第13話 明日も
机の上で、知らない犬がこちらを見ていた。
黄色いレインコートを着て、少し不満そうに横を向いている。
澪は椅子を引き、立てかけられたポストカードを手に取った。裏には何も書かれていなかった。
枕元から持ってきた日記を開く。
昨日の日付の下には、いつもより長い文章が続いていた。
尚弥くんと画材を買いに行った。
同じ白でも、紙によって色が違うと教えてもらった。
続きを読みながら、澪はカードを机へ戻した。
これを買った店のことも書いてある。
二枚で迷って、レインコートのほうを選んだ。もう一枚の犬は、水たまりに足を入れていたらしい。
どんな絵だったのだろう。
少し気になったが、目の前の犬を見ていると、こちらを選んだ理由もわかる気がした。
あまり乗り気ではなさそうな顔が、おかしかった。
日記へ目を戻す。
髪を似合ってると言ってくれた。
その一文だけ、昼食の話の途中に入っていた。
書いている間に思い出したのかもしれない。
澪は鏡の前の小皿を見た。髪留めが一つ置かれている。
指で触れてみても、褒められたときの声は思い出せなかった。
けれど、もう一度つけて会ったらどうだろうと考えた。
同じことを言ってほしいわけではない。ただ、これを選んだ自分を、彼が見てくれたことが嬉しかった。
ページの最後には、こう書いてあった。
次は、絵の用事がなくても誘ってほしいと言った。
言うのは恥ずかしかった。でも、本当にそう思った。
澪は口元を押さえた。
「……そんなこと、言ったんだ」
今からでも取り消したくなるほど恥ずかしかった。
でも、なかったことにはしたくなかった。
携帯電話を取る。
新しい通知はなかった。
時計を見て、まだ朝早いのだと気づいた。
澪は画面を伏せずに、日記の隣へ置いた。
ポストカードは、そこから少し奥へずらした。机に向かえば、自然に目に入る場所だった。
*
火曜日の昼休み、尚弥は携帯電話を持って廊下へ出た。
澪とは日曜日にも、昨日にも短いやり取りをしていた。
なのに、今日会えるかと尋ねるだけの文章が、なかなか送れなかった。
『放課後、少し会える?』
その後ろに、試した絵を見せたい、と付け足す。
実際、見せるつもりではあった。
買った紙と筆で描いたハマユウは、鞄の中に入っている。
尚弥は付け足した部分を消した。
最初の一文だけを送る。
返事は、昼休みが終わる少し前に届いた。
『うん。今日は練習もないよ』
風交駅で待ち合わせることになった。
尚弥は時間を確かめ、携帯電話を鞄へしまった。
午後の授業で、ノートの同じ行を二度読んだ。
板書を写すのが遅れ、隣の生徒に見せてもらった。
礼を言うと、眠いのかと聞かれた。
「ちょっと」
そう答えたが、眠気はなかった。
むしろ、廊下を通る足音まで気になっていた。
放課後、美術室へ寄り、顧問に今日は帰ると伝えた。
自分の机に置いていた画板を片づけていると、椎名が隣から顔を上げた。
「色、試した?」
「うん。何枚か」
「どうだった?」
尚弥は鞄から紙を出した。
椎名は手を拭いてから受け取った。
「こっちのほうが、花びら見えるね」
薄い色を置いた背景を指す。
尚弥も、その一枚を澪に見てもらおうと思っていた。
「まだ、色が濁ったところあるけど」
「次、そこで気をつければいいんじゃない?」
椎名は紙を返した。
「……さっきから時計、見すぎ」
尚弥は顔を上げた。
「待ち合わせ?」
「うん」
「じゃあ、行ってきなよ」
尚弥は紙をしまい、鞄を持った。
椎名の机の横を通るとき、一度足を止めた。
何か言いかけたが、彼女は次の色を作り始めていた。
「また明日」
尚弥が言うと、椎名は顔を上げずに片手を振った。
*
風交駅へ着くと、ベンチにはまだ誰もいなかった。
尚弥は腰を下ろし、鞄を隣に置いた。
見せるつもりの紙を出しかけて、もう一度しまう。
今日は、絵の話だけをして帰りたくなかった。
ポストカードを選んでいた横顔が浮かぶ。
電車が揺れたとき、すぐ隣で手すりを握り直した指。
改札の前で言われた、次は、という言葉。
会えば楽しい。
帰ってからも、次に会う日のことを考える。
そのたびに、澪も同じ気持ちだったらいいと思ってしまう。
けれど、彼女の言葉を都合よく受け取って、確かめないままでいるのは嫌だった。
自分が何を望んでいるのかを、今度は自分の言葉で伝えたかった。
坂の下から足音がした。
尚弥は顔を上げ、隣の鞄を膝へ移した。
「お待たせ」
澪が駅の入口に立っていた。
少し息が弾んでいる。
「急いだ?」
「坂の途中だけ。上に人が見えたから」
「歩いてきてよかったのに」
「最後だけだよ」
澪は鞄を持ち替えて、隣に座った。
頬にかかった髪を耳へ寄せる。
「今日、絵、持ってきた?」
尚弥は彼女を見た。
「うん。どうして?」
「昨日、色を試してるって送ってくれたから。見られるかなって」
尚弥は鞄を開けた。
紙を挟んだファイルを取り出し、一枚ずつ並べる。
「同じ花だけど、ちょっとずつ変えてみた」
澪は手を出す前に、尚弥の顔を見た。
「持っていい?」
「もう乾いてるから」
彼女は一枚を受け取り、光のほうへ向けた。
「これ、好き」
椎名が指したものと同じだった。
「花びらの先、ふわっとしてる」
「そこ、水が多くて少し滲んだ」
「失敗?」
「そう思ったけど……そのままにしてみた」
澪は紙を近づけたり、少し離したりした。
「私は、これがいいな」
尚弥は、直さなかった場所を見た。
自分では気になっていたところが、澪には好ましく見えている。
それを聞けただけでも、持ってきてよかったと思った。
「買った筆、使えた?」
「うん。まだ慣れないけど、前より細く塗れた」
「そっか」
澪は紙を返した。
尚弥は順番にファイルへ戻した。
「あの犬、飾った?」
「飾ったよ。机の、携帯置くところのそば」
澪の声が少し明るくなった。
「こっちを向いてるから、なんか見られてる気がする」
「宿題やってるか、とか?」
「そう。あの顔で」
尚弥は笑った。
不満そうな犬を、澪が机に向かうたびに見ている。
知らない部屋の様子を、少しだけ想像できた。
「買った日のことは、日記に書いてあった」
澪が言った。
「尚弥くんと、二枚見比べたって。読む前に見ても、ちょっと笑っちゃったけど」
尚弥は膝の上のファイルから手を離した。
「澪が選んだんだよ。そっちがいいって」
「うん。今も、そっちでよかったと思ってる」
澪はベンチの背にもたれかけ、すぐに姿勢を戻した。
古い木が、わずかに鳴った。
「最近、日記に尚弥くんのことを書く日が増えた」
尚弥は彼女のほうを見た。
「そうなの?」
「うん。絵のこととか、話したこととか。何も書いてない日を探すほうが難しいかも」
澪は言い終えてから、鞄の持ち手を指で折った。
「……書こうと思って、一緒にいるわけじゃないんだけどね」
尚弥は頷いた。
嬉しいと言いたかった。
けれど、その一言で済ませてしまったら、今日もまた、いつもの話へ戻ってしまいそうだった。
ファイルを鞄にしまい、ファスナーを閉じた。
*
「この前、画材を見に行った日」
尚弥が言うと、澪が顔を向けた。
「買い物が終わっても、帰りたくなかった」
澪は動かなかった。
尚弥は膝に置いた手を見た。
「ごはん食べたあとも。駅、こっちだからって言ったけど、本当は、まだ一緒にいたかった」
指先に力が入った。
思っていたより、声が小さかった。
「だから、もう少し見ていこうって言ってくれて、嬉しかった」
澪の靴が、地面の上で少し動いた。
「……私も、すぐ帰るの、嫌だったんだと思う」
尚弥が顔を上げると、澪は目を伏せた。
「日記にも書いてあるし。今、聞いてても、そう思うから」
尚弥は頷いた。
あのときの気持ちを、無理に思い出して答えてほしいわけではなかった。
今、彼女がそう言ってくれたことを、そのまま受け取りたかった。
「また会う理由、考えてたんだ」
澪がこちらを見る。
「絵を描くとか、道具を選ぶとか。そういうのがあれば、誘っても変じゃないと思って」
口にすると、少し情けなかった。
けれど澪は、笑わずに聞いていた。
「絵の用事がなくてもって言ってくれて……すごく、嬉しかった」
風が吹き、澪のスカートの裾が揺れた。
彼女は膝の上へ片手を置いた。
「今日は、絵を見せたくて呼んだんじゃないの?」
尚弥は首を振った。
「それも、見てもらいたかった。でも、それだけじゃなくて」
息を吸った。
澪の目を見ようとすると、喉が狭くなるようだった。
言わなければ、明日も会えるかもしれない。
今のまま、絵を描いて、他愛のない話を続けられるかもしれない。
けれどそれでは、会いたい理由をずっと隠すことになる。
「澪」
彼女が小さく頷いた。
「好きだよ」
言えたあとも、胸の音は収まらなかった。
澪は尚弥を見たまま、瞬きをした。
「……付き合ってほしい」
最後の言葉だけ、少し掠れた。
澪の指が、鞄の持ち手から離れた。
何か言おうとしたのか、唇がわずかに開く。
けれど、すぐには声にならなかった。
尚弥は待った。
答えに困らせているのかもしれない。それでも、冗談だとか、今のは忘れてほしいとか、逃げる言葉は足したくなかった。
「……嬉しい」
澪が言った。
その声に、尚弥は顔を上げた。
彼女の口元が、少し緩んでいた。
でも、笑顔になる前に、視線が膝へ落ちた。
「嬉しい、けど」
澪は自分の手を重ねた。
その指が、制服の布をつまんだ。
「明日の私にも、同じこと言える?」
尚弥は、すぐには答えられなかった。
今日、何度も考えて、やっと口にした言葉だった。
明日、澪がその瞬間を思い出せなかったら、寂しいだろう。
もう一度伝えるとき、今日より簡単に言えるとも思えなかった。
澪が顔を上げた。
返事を待つ目には、期待だけではないものがあった。
尚弥は、その目を見た。
明日も会いたいと思った。
今、伝えた言葉を、明日の彼女にも聞いてほしかった。
「言いたい」
手の力を緩めて、続けた。
「明日も」




