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第14話 それでも、隣にいたい

「明日も」


 尚弥の声を聞いて、澪は頷きそうになった。


 嬉しかった。

 好きだと言ってもらえたことも、明日の自分にも伝えたいと思ってくれたことも。

 今すぐ同じ言葉を返せたら、どれほどいいだろう。


 けれど、膝の上で重ねた手がほどけなかった。


 今夜、日記に書くことはできる。

 風交駅で、尚弥くんに好きだと言われた。

 私も好きだと答えて、恋人になった。


 明日の朝、その文字を読む自分を想像した。

 きっと、何度も読み返す。

 嬉しくなるかもしれない。会いたくなるかもしれない。

 でも、たった今、尚弥がどんな顔で待っているのかは思い出せない。


 恋人になった翌日に、隣へ座る距離さえ迷ったら。

 手を伸ばしてくれたのに、驚いて身を引いてしまったら。


 尚弥は、そのたびに傷つくだろうか。

 傷ついても、気づかせないように笑うのだろうか。


「……私といても、幸せに……なれないよ」


 口にした途端、胸が痛くなった。

 尚弥の表情が変わったのがわかり、澪は目を伏せた。


「一緒に出かけても、次の日には忘れちゃう。大事な話をしてくれても、また同じこと聞くかもしれない」


 日記をきちんと書けば、なくせる不安ではなかった。

 何度読んでも、それが自分の記憶に戻るわけではない。


「尚弥くんだけが覚えてること、どんどん増えていくんだよ」


 彼の靴のそばで、乾いた葉が動いた。

 澪はそれを見たまま続けた。


「もっと、いい子いるよ。昨日のこと、ちゃんと覚えてて……尚弥くんを寂しくさせない子」


 尚弥が別の誰かと並んでいるところを、想像してしまった。

 絵を見せながら、前にした話の続きをする。

 相手はすぐに笑う。説明し直す必要も、返事を待つ必要もない。


 嫌だった。


 自分から勧めているくせに、そうなってほしくなかった。

 澪は唇を噛み、膝の上の指を強く握った。


「私、普通じゃないから」


 声が細くなった。


「好きになってもらえて、嬉しいよ。だから……あとで、後悔してほしくない」


 言い終えると、尚弥が少し姿勢を変えた。

 澪は思わず顔を上げた。

 立ち上がるのかと思った。


 彼はただ、膝に置いた鞄を足元へ下ろしただけだった。


     *


「忘れられたら、寂しいと思う」


 尚弥が言った。


 澪は小さく頷いた。

 わかっていたことだった。それでも、本人の声で聞くと、喉の奥が苦しくなった。


「文化祭の次の日も、少し寂しかった。わかってたつもりなのに」


 その日のことは、日記で読んだ。

 駅で会って、物語の続きを聞いた。

 自分が楽しかったと書いた時間の中で、尚弥は寂しいと思っていた。


 澪が口を開きかけると、彼は言葉を継いだ。


「でも、話せて嬉しかったのも、本当だよ」


 尚弥は膝の上で、手のひらを軽く擦った。


「わからなかったら聞くから、昨日の話していいって言ってくれた。俺、何も話せなくなってたから、助かった」


 澪は彼を見た。


「そんなこと、言ったんだ」

「うん」


 尚弥は少しだけ口元を緩めた。


「そのあと、パン焦がした話してくれた」


 日記には残さなかったのか、澪にはわからなかった。

 自分が何を言い、どんなふうに笑ったのか。

 それでも、尚弥がその話を覚えていることは伝わった。


「俺が何かしてあげてるだけじゃないよ」


 尚弥の目が、こちらを向いた。


「この前、筆を買ったときも。澪が試した絵を見たいって言ってくれなかったら、買わなかったと思う」


 さっき見せてもらった、白い花を思い出した。

 花びらの先が少し滲んでいた。

 好きだと伝えたとき、尚弥はもう一度そこを見ていた。


「一緒に出かけて、俺は楽しかった。また行きたいと思ったし、次はどこに行こうかって、今も考えてる」


 澪は俯いた。

 嬉しくなってしまう自分を、どうしたらいいかわからなかった。


「今は、そう思ってくれてても」

「うん」

「何回も同じことがあったら、疲れちゃうかもしれない」


 尚弥はすぐには答えなかった。

 大丈夫、と簡単には言わなかった。


「うまく話せない日も、あると思う」


 少しして、彼は言った。


「でも、それが怖いからって、澪と会わなくなるほうが、俺は嫌だ」


 澪は制服の袖口を見つめた。


「……私じゃなかったら、もっと楽かもしれないよ」


 尚弥は息を吐いた。

 怒ったのかと思い、顔を上げる。

 彼は困ったように、こちらを見ていた。


「ほかの子ならって言われても、その子と出かけたいわけじゃないから」


 澪は返事ができなかった。


「澪と行きたいんだよ」


 尚弥はそう言って、目を逸らした。

 耳が赤くなっていた。


 澪は、ほどけなかった指をゆっくり離した。


     *


 風が駅の屋根を抜けていった。

 さっきより空が暗くなり始めている。

 いつまでここにいても、明日は来る。今日のことを忘れない方法は、この場でどれだけ考えても見つからなかった。


 それでも尚弥は、会いたいと言ってくれている。


 澪は彼の横顔を見た。

 さっき好きだと伝えたときも、尚弥は怖かったのかもしれない。

 返事を待つ間、何度も手を握り直していた。


 その人に、自分はほかの誰かを探してほしいと言った。


 尚弥のためだと思っていた。

 けれど、本当にそれだけだっただろうか。


 付き合ってから、やっぱり無理だったと言われるのが怖かった。

 明日の自分が彼を傷つけたと日記で知り、取り返せないまま謝るのが怖かった。

 それなら今、断ってしまえばいい。

 恋人になる前なら、失うものも少なくて済む気がした。


 でも、もう好きだった。


 今日、会えるとわかったときから嬉しかった。

 花の絵を覗き込み、犬の話をしている間、帰る時間のことを考えたくなかった。

 尚弥が笑うと、もう少しその顔を見ていたくなった。


 それは、日記に書いてあったからではなかった。


「……さっき、もっといい子がいるって言ったけど」


 尚弥が顔を向けた。


「うん」


 澪は鞄の端に手を置いた。

 掴もうとして、やめた。


「本当は、ほかの子のところに行ってほしくない」


 尚弥の目が少し見開かれた。

 澪は、もう顔を上げていられなかった。


「私が言ったのにね。想像したら、嫌だった」


 声が震えた。

 それでも、言い直さなかった。


「私も一緒に行きたいし、次に描いた絵も見たい。……誰より先に、見せてほしいって思う」


 言葉にすると、欲張りな気がした。

 けれど、ほかの誰かのほうがいいと言っていたときより、ずっと本当のことだった。


 澪は息を吸い、顔を上げた。


「私も、尚弥くんが好き」


 目が合った。

 尚弥は動かなかった。澪が言い終えるのを待っていた。


「忘れちゃっても、また会いたい。だから……」


 一度、唇を結んだ。

 明日のことは、まだ怖かった。

 その怖さごと、目の前の人に話していきたかった。


「私と、付き合ってください」


 最後だけ、いつもより丁寧な言葉になった。


 尚弥が頷いた。


「うん」


 短い返事だった。

 けれど、すぐには続けられないらしく、彼は一度息を吐いた。


「……よろしく」


 澪も頷いた。


「よろしく、お願いします」


 言ってから、少し笑ってしまった。

 尚弥も口元を緩めた。


「なんか、挨拶みたいになった」

「うん」


 澪は目元に触れた。

 いつの間にか、指先が濡れた。

 慌てて拭うと、尚弥が少し身を動かした。


「大丈夫」


 今度は、自分から言えた。


「嬉しいだけ」


 尚弥は手を止め、ほっとしたように肩を下ろした。

 その顔を見て、また涙が出そうになった。


     *


 しばらく、二人ともベンチから動かなかった。


 恋人になった。

 何度考えても、目の前の景色は変わらなかった。

 古い屋根も、草の伸びた線路も、そのままだった。

 なのに、隣の尚弥を見るだけで、澪は頬が熱くなった。


「……そろそろ帰ろうか」


 尚弥が言った。

 坂の下では、家の窓に明かりがつき始めていた。


 澪は頷き、鞄を肩へ掛けた。

 尚弥が立ち上がって、自分の鞄を持つ。


 歩き出す前に、澪はその袖をつまんだ。


「尚弥くん」


 彼が振り向いた。

 澪は一度手を離した。


「手、繋いでもいい?」


 尚弥は自分の手を見てから、鞄を反対側へ持ち替えた。


「うん」


 差し出された手に、澪は指先で触れた。

 思っていたより、冷たかった。


「冷たいね」

「ずっと、緊張してたからかも」


 澪が顔を上げると、尚弥は少し困った顔をした。


「今も、してるけど」


 澪は笑った。


「私も」


 握り方がわからず、指を少し動かした。

 尚弥も握り直して、ようやく手のひらが合った。


 歩き始めると、腕をどのくらい動かしていいのかわからなかった。

 澪が手元を見ていると、尚弥が足を緩めた。


「歩きにくい?」

「ううん。慣れないだけ」


 彼は頷いた。

 手を離そうとはしなかった。


 駅の入口を抜け、坂へ出た。

 並んで下りるには、いつもより少し近くを歩く必要があった。


 明日の朝、これを思い出せなかったら。

 その不安は、まだ胸の隅にあった。


 澪は、繋いだ指に少し力を込めた。

 尚弥がこちらを見た。


「どうした?」


 澪は首を振りかけ、言葉を選び直した。


「もう少し、ゆっくり歩きたい」


「……うん」


 尚弥の歩幅が小さくなった。

 澪もそれに合わせて、坂を下りた。

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