればいいのかわからなかった。
「澪も、その……髪」
彼女が耳元に触れた。
「変?」
「似合ってる」
澪の指が止まった。
「そっか。よかった」
それから二人とも、少し黙った。
次の電車を知らせる表示が切り替わり、尚弥はようやく改札を指した。
「行こうか」
*
画材店は、大通りから一本入ったところにあった。
ガラス戸を開けると、澪は入口のところで足を止めた。
壁一面に並んだ絵の具と、太さの違う筆を見上げている。
「こんなにあるんだ」
「奥は、もっとある」
「全部、使い方違うの?」
「似てるのもあるよ。メーカーが違うだけとか」
尚弥は紙の売り場へ向かった。
澪が隣に並び、見本の端に指を添える。
「これ、触ってもいいの?」
「見本は大丈夫」
澪は二種類の紙を、指先で交互に撫でた。
「こっちは、ざらざらしてる」
「俺、細かいところを描くなら、もう少し滑らかなほうが描きやすいんだ。でも、水を使うと、いつもの紙だとちょっと」
「昨日も、絵を描いてた?」
「花の色を試してた。まだ、本番には決めてないけど」
澪は尚弥の手元を見た。
「ハマユウ?」
「うん。白い花だから、周りの色も考えないと、どこが花びらかわからなくなって」
尚弥は見本帳を開いた。
同じような色の紙でも、少しずつ白さが違う。
家で使っている紙に近いものを示し、別の見本を隣に置いた。
「これなら、鉛筆の線も残せそうで。あと、薄く色を重ねたときに……」
説明しながら顔を上げると、澪がこちらを見ていた。
「何?」
「尚弥くん、好きなものの話だと、いっぱい話すね」
見本帳を持つ手が止まった。
「……ごめん」
「どうして謝るの?」
「つまらないかなって」
「面白いよ。同じ白に見えてたのに、今は違って見えるし」
澪は二枚の紙を見比べた。
「もっと聞きたい」
尚弥は、伏せかけた見本帳を開き直した。
「じゃあ、こっちも見てみる?」
澪が頷き、棚へ一歩近づいた。
肩が触れそうになり、尚弥は見本を少し横へずらして、二人で見える位置にした。
試し描き用の小さな紙を選んだあと、筆の売り場へ移った。
細い筆を一本持ち上げ、値段を確かめる。
隣には、その筆で描いたという作品見本が置かれていた。
淡い色の重なった花だった。
花びらの端まで、線を引かずに形がわかる。
尚弥はしばらく見てから、筆を棚へ戻しかけた。
「買わないの?」
澪が尋ねた。
「まだ、俺には早いかな」
「難しい筆?」
「そういうわけじゃないけど。使いこなせるか、わからないし」
澪は作品見本を見た。
それから尚弥の持つ筆へ目を戻した。
「試してみたいと思ったんでしょ?」
尚弥は指先で軸を回した。
「……うん」
「じゃあ、試した絵も見たい」
それ以上、澪は何も言わなかった。
棚の前で待っている。
尚弥はもう一度値段を見た。今日持ってきたお金で、紙と一緒に買える。
見本と同じようには描けないだろう。
けれど、家で描きかけた花の続きを、この筆で試してみたいとは思った。
「買ってみる」
選んだ紙の上に筆を載せた。
澪は頷き、レジの場所を探すように店内を見回した。
*
店を出ると、通りには昼食へ向かう人が増えていた。
尚弥は紙袋を持ち替えた。
買い物だけなら、もう終わりだった。
駅まで戻る道を考えたが、まだ改札へ向かいたくなかった。
「お腹、空いてる?」
尋ねると、澪が顔を上げた。
「少し」
「何か食べていかない?」
「うん。尚弥くんは、何がいい?」
決めていなかった。
近くの店を調べておけばよかったと思いながら歩くと、角に小さな洋食店があった。
外に出たメニューを見て、澪が立ち止まる。
「オムライス、ある」
写真の卵は薄く、きれいにごはんを包んでいた。
尚弥は、風交駅から帰った日の会話を思い出した。
「ここにする?」
「いい?」
「俺も食べたい」
店内の二人掛けの席に案内された。
画材の袋を足元へ置き、向かい合って座る。
澪はメニューを開いたまま、しばらく動かなかった。
「決まったんじゃなかった?」
「決まってたけど、ハンバーグもある」
尚弥もメニューを覗いた。
どちらにも小さなスープがついていた。
「また来たとき、そっちにすれば」
何気なく言ってから、尚弥は目を上げた。
澪がこちらを見ていた。
「……そうだね」
彼女はメニューを閉じた。
「今日はオムライスにする」
尚弥も同じものを頼んだ。
料理が来るまで、店の窓から通りを眺めた。
澪は向かいのパン屋を見つけ、あの看板のパンは大きすぎないかと言った。
尚弥が看板だからだと答えると、わかってるよ、と返ってきた。
オムライスが運ばれてくると、澪は話を途中でやめた。
スプーンを取り、まず端を小さくすくった。
「熱い?」
尚弥が聞くと、澪は口元を押さえて頷いた。
飲み込んでから、水を一口飲む。
「見た目より熱かった」
「湯気、出てるけど」
「早く食べたかったの」
尚弥は自分の皿へスプーンを入れた。
慎重に冷ましてから食べると、向かいで澪が笑った。
「私のおかげだね」
「そうだね」
食べ始めると、澪は思ったよりゆっくりだった。
一口食べては、画材店で見た色の名前や、並んでいた大きな紙の話をする。
尚弥も手を止めて答えた。
残りが少なくなった頃、澪が尚弥の皿を見た。
「待ってくれてる?」
「話してたから」
「冷めちゃうよ」
「もう、熱くはない」
澪は自分の皿へ目を戻した。
「私のも」
二人で残りを食べた。
最初ほど熱くなくても、卵とごはんを一緒にすくうと、ちゃんとおいしかった。
*
店を出たところで、尚弥は駅の方向を見た。
昼を少し過ぎたばかりだった。
「駅、こっちだから」
そう言うと、澪は一度そちらを見た。
けれど歩き出さず、反対側の通りへ視線を移した。
「時間、大丈夫なら、もう少し見ていかない?」
彼女が指した先には、文房具や小物を並べた店があった。
店先で、何色もの布の袋が揺れている。
「大丈夫」
尚弥はすぐに答えた。
澪が顔を向けると、少し遅れて付け足した。
「今日は、ほかに用事ないから」
二人で通りを渡った。
小さな店の中で、澪はポストカードを一枚ずつ見た。
尚弥は隣の棚の鉛筆に目を留めた。軸に小さな鳥が並んで描かれている。
「また鉛筆見てる」
澪に言われ、手を引っ込めた。
「見てただけ」
「好きなの、よくわかった」
彼女は笑い、手にしたポストカードを見せた。
黄色いレインコートを着た犬の絵だった。
「この顔、よくない?」
犬は不満そうに、横を向いていた。
「散歩、嫌なのかな」
「雨が嫌なのかも」
澪は隣の柄も見せた。
同じ犬が、今度は水たまりに足を入れていた。
「楽しんでるじゃん」
尚弥が言うと、澪は二枚を見比べて笑った。
結局、彼女はレインコートのほうを買った。
使う予定はないけれど、机に置きたいと言った。
尚弥の買い物は、さっき終わっていた。
今は、澪が選ぶのを見ているだけだった。
それでも、時間を確かめる気にはならなかった。
*
帰りの電車は、行きより混んでいた。
二人は扉のそばに立った。
尚弥は紙袋を身体に寄せ、澪の持つ小さな袋が潰れないよう、少し横へずれた。
「今日、付き合ってくれてありがとう」
電車の音の合間に言うと、澪が顔を上げた。
「私も、付き合ってもらったよ」
小さな袋を持ち上げる。
尚弥は頷いた。
「あの犬?」
「うん。家に帰ったら、飾る場所決める」
電車が減速し、澪が手すりを握り直した。
尚弥も足を踏ん張った。
待ち合わせた駅へ戻り、改札を出た。
澪はここから歩いて帰る。尚弥は彼女を見送ったあと、もう一度改札へ入るつもりだった。
「試した絵、できたら見せる」
尚弥は画材の袋を軽く持ち上げた。
「うん。楽しみにしてる」
澪は鞄の肩紐を直した。
一度足元へ目を落とし、それから尚弥を見た。
「次は、絵の用事がなくても誘ってね」
尚弥は返事をしようとして、口を開いたまま止まった。
澪は少し笑った。
「今日みたいに、お昼食べるだけでも」
「……うん。誘う」
ようやく答えると、澪は頷いた。
「じゃあ、またね」
歩き出した彼女を、尚弥はしばらく見送った。
途中で澪が振り返り、小さく手を上げた。尚弥も空いているほうの手を上げた。
姿が見えなくなってから、改札へ向き直った。
今日のことを、デートと呼んでいいのだろうか。
考えただけで落ち着かなくなり、尚弥は紙袋を持ち直した。
次は、絵の用事がなくても。
まずはあの店で、澪が迷っていたハンバーグを食べるのもいい。
そのあとに寄れる場所は、何があっただろう。
帰りの電車を待ちながら、尚弥は携帯電話の地図を開いた。




