第8話 今日の終わりに
階下のスピーカーが、小さく音を立てた。
『本日の一般公開は、十五時三十分までです。終了まで、残り三十分となりました』
尚弥は壁の時計を見上げた。
澪も同じように顔を上げ、それから膝の上のハンカチを畳んだ。
「もう、そんな時間なんだ」
声には、まだ少し鼻にかかった響きがあった。
「……帰る?」
尚弥が尋ねると、澪は鞄にハンカチをしまった。
「片づけがあるから、終わるまではいるよ」
「そっか」
また、会話が途切れた。
尚弥は膝の上で指を組み直した。何か見に行こうと誘いたかったが、もう少しここにいたいのかもしれなかった。
澪が鞄の持ち手を握る。
「絵、もう一回見てもいい?」
尚弥は彼女のほうを向いた。
「俺の?」
「うん。さっき、ちゃんと見られなかったから」
返事をするまでに、少し間が空いた。
澪が自分からあの部屋へ戻りたいと言うとは、思っていなかった。
「まだ、飾ってるよ」
当たり前のことを答えてから、尚弥は付け足した。
「行こうか」
澪はうなずいた。
二人で立ち上がると、彼女はスカートについた埃を払った。尚弥も自分の制服の裾を確かめた。
座っていたところに落とし物がないか見てから、階段を下りた。
*
旧図書室の入口で、澪の足が少し遅くなった。
尚弥も立ち止まった。
先に入っていいものか迷っていると、受付の椎名が顔を上げた。
「まだ閉めてないよ。どうぞ」
いつもと同じ声だった。
澪は軽く頭を下げ、扉を通った。
尚弥は椎名のそばで一度足を止めた。
「さっき、ありがとう」
「うん」
椎名はそれ以上尋ねず、机の端に寄っていた鉛筆を揃えた。
「当番の子、クラスに戻ったから。今は私がいる」
「悪い。少ししたら戻る」
「片づけまでにはね」
尚弥はうなずき、澪のあとを追った。
窓際の絵には、斜めから光が当たっていた。
澪は額の正面に立つと、鞄を両手で持ち直した。
尚弥は、彼女の横に立った。
さっきと同じ場所なのに、どこを見ればいいのか迷った。澪の顔ばかり確かめないよう、絵へ目を向ける。
「このとき、何を話してたの?」
澪が尋ねた。
「描いてたとき?」
「うん」
尚弥はベンチに座る彼女を見た。
「最初、日向さん、すごく背筋を伸ばしてた」
「そんなに?」
「証明写真を撮るみたいに」
澪が自分の背中を少し伸ばした。
「こんな感じ?」
「もうちょっと」
「これ以上?」
尚弥は小さくうなずいた。
澪は肩を下ろし、自分の姿が描かれたところを見た。
「頑張ってたんだね、私」
「普通にしててって言ったら、難しいって言われた」
「それは難しいよ。描かれてるって思ったら」
尚弥の口元が、少し緩んだ。
「でも、そのあと注文が多いって怒られた」
「雨宮くんが?」
「うん」
澪が息を漏らすように笑った。
その顔を見て、尚弥はようやく肩の力を抜いた。
同じ話を覚えていて笑ったのではない。
今、自分の話を聞いて笑ってくれた。
尚弥は、それをもう少し見ていたかった。
「髪、ずっと押さえてたんだ」
澪が絵を覗き込む。
「途中から風が強くなって。手、下ろしてていいよって言ったんだけど、また髪が顔にかかるから」
「じゃあ、この手は仕方なくなんだね」
「うん。でも、そっちのほうがいいと思って」
言ってから、尚弥は少し顔を伏せた。
澪はもう一度絵に目を戻した。
「私も、こっちでよかった」
声は、さっきより落ち着いていた。
「背筋伸ばしてたら、駅で誰かに怒られてるみたいになってたかも」
「それは、描くほうも困る」
二人で少し笑った。
それから澪は黙って、屋根の下から足元の草まで、ゆっくり絵を見た。
尚弥は感想を尋ねなかった。
彼女が顔を上げるまで、隣で待った。
*
旧図書室を出る前に、尚弥は受付の内側に置いた鞄を取った。
携帯電話を確かめると、終了まで二十分ほどあった。
「俺のクラス、見る?」
澪はパンフレットを鞄から出しかけた。
「何をやってるんだっけ」
「物語を読んで、途中で道を選ぶやつ」
「どのくらいかかる?」
「十分もかからないと思う」
澪は壁の時計を見てから、うなずいた。
「行ってみたい」
尚弥は椎名に戻ると伝え、澪と渡り廊下を渡った。
二年二組の前では、午前中に尚弥と受付をしていた男子が、投票用紙を数えていた。
「お、雨宮。お客さん?」
「うん。まだ大丈夫?」
「もちろん。案内は任せた」
差し出された用紙を受け取り、尚弥は入口の布を持ち上げた。
澪が中に入ってから、あとに続く。
机と段ボールで作った通路は、二人で並ぶには少し狭かった。
尚弥が後ろを歩くと、澪は最初の文章の前で止まった。
『机の引き出しから、昔の友人の手紙が出てきました。引っ越してから、もう何年も会っていません』
澪は下の選択肢へ目を動かした。
「手紙を書くか、会いに行くか……」
振り返り、尚弥を見る。
「どっちがいい?」
「俺、結末知ってるから」
「じゃあ、顔に出さないでね」
「そんなに出る?」
「今、ちょっと出てる」
尚弥は口元を押さえた。
澪は迷ったあと、『もう一度、会いに行く』の矢印を選んだ。
曲がり角で立ち止まり、壁を指す。
「これ、雨宮くんが描いた?」
「なんで?」
「矢印の先。地図につけてくれたのと似てる」
尚弥は壁を見た。
急いで描いた線の先が、少し曲がっていた。
「……うん」
「やっぱり」
澪は嬉しそうに言った。
昨日のやり取りが浮かび、尚弥は何か言いかけた。
けれど、澪の手には今日も持っていたパンフレットがあった。彼女はそれを少し持ち上げて、壁の矢印と見比べていた。
「よく見つけたね」
「見てるから」
尚弥は返事に困った。
澪は気づかず、次の文章へ進んだ。
選んだ先には、友人を訪ねた主人公が、久しぶりに向かい合う場面があった。
会わない間に二人の好きなものは変わっていて、昔の話だけでは会話が続かない。
最後は、近所にできた店へ一緒に昼食を食べに行くところで終わっていた。
「このあと何を食べたんだろう」
読み終えた澪が言った。
「そこ?」
「だって、お店まで行って終わっちゃった」
「続き、書いた人に聞いておく」
「うん。気になる」
出口の布をくぐると、受付の男子と目が合った。
澪が一瞬きょとんとして、振り返る。
「あれ、戻ってきた」
「そういう道なんだって」
尚弥は今朝、自分も同じことを言ったとは付け加えなかった。
澪が投票用紙に何か書いている間、落ちかけていないか入口の看板を見上げた。
昨日貼り直したテープは、まだしっかりついていた。
*
片づけのために別れる前、尚弥は階段のそばで澪を呼び止めた。
「日向さん」
携帯電話を鞄から出す。
昨日の夜から考えていたことなのに、いざ言おうとすると喉が詰まった。
「連絡先、聞いてもいい?」
澪は尚弥の手元を見た。
「……私の?」
「うん」
彼女が携帯電話を探し始めて、尚弥はほっとした。
けれど、取り出したあと、澪の手が止まった。
「前の日と同じこと、聞いちゃうかもしれないよ」
尚弥は顔を上げた。
「読んでも、ちゃんとわからないときもあるから」
澪は画面を指先で押さえていた。
尚弥は少し考えて、答えた。
「そのときは、また答える」
澪がこちらを見た。
「俺の説明がわかりにくかったら、それも言って」
少し間を置いて、澪はうなずいた。
二人で画面を見せ合った。
尚弥の連絡先に『日向澪』という名前が増えた。
「何か送ってみて」
澪に言われ、尚弥は文字を打った。
『雨宮です』
すぐそばで通知音がした。
澪は画面を見て、口元を緩めた。
「知ってるよ」
「最初、何送ればいいかわからなくて」
今度は澪が画面に触れた。
尚弥の手の中で、携帯電話が短く震える。
『日向です』
顔を上げると、澪がこちらを見ていた。
尚弥も少し笑った。
終了を知らせる放送が流れた。
廊下の向こうで、誰かが片づけの担当を呼んでいる。
「じゃあ、また」
澪が言った。
「うん。また」
尚弥は、彼女が階段を下りるのを見送った。
手の中の画面には、二つの短い挨拶が並んでいた。
*
夜、澪は机の上にノートを開いた。
鞄から出したパンフレットは、角が少し潰れていた。
校内図を広げると、旧図書室を囲んだ鉛筆の丸と、先の曲がった矢印が見えた。
澪は指で折り目を伸ばし、ノートの横に置いた。
今日のことは、まだ覚えている。
尚弥の声が大きくなったとき、喉が詰まって何も言えなくなったこと。
階段で待っていてくれたこと。
隣に座ってもいいかと尋ねられて、少し迷ってから鞄を動かしたこと。
ペンを持ち、日付を書いた。
雨宮尚弥くん。二年二組、美術部。
風交駅で何度か会っている人。
今日、記憶のことを話した。
そこで一度、手が止まった。
楽しかったことだけを書くこともできた。
でも、明日の自分が続きを話すなら、どうして記憶のことを打ち明けたのかも、知っていたほうがいい。
絵を描いてもらった日のことを思い出せなくて、怒られた。
怖かったし、悲しかった。
泣いて部屋を出た。
でも、追いかけてきて、謝ってくれた。
今度は、最後まで話を聞いてくれた。
澪は書いた文章を読み返した。
間違ってはいない。けれど、これだけでは、階段にいた時間は伝わらない気がした。
言葉が出るまで待ってくれた。
そう書き足してから、次の行へ進んだ。
絵をもう一度見に行った。
風交駅のベンチに、私が座っていた。
髪を押さえて、少しだけ雨宮くんのほうを向いていた。
あの絵が好きだと思った。
澪はペンを止めた。
絵の前で、尚弥が笑った顔を思い浮かべた。
こちらが笑うと、ようやく安心したように口元を緩めた。
その顔を見て、胸の奥が温かくなった。
今朝も、似た気持ちになった。
日記を読んだだけではわからなかったのに、旧図書室で彼を見つけたら、もっと話したいと思った。
今日、怒られて悲しかったことは消えない。
それでも、最後に別れるとき、もう少し一緒にいたかった。
私は、この人が好きなんだ。
そう思うと、ペンを握る手に力が入った。
澪はその言葉を、しばらく書けずにいた。
書いてしまったら、明日の自分より先に、尚弥に見つかってしまう気がした。
携帯電話を手に取る。
画面には、『雨宮です』という短いメッセージがあった。
その下に、自分の返事がある。
澪は一度、文字を入力する欄に触れた。
けれど、何を送るか決められず、そのまま机へ戻した。
ノートには、尚弥のクラスで一緒に物語を読んだことを書いた。
矢印を見つけたこと。最後の昼食のことを、彼も知らなかったこと。
連絡先を交換したことも忘れずに加えた。
ページの終わりが近づいていた。
一緒に笑えた。
書いてから、少しだけ迷った。
明日も同じように笑えるかは、わからない。
けれど、今日そうだったことまで曖昧にしたくはなかった。
最後の行に、もう一つ書いた。
また会いたい。
澪はインクが乾くのを待って、ノートを閉じた。
枕元へ置く前に、曲がった矢印のあるパンフレットを、今日のページに挟んだ。




